第22話「望んだ場所」
朝食を終え、女将さんが片付けに立った後。カウンターに残った僕は、湯呑みを両手で包みながら、ふと気になっていたことを聞いてみた。
「そういえば、一応確認なんだけど、職場のみんなは元に戻ったんだよね?」
「ええ、もちろん。それに、無花果さんによる影響もこれまでのように周囲には出ませんよ。もし出たとしても、それは人間同士で生じる一般的なものです。ただし、良い変化だけは残してありますよ」
まどかは、少しだけ微笑んだ。
「えっ、それはどういうこと?」
「同僚さんと後輩さんからは、無花果さんにより生じた影響は消してあります。ただ、部長さんに関しては、本人の意思が良い方向に向いていましたので、そこは残してあります」
「……それはどういう意味なの」
「例え無花果さんの影響があったとしても、部長さんは本心から優しい上司になりたいと願う心が発芽したのです。それを枯らしてしまうのは、惜しいと思いまして」
僕は、その言葉に少しだけ目を大きくして……
「君は、どこまでも――」
それを聞いた彼女は、少しだけ驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと微笑んだ。いつものからかうような笑みとは、どこか違う、柔らかい表情だった。
「ねえ、改めて聞きたいんだけど。君は、結局、僕に何をしたの?」
まどかは、湯呑みを置くと、少しだけ居住まいを正した。その瞬間、表情から余分な温度がすっと抜け落ちるのが分かった。
「順を追って、説明しましょうか」
彼女は、指を一本ずつ立てながら、感情の起伏を感じさせない、淡々とした声で話し始めた。
「まず、初めてこの店にいらした日。あなたは、辛い記憶に押し潰されて、心が擦り切れかけていました。だから最初に、過去のノイズ――理不尽な出来事に紐づいた、感情だけを、少しだけ取り除きました」
「……記憶じゃなくて、感情だけを」
「ええ。出来事そのものは、あなたの一部ですから。消しません。ただ、その時の苦しさに、いつまでも縛られなくていいように」
僕は、あの日の、部長の心無い一言を思い出した。今もその言葉は覚えているのに、痛みだけが、確かに軽くなっている。
「それから?」
「『みやこや』の食事で土台が整ったところで、視覚、味覚、聴覚を通して、少しずつ、最適化を進めました。あなたの心の中に、元々あった"なりたい姿"に、無駄なく近づけるように」
「元々あった、なりたい姿……」
「あなたは、優しい上司の下で、信頼でき自分を頼ってくれる同僚と働きたかった。誰かの役に立ちたかった」
まどかの声に、ほんの少しだけ、柔らかさが滲んだ
「それは、私が植え付けたものではなく、あなたの中に、最初からあったものです。私はただ、それを邪魔していた過去の傷を取り除き、能力を十全に発揮できるように後押ししただけですよ」
そこで少しだけ、悪戯っぽく笑った。
「もっとも――想定していたより、ずっと利他的な方向に進んだのは、私の予想を超えていましたけどね」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてますよ、もちろん」
少しだけ気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「じゃあ、部長や佐藤たちは? あの二人にも、同じことをしたの?」
「いいえ。彼らの感情は削除していません。あなたを介した、間接的な影響――環境の変化だけです。部長さんは、あなたたちの姿を見て、ご自身の過去の気持ちを、自然に思い出しただけ。佐藤さんは、変化していく周囲への焦りが、依存という形で表れただけです。あなたが作成したマニュアルに関しては、あなたと直接関係した3名の方々以外は読んでも影響はないので大丈夫ですよ」
「……そっか、これ以上誰かに変化が出ないならよかったよ。てっきり、会社全体に何か起きるのかと心配だったんだ」
「……あなたは本当に無花果のようですね。『琴葉』さん」
その一言だけ、ふっと、声が柔らかく崩れた。すぐに、彼女は何事もなかったかのように続ける。
「それに、私は、人を壊すためにやっているわけではありませんから」
その声には、これまでのからかうような響きとは違う、静かな芯があった。
僕は、少し考えてから、もう一つ、気になっていたことを聞いた。この空気で『琴葉』呼びに触れられるほど図太くもなく……
「君は、なんで、そこまでして……人を"最適化"しようとするの?」
まどかは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと、口を開いた。
「昔――ある出来事があって。私は、人間の本質が想像していたより、利己的なものだと知ったんです」
その声は、これまでのどんな場面よりも、静かだった。感情の温度が、すとんと抜け落ちたような、平坦な声。
「出来事?」
「女性の秘密を知ろうとするのは、デリカシーに欠ける行為ですよ。……そのうち話すかもしれないので、待っていてくださいね」
そう言うと、いつもの飄々とした顔に戻った。
「ただ、そのことがあってから、個人が理想の姿になるだけでは足りない、周りの環境も含めて最適化する必要がある、と考えるようになったんです。あなたを介した実験は、その一環でした」
「僕は、実験台だったんだね」
「ええ。……でも、今は、それだけじゃないですよ」
まどかは、少しだけ、視線を逸らした。珍しく、歯切れの悪い言い方だった。
「まあ、それはさておき」
彼女は、話を切り替えるように、パン、と小さく手を叩いた。
「これで月曜からは何の気兼ねもなく、お仕事に戻れますよ。無花果さんの最適化はすでに終わっていますから、私からの連絡がない限り、もう『ここ』に来る必要もありません」
その言葉を、事務的な口調のまま、あっさりと告げた。まるで、報告書を読み上げるように。
けれど、目だけは、僕から離れなかった。
その言葉になんとなく、寂しさを覚え――
「また来るよ」
少しだけ迷ってから、続けた。
「ここは僕にとって、たとえ記憶を消してでもまた来たいと思える『かけがえのない場所』だからね。」
まどかは、一瞬、何かに驚いたように、目を丸くした。それから、ゆっくりと――
これまで見た中で一番、柔らかい笑みを浮かべた。
「……そうですか」
それだけ言うと、満足げに、小さく頷いたのだった。
いつも遅い時間の投稿にもかかわらず、毎日読んでいただきありがとうございます。
数ある作品の中からこうして目を通していただけることが、作者として最高の励みになっております。
読んでくださる方がいるからこそ描き切ることができたと感じており、当初全25話で完結予定でしたが、物語への思い入れが深まり、全28話完結へ変更させていただくことになりました。
※話数の増加に伴い、9/2(水)より、更新ペースを1日2話(7:10と21:10)とさせていただきます。
最終話は、当初の予定通り9/4(金)21:10に投稿となります。
あと少しですが、お付き合いいただけますと幸いです。




