第27話「私のために」
その日の朝、デスクに向かうと、佐藤がいつものマグカップを片手にお茶を飲んでいた。
「……あれ?」
僕は、思わず、二度見した。
「そのマグカップ、ネコだっけ。今まで、イヌの柄じゃなかった?」
「ん? ああ、これ? なんか、よくわかんないけど、最近ネコが凄く可愛く思えてきてな」
佐藤は、特に気にしてはいない様子で笑いながら、ネクタイを軽くつまんで見せた。そこにも、猫の柄が織り込まれている。
「ネクタイまで!前まで犬派だったんじゃ……」
「あー、俺もそう思ってたんだけどな。気づいたら、猫グッズばっか手に取るようになっちまって」
「……そっか。ネコは気まぐれだし、佐藤に似合ってるよ」
「褒めてるのか、それ?まぁいいけどさぁ」
(これは、もしかしてあの時の影響が残ってるのかな)
僕は、まどかさんへの確認事項として、頭の片隅にメモをしておいた。
――その日は、いつもより少し早く、仕事を切り上げた。
デスクを片付け、鞄を持って立ち上がると、視界の端で、佐藤と一ノ瀬さんが、妙に慌てた様子で目配せしているのが見えた。
(……気のせいかな)
特に気にも留めず、僕はオフィスを出た。
いつもの帰り道。駅とは反対方向、あの裏路地へと続く道を歩きながら、僕は、背後から、何かの気配を感じていた。
振り返っても、誰もいない。けれど、電柱の陰や、自動販売機の裏で、何かがさっと動くような、そんな気配だけが、確かにあった。
(……まさかな)
僕は、あえて気づかないふりをしつつ、一度立ち止まってスマホを操作してから歩き始めた。
(佐藤先輩、バレてないですよね……?)
(大丈夫だって、俺たち、プロだから)
(プロって、何のプロですか……)」
背後からの小声のやり取りが、思いのほかしっかりと聞こえることに、僕は頭を痛めるのだった。
曲がり角を折れ、赤提灯の見える裏路地に差し掛かり、さてどうしようかと考えてると。
「――無花果さん!」
前方から、聞き慣れた声が、僕の名前を呼んだ。
顔を上げると、いつもの黒髪をなびかせながら、まどかさんが、こちらに向かって、まっすぐに歩いてきた。
「え……」
そして、当然のように隣に並び立った。
「遅かったですね。ずっと、待ってたんですよ」
「ちょ、まどかさん……?」
「今日も、お仕事お疲れ様です。私のために、仕事を早く終わらせてくれて嬉しいです」
そして、これまで見たこともないくらい、甘く柔らかい声で、そう囁いた。
「……え、うそ、彼女……?」
佐藤の、驚きと動揺の入り混じった声が、路地に響く。
「無花果先輩に、彼女……」
一ノ瀬さんも、目を丸くして、立ち尽くしていた。
「あ、あの、先ほどから後ろにいるお二人は、琴葉さんのお知り合いですか?」
そう言うと、一瞬の逡巡を経て、二人に近づいていき、
「初めまして。うちの琴葉がお世話になってます」
その言葉に、佐藤と一ノ瀬さんは慌てながら、
「あ、いや!こちらこそお世話になってます!今日はたまたま後輩と帰ってる途中で」
「そ、そうです! 偶然です、偶然!」
「じゃ、じゃあ、俺たちはこれで! お邪魔しました!またな、無花果!」
二人は、そそくさと、来た道を引き返していった。その足取りは、まるで、叱られるのを予知した子供のように、速かった。
やがて、二人の姿が完全に見えなくなったところで、ふう、と小さく息を吐いた。
「こんばんは、無花果さん。どうしました、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
先ほどの甘さが嘘のように、いつもの表情に戻っていた。
「……ありがとう、連絡を見てくれたんだね。でも、どうして、あんな、誤解を招くようなことを」
まどかは、不思議そうにしばらく僕の顔を、見つめていた。それから、
「場が乱れると思いまして」
いつもの、平坦とした顔で言われ、
「それに何の意味が……」
「まあいいじゃないですか。それにあのまま放っておいたら、この店の場所まで、辿り着いていたはずです」
「……うん、だから今日は遅くなるかもって連絡をしたんだけど」
「だから、助けに来てあげたんですよ」
彼女は、悪びれもせずに、そう言った。
「その結果、あらぬ誤解が生じたけどね……」
「ふふ」
少しだけ、口角を上げ、
「それに、こういう場はなかなかありませんからね」
「え、それはどういう?」
「観客のいる舞台で、『彼女』という役割を演じることですよ」
「勝手に、僕の人間関係で遊ばないでよ」
「まぁまぁ。それに――」
そこで、一瞬だけ視線を落とし、独り言のように呟いた。
「……不思議なものですね。想像よりも、簡単に演じられてしまうとは」
「え?」
上手く聞き取れずに聞き直すと、冗談めかしながら
「聞き取れなかったということは、無花果さんは聴覚オンチ(笑)ですね」
そう言うと、いつもの調子で、僕の先を歩き始めた。
「さあ、行きましょうか。遥叶さんの新作料理が待ってますよ」
僕は、その背中を追いながら、ふと、あることを思い出した。
「そういえば、今日、佐藤のマグカップとネクタイ、ネコ柄になってたんだよ。あいつ、イヌ派だったはずなのに」
まどかは、足を止めて僕を見つめて。
「あら、それはきっと。誰かが願ったネコが心の中でくつろいでいるんですよ」
「それはどういう意味?」
彼女は柔らかく、目元を緩めながら
「秘密です」
そう言うと、少しだけ、笑った
「さあ、早く行きますよ」
そうして僕たちは、肩を並べて『みやこや』に向かうのだった。




