第21話「望んだもの」
じわじわと意識が浮上してくる中で、最初に感じたのは頭を締め付けるような重さと、手首や足首に食い込む奇妙な窮屈さだった。
(……あれ?)
頭が重い。だが、思考は驚くほどクリアだった。 まどかの言葉。佐藤や部長の異変。そして、「記憶を消してほしい」と自ら頼んだ決断——。
(なんで……全部、覚えているんだ……?)
彼女は、僕の記憶を消さなかったのだ。 約束を破られたことへの困惑と、ほんの少しの恐怖。けれど、それ以上に胸を満たしたのは、不思議なほど穏やかな諦念と、温かい余韻だった。
——意識を失う直前、まどかが耳元で囁いた言葉が鮮明に蘇る。
『外からは見えなくても、内側にたくさんの優しさや思いやりという花実が詰まっている。今のあなたに、本当にぴったりな名前です』
最適化により、僕の脳からは「過去の感情」が取り除かれていたはずだった。
それなのに——
あの瞬間、目頭が熱くなり、頬を冷たいものが伝った感触を、今でもはっきりと覚えている。
それは恐怖でも焦燥でもない。 ただ、自分という存在を、「無花果」という言葉で肯定された、溢れんばかりの喜びである。
葛藤の末、心の中で呆れたように、小さく笑った。 全部覚えているのは恐ろしい。けれど……あの涙の温もりを知ってしまった以上、彼女を本気で責める気にはどうしてもなれなかった。
「……ん」
そろそろ目を開けようと身体を動かそうとして、僕は思考を停止させた。
(動かない……?)
手首と足首に、ズシリと食い込む縄の感触。 不審に思って薄目を開けると、見慣れているはずの『みやこや』の天井だった。
状況が理解できなくて、身体をバタつかせていると、奥からまどかが出てきて――
「おはようございます、無花果さん。どうしました、まな板の上の鯉のように暴れて。安心してください。今から調理してあげますから」
――調理、ね。 小さく息を吐き、呆れたように目を伏せた。
「……一体何をするつもりなの。料理される前に聞かせてほしいな」
その問いに対して、彼女は、
「冗談ですよ、そんなに身構えないでください。縛っているのは、以前、私が直接最適化した方で、感情の抑制が出来ず、暴れる人がいたので予防策ですよ」
さらりと恐ろしいことを暴露しつつ、彼女はハサミで手際よく縄を切ってくれた。
自由に動くようになった手首を擦りながら起き上がると、上から覗き込むように顔を近づけてきた。
「記憶を残したこと、怒っていますか?」
「……葛藤はあるよ。でも、君にあんな風に言われて泣いちゃった手前、強く文句も言えないし……なんやかんや感謝の方が勝ってるかな」
まどかは満足そうに小さく目を細め、
「記憶を消さなかったのは、今の『ありのままのあなた』で協力してほしかったからですよ。」
「そんなにおだてても、僕に協力できることはあまりないよ」
「安心してください。現状、無花果さんに協力していただくことはありませんので。今まで通りのあなたとして、普通に生活してくださればいいですよ。」
奥の厨房からトントンと心地よい包丁の音が止み、暖簾をくぐって女将さんが顔を出した。
「おはよう、無花果さん。昨日はお疲れ様。まどか、無花果さんが起きたなら、朝食でも食べようか」
そういってまた戻っていった。
「そういえば、女将さんも共犯だったんだよね。……聞きにくいんだけど、家族でどうしてこんなことをしているの?」
「おかあさんは、理不尽に苦しむ人を見るのが嫌で、手伝ってくれているんですよ」
「ほら、無花果さんを連れて早くおいで。ご飯食べるよ。後、人の過去を気安く話すんじゃないよ。」
「あら、聞こえていましたか。では、無花果さん冷めないうちに参りましょうか」
「いや、まだいろいろと聞きたいことがあるんだけど」
昨日あんなことがあったのに、何もなかったような会話にあっけにとられながらも、まどかについていく。
――
3人でご飯を食べながら、
「どうですか?おかあさんの料理はおいしいでしょう?」
「あら。珍しくうれしいことを言ってくれるねぇ。安心してね、無花果さん。これを食べても何も起きたりはしないからね」
「……怖いこと言わないでくださいよ。でも本当に、女将さんのご飯はおいしいですね。こんな『お母さん』がいて、まどかさんが羨ましいです。」
「あら、無花果さんまで。そんなに褒めても何も出ないよ。……まどか、まだ”あのフィルター”かけたままなの?」
「”フィルター”とは……」
昨日までの二人を思い出し、身をこわばらせる僕に対して、
まどかは、「あ」と小さく手を叩いた。
「そういえば、戻すのを忘れていました」
「え……? 戻すって……?」
なぜか本能的に逃げ出したくなるのを抑えて、聞く僕に対して
「ちょっと失礼します」と、そっと僕の手に触れると、なぜかちくりと刺すような痛みがして、
――
「これで戻りましたよ、無花果さん」
「え……なにが戻ったの?」
「ふふ、ごめんなさい。無花果さんには認知機能と聴覚に軽いフィルターをかけていたんです」
まどかはコホンとひとつ咳払いをすると、いつもの笑みを浮かべて
「改めまして。——『おかあさん』、いえ、遥叶さんは、私の『お義母さん』です。生物学上の親子ではないのです」
「……はい?」
頭がフリーズした。 まどかの指が離れた途端、脳内の「女将さん=おかあさん」という思い込みがガラガラと崩れていく。そういえば、いつだったかそんなことを聞いた気もする。
他のお客さんがそんな話をして、女将さんが気になったこともあったような……
(待てよ、あの時も僕は……)
そんな顔色がコロコロ変わる僕を見て、彼女は
「その記憶、消してあげましょうか」
とどこか楽しそうに、悪戯っぽく微笑んでいた。




