第23話「はじまりの味」
※時系列は、1話目より前となります。
暖簾を片付けようかという、夜も更けて、あたりがすっかり静まり返った頃だった。
カラン、と引き戸が鳴り、お客が滑り込んできた。 ……いや、滑り込んできたというよりは、崩れ落ちるのをどうにか足で支えながら入ってきた、と言った方が正しかった。
「……あの、まだ……やって、ますか……?」
すり切れたスーツを纏った若い男性が、死にそうな顔をしてこちらを見ていた。
その目は何かを憎んでいるわけでも、誰かに怒っているわけでもなく、ただ自分の足で立っていることすら奇跡のような、すり減りきった絶望の色をしていた。
(ああ、まただねぇ)
私はエプロンのポケットで手を拭きながら、静かに微笑みかけた――。
「いらっしゃい、注文は何にする?」
彼はおぼつかない足取りで席につくと、
「……えっと、あ……すいません。……全然頭が回ってなくて、何かお腹にたまるものと……あと、ビールをお願いします」
何も考えられず、ただ、何かを飲み込むかのように彼は注文をした。
「はぁい、うちは生姜焼きがおすすめだから、ちょっと待っててね」
私の声が聞こえているのかも怪しく、彼は糸が切れたかのようにじっと待っていて。
「はい、お待たせ。うちの自慢の生姜焼きだよ、温かいうちに食べて」
そう言って差し出すと、彼は掻き込むようにご飯を口に運んで、涙を流しながら。
「……美味しい、です」
その一言をこぼした瞬間、彼の乾ききった目に、ほんのわずかに生気が戻ったのを私は見逃さなかった。
――そして、彼は注文したビールには口をつけないまま、最初よりもほんの少しだけ地に足が着いたような足取りで、店を後にしていった。
――それから、数日後の夜。
カラン、と引き戸が鳴り、控えめな足音が店内に響いた。顔を上げると、そこに立っていたのはあの日の青年だった。相変わらず疲れた顔はしているものの、あのときのような「いつ消えてもおかしくない危うさ」は少しだけ薄れていた。
「いらっしゃい、……今日は、どうします?また、ビールとご飯にします?」
私がそう声をかけると、彼は少しだけ戸惑ったように目を伏せ、それから小さく首を横に振った。
「あ、えっと……ビールは、大丈夫です」
「あれ、いいのかい。あのときは頼んでいたのに」
「……あの時は頼んだのに飲めなくて申し訳ありませんでした。ビールはやめたんです。あの時、ここで食べたご飯が美味しくて、お酒を飲まなくても、気持ちが晴れることを知ったので」
少し恥ずかしそうに、けれどどこかすっきりと落ち着いた声だった。
(おやおや、これはもしかしたらね)
私は割烹着のポケットに手を入れながら、そっと、けれど、目を離せずに、彼の変化を見つめていた。絶望の底でただお酒に逃げようとした男が、今は自らの足で、純粋に「ここでの食事」を選びに来ている。
「あら、じゃあ、今日も自慢の生姜焼きを作ってあげるね、ええっと、何さんだっけ?」
「あ、無花果 琴葉です。花も実も無いとかいて、無花果です」
「自分の名前なんだから、そんな悲しい言い方をしないであげてよ」
「……前に来た時に、部長に凄く怒られてつい。でも、どうしてかな。今はあまり気になっていません。多分、前に食べた生姜焼きの美味しさで忘れられたのかも」
困ったように笑って。注文を終えた彼は、前よりも少しだけ背筋を伸ばして、静かに料理を待っていた。
――
閉店後の静まり返った厨房で、私はカウンターの隅に置いたスマートフォンを手に取った。 画面越しに向こうの回線がつながるのを待つ間、あの男性――無花果 琴葉の、少しだけ背筋が伸びた後ろ姿が脳裏をよぎる。
呼び出し音が数回鳴ったあと、すぐに無機質な声が返ってきた。
「……遥叶さん、どうしました、こんな時間に?」
画面の向こうの彼女は、今も論文の山やメモに囲まれていることだろう。
「あら、まどか。名前じゃなく、『お母さん』と呼んでといつも言っているじゃないの」
「えぇ……面倒ですね。私は、宝物は名前で呼ぶことにしてるんですよ」
「またそんなこと言って。それより今日面白いお客さんが来たんだよ」
「なんですか。性別不明の全身黒タイツの人が来たら、すぐに通報するんですよ」
「あはは、蝶ネクタイをつけた小学生はうちの近所に住んでいないから大丈夫よ。」
彼女は湯のみを口に運んでから、心底うれしそうな顔をして、
「そうじゃなくて、私の料理を1回食べただけでお酒をやめた人がいたんだ」
「……それは本当ですか。たった一回で?」
まどかの声のトーンが、わずかに低く、しかし熱を帯びるのが分かる。私はエプロンを外し、カウンターの椅子に腰掛けながら、あの夜からのやり取りを語り始めた。
絶望の底ですり減り、お酒で自分を保とうとしていた男が、温かい定食によって「自分の足」で立ち、自発的に店を再訪したこと。そして、アルコールに逃げるのをやめ、日常のささやかな味を選び取ったこと――
話し終えると、電話の向こうからはしばらく沈黙が続いた。
やがて、微かに息をのむ気配がした。
まどかの返事を待たずに、
「まさか、たった一回で私の願いを受け入れる人がいるなんてねぇ。これは、あんたも興味があるんじゃないのかい?」
長年の願いが、少しだけ報われたように、温かい呟きが響いた。
「……その人の名前は?」
「急だねぇ。名前は――」
夜の静けさの中、まどかはまるで新しい発見をした研究者のように、声をひそめて笑った。




