第20話「真っ白社畜と真っ黒な美女」
「さて。それではこれからの話をしましょうか」
まどかは、湯呑みから立ち上る湯気を眺め、一口含んだ。 僕はその姿を直視しながら、喉の奥に溜まっていた一番の問いを絞り出した。
「……佐藤と、一ノ瀬さんはこれからどうなるの?もしかして、あの二人も部長のように……?」
「ふふ、察しが良くて助かります。ええ、このままだと、二人も遠からず部長さんと同じ道を辿るでしょうね」
彼女はあっけらかんと言い放った。まるで明日の天気を予想するかのような軽さで。
「そんな、どうして……二人を元に戻してよ!」
「いいですよ。ただし……それには条件があります」
彼女は湯呑みを両手で包み、まっすぐに僕を見つめた。
「無花果さん。あなた自身の記憶を消去し、私の最適化を全面的に受け入れていただけるのなら。実は、内面だけを変更した人間の対照実験に前々から興味がありまして。これが、あの二人を元の状態に戻すための条件です」
「僕の、記憶を……。でもそれは、君が前に言ってたことと矛盾しているんじゃ……」
「ええ。でも少し気になってしまいまして。私の想定を超えた無花果さんなら、性格や記憶を変更した場合でも、新しい結果が得られるのではないかと。それに、同一個体による周囲への影響力の差異。中身を入れ替えた場合のデータはとても貴重なものになるでしょうから」
――人をただの実験動物にしようとする発言に、僕は得体のしれない恐怖を覚えながらも……
脳裏には、職場の光景が浮かんでいた。
飄々としながらも、こちらを気にかけてくれる佐藤。どんなに忙しくても、最後までやり遂げる一ノ瀬さん。3人で乗り越えた仕事は大変だったが、その達成感は今でも胸に残っている。
その二人が部長と同じようになるなんて……
——僕の記憶と存在を差し出すだけで、二人が助かるなら。
「……分かった。引き受けるよ。だから、二人を元に戻して」
僕が強く頷くと、まどかは一瞬だけ目を見開き、やがて
――くすりと、悪戯っぽく微笑んだ。
「……合格です、無花果さん。ふふ、やっぱりそういう選択をすると思っていました」
「え……?」
「安心してください。部長さんを直した時に、お二人に生じていた影響もすでに取り除いてありますよ」
頭が真っ白になった。
「嘘……だったの……? どうしてそんな真似を……」
「あなたの『優しさ』が本物かどうか、確かめたかったんです」
まどかは座卓越しに身を乗り出し、慈愛の籠もった瞳で僕を見つめた。
「人の『なりたい姿』というのは、本来とても利己的なものです。他者を押しのけてでも承認欲求を満たしたい、楽をしたい。ですが、あなたは違った。自分が最適化された状態であっても、あなたが願ったのは『平等で優しい部長』であり、焦る佐藤さんを心配して作ったマニュアルと最後のページの『ゆるみねこ』でした。あなたの望む姿は、利己的ではなく、利他的。とても興味深いものでした」
彼女は誇らしげに小さく頷く。
「最適化されながらも他者への思いやりを失わない……それは私の想定を超えた、人間の『新しい可能性』です。……だからこそ提案したいんです。無花果さん、今のあなたのまま、私のパートナーとして協力してくれませんか?」
「パートナー……?」
「ええ。優しい人間による適切な周囲の最適化が可能なら、世界はもっと成長できる。他者を害するのではなく、お互いを尊重し、高め合う世界。その先を見てみたいと思いませんか?」
その言葉は、どこまでも魅惑的で、そして恐ろしいほど筋が通っていた。 けれど——僕は少しだけ考えてから、静かに首を振った。
「断る……と言いたいところだけど。条件付きなら」
「条件、ですか?」
「部長たちの異変からここまでの会話——それらをすべて消してくれるなら、君に協力する。ある意味、君の観察対象に戻るだけだから、後のことは任せるよ」
「……なぜです?」
「この記憶を持ったままじゃ、明日から今までと同じように君たちと接することはできないと思うから。それはとても寂しいと思っただけだよ。だから、今度はうまく誘ってね」
まどかはしばらく驚いたように目を丸くしていたが、やがて心底愛おしそうな溜息を漏らした。
「……本当に、あなたはどこまでも『無花果』ですね」
「……それはどういう意味かな?」
「知っています? イチジクという漢字は『無花果』と書きますが、本当に花が無いわけではないのです。あれは実の中に隠れて花を咲かせる『隠頭花序』という果実なんですよ」
彼女は静かに僕の隣に座り、目線に合わせた。
「外からは見えなくても、内側にたくさんの優しさや思いやりという『花実』がぎっしりと詰まっている。……今のあなたに、本当にぴったりな名前です」
そう言うと、彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作した。 スピーカーから流れてきたのは、どこか切なく、胸の奥を静かに揺らすような、聞いたこともない美しい歌だった。
音楽が部屋に満ちていく中、彼女の手がそっと僕の頬に触れた。ひんやりとした指先の感触が心地いい。
「準備が整いました。……少しの間、お別れです」
彼女は僕の耳元に顔を寄せ、密やかな息遣いとともに、囁いた。
「おやすみなさい――『琴葉さん』」
その瞬間、猛烈な睡魔が脳を支配した。視界が急速に暗転し、僕はまどかの腕の中へ、崩れ落ちるように意識を失った。
――残り5話




