第25話「イチジクの中身は――」
※HOPEプロジェクトは、7話から9話の話となります。
――HOPEプロジェクトの最中、『みやこや』にて――
暖簾を下ろした後の静かな店内で、私は湯呑みを片付けながら、カウンターの隅で本を読むまどかに声をかけた。
「もう、五日も来てないねぇ、あの子」
「六日ですよ、正確には」
本から顔を上げずに、淡々と答えた。まるで、カレンダーに印でもつけているかのような、迷いのない即答だった。
「あら、ちゃんと数えてるんだ」
「観測者として当然です」
「観測者ね」
私は、ふふ、と小さく笑いながら、まどかの隣に腰を下ろした。
「無花果さん、倒れたりしてたらしゃれにならないよ。あんた、心配じゃないのかい?」
「心配、というのは、感情的な言葉ですね」
ペン先で軽くノートの端を叩きながら、少しだけ視線を落とした。
「ただ、大きな案件を抱えているという話は聞いていましたし。……最適化はまだ完成していません。こちらからの供給を継続しなければ、緩やかに減衰します。理論上、今頃は、視覚も味覚も、元の状態に近づいているはずです」
「理論上、ね」
私は、その言葉を、わざとらしく繰り返した。まどかは、一瞬だけ間を置いて、身じろぎをする。
「……何か、言いたそうですね」
「別に。ただ、理論の話をする割には、随分と早口だったなと思って」
彼女は、それには答えず、ノートに視線を落とした。けれど、ペン先は、さっきから一文字も動いていない。
「ねえ、まどか」
「なんですか」
「あんた、あの子のこと、実験のサンプル以上に、気にかけてるんじゃないのかい」
「……そんなことはありません。私は、常に客観的な立場から物事を見なければならないのです」
そう言うと、パタン、と音を立ててノートを閉じた。いつもより、少しだけ、強い音だった。
「観察対象の状態を確認できないことを気にしているだけで、それ以上の感情はありませんよ。強いて言えば、燃え尽きて灰になっているであろう無花果さんを早く観察したいだけです」
「なおさら早く見に行ってあげなきゃ可哀想じゃないかい。風に飛ばされてどこかに行っちゃうかもしれないよ」
私は、そう言いながら、まどかの湯呑みに、熱いお茶を注ぎ足した。
「まあ、心配なら、たまには様子を見に行ってあげたらどうだい。あんたなら、道端でばったり会うくらい、簡単なんじゃないのかい」
「……私は、願いを叶える便利な道具ではありません。観察対象への過干渉は結果を台無しにする可能性があります。あくまで、本人の意思でここに来るなら別ですが」
「あら、ずいぶん機械的な言い方だねぇ。頼りにされるのが、そんなに嫌かい」
面白がるように言うと、らしくもなく、唇を尖らせて、
「過干渉はだめですよ。結果に影響が出てしまいますし……もう少し様子を見ましょう」
「もう少しね。珍しいね、あんたが明確な期間を定めないなんて」
しみじみとそう言うと、まどかは、大人びた表情の裏から、幼さを覗かせ、
「……遥叶さんは、時々、意地が悪いですね」
「あら、私はただの事実を言っただけだよ」
そう言って、私が笑うと、諦めたように、小さく息を吐いた。
「……あと三日待って、彼が来なければ、会いに行きます。それだけです」
「三日、ねぇ」
私は、その"三日"という妙に具体的な数字に、また小さく笑ってしまった。
まどかは、それ以上何も言わず、本の続きに視線を戻した。けれど、そのページは、さっきから、一枚もめくられていなかった。
――三日以内に彼が来てくれたので、結局、様子を見に行くことはなかった。
――HOPEプロジェクトを終えた日――
あの子が卵焼きを頬張っているのを横目に、私は洗い物をしながら、まどかの様子を窺っていた。
あの日、無花果さんに「あーん」をしていた顔は、いつもの涼しさが嘘のように、頬が緩みきっていた。
閉店後、片付けをしながら聞いてみる。
「今日は随分積極的だったねぇ、あんた」
「積極的、ですか?」
「あーんまでしてさ」
まどかは、取り繕う前に、頬をふわりと緩めながら、
「……予想外の結果をくれたご褒美ですよ」
「予想外?」
「私の見立てでは、今の無花果さんなら、大きな案件に対して、後輩を立てず、『全部僕に任せろ』と、一人で無双するはずでした。冴えた状態の彼なら、それくらいの万能感を持っていてもおかしくありません。そして、途中でオーバーヒートしてダウンし、ボロボロの状態でこの店に転がり込んでくる――そう考えていました」
「それが、違ったんだね」
「ええ。無花果さんは、三人で支え合った。……想定外の結果とは、これほど嬉しいものなんですね」
まどかは、そう言うと、湯呑みに残ったお茶を、静かに飲み干した。私は、それ以上何も聞かずに、ただ微笑んでいた。
――第9話の夜、三軸になった無花果を見送った後――
「無花果さん、また明日」
まどかは、いつも通りの調子で見送ったあと、しばらく、閉まった引き戸をぼんやりと眺めていた。
「どうしたんだい、あんた」
私が声をかけると、一瞬、虚を突かれたように肩を揺らし、けれどすぐに、涼しい表情を取り戻す。
「いえ。……視覚、味覚、聴覚。三つの経路が、綺麗に繋がりました。理論上、これで、私の観測はほぼ完成に近づいたはずなんです」
「はずなんです、って。何か気になることでもあるのかい」
「……最適化された人と、その人のために変わる職場。これはおおむね予想通りです。おそらく『彼』はこれから一時的に居心地の良い環境で自尊心や承認欲求を満たす方向に進むのでしょう。……人の本質はそういうものですからね」
そう呟くと、口元から、笑みの温度がすっと抜け落ちた。
私は、その様子を見ながら、内心でため息をつく。ああ、これは、まだ”あの事件”の結果を引きずっているのだと。
「どうしたんだい、そんな顔をして。『無花果さん』を選んだのはあんたなんだから、最後まで見てあげるんだよ」
(彼の変化がどうか、まどかの想定を超えてくれますように)
――第11話の夜、ゆるみねこが生まれた日――
「今日、あんた、随分と可愛いものを描いてたねぇ」
私がそう言うと、まどかは、心外だとでも言うように、眉をきゅっと寄せた。
「可愛いだけの落書きじゃありませんよ。あれは、緻密な計算に基づいた、脱力誘導のためのデザインです」
「はいはい。……でも、珍しいじゃないの。あんたが、誰かのために何か作るなんて」
まどかは、一瞬、言葉に詰まった。
「無花果さんなら、もしかしたらと思ったんです」
「もしかしたら?」
「どこかの誰かのように、馬鹿みたいに優しく、利他的な人なのかもと。本来なら、最適化された人間の"なりたい姿"は、もっと利己的なものになるはずでした。誰かを蹴落としてでも、自分の欲しいものを得ようとする方向に。……でも、無花果さんが願うのは、いつも、他人のことばかりです。焦っている同僚さんのために、何かできないかと。眉間に皺を寄せて、悩んでいる。だから――」
少しだけ、照れくさそうに、それでいて誇らしげに言った。
「かけてみたくなったんです、『彼』の本質に。あの2匹のネコは、私から見た無花果さんとその同僚の方です。もし、『彼』が本当に利他的であれば、あのネコは同僚の方に届き、今後起こりうる問題に対して、私が動くときに土台として働くでしょう。もし届かなければ、その時は……」
私は、その言葉を聞いて、ただ静かに微笑んだ。
「あんたも、随分変わったねぇ」
(私から見たら、2匹のねこは、あんたと無花果さんなんだけどねぇ)
「……そうでしょうか」
まどかは、そう言うと、また、いつもの飄々とした顔に戻って、本を開いた。けれどその横顔は、これまでよりも、ずっと柔らかく見えた。




