第19話「紙の無い世界」
翌日、『みやこや』の引き戸を開けると―
「こんにちは、無花果 琴葉さん。そろそろ来る頃だと思っていました」
彼女は、驚く様子もなく、ただ、静かに顔を上げた。
「まどかさん、聞きたいことがあるんだ」
「はい、なんでしょう」
「昨日の話について、ちゃんと、聞かせてほしいんだ」
しばらくこちらを見つめていたけれど、やがて、小さく頷いて、
「いいですよ、どうぞ座ってください」
彼女は本を閉じると、座卓の向かいの席を、手のひらで示した。
僕は、促されるまま、腰を下ろした。
「まずは、部長さんの身に何が起こったのかと言いますと……無花果さんが作成したマニュアルに含まれる情報と、過去のノイズによる思考の乖離に対して脳の処理が追いつかず、一時的に脳内の保護回路が作動したのだと思います」
「マニュアルに含まれるって……僕はそんなことしていないんだけど……」
彼女は、いつもと違う、真剣な声色で切り出した。
「……その話をする前に、少し長くなりますが、人工知能(AI)の話を聞いてくれませんか」
「AI……。ごめん、正直話の先が見えないんだけど」
「すぐに繋がりますよ」
そう言うと、彼女は座卓の上で組んでいた指を軽く解き、手元にあった湯呑みに視線を落とした。
横顔には、いつもの余裕とは違う、どこか切実な影が滲んでいた。
「AIが、あらゆる問題を、あらゆる創作を、あらゆる答えを、人間の代わりに用意してくれる時代が、もう、すぐそこまで来ています。それ自体は、素晴らしいことです。けれど――」
そこで言葉を区切り、まっすぐに僕を見た。
「人間が、自分の頭で悩み、傷つき、乗り越えることで積み重ねてきた『進化』そのものが、止まってしまうかもしれないのです」
「進化が、止まる……?」
「ええ。困難にぶつかった時、これまでは能動的に考え、何千年という歴史を紡いできた人間ですが、これからの世界はAIに答えを求めればいい。傷ついた時は、心地良いヴァーチャルな世界に逃げ込めばいい。……優しい世界ですよね。けれど、その優しさの中で、人類は、次第に思考を放棄し、受動的にAIに従うだけの歯車になると思うんです」
まどかの瞳の奥に、これまで見たことのない、切実な光が宿っていた。
「だからこそ、私は、人間の持つ五感という入力装置を使って、人の能動的な進化を促進したいと考えています。一人ひとりが心の中で思い描いている理想の姿、あるいは能力を最大限に活かせる姿、そして今いる環境で最も輝ける姿――そのどれかに向かって、まっすぐに進んでいける世界になれば、AIに依存せず、あくまで便利な道具として使いこなせるようになるはずです」
慈愛に満ちた、けれどどこかゾッとするほど鮮烈な笑みを浮かべ、彼女は続けた。
「安心してください。人間の個性や、これまでの生き方まで消してしまうことはしません。均一化された人間だけが存在する世界は私の望みではありません。それをしてしまえば、結局、私の想像できる範囲内の、つまらない世界になってしまいます。多様な"なりたい姿"が、それぞれの形のまま花開くことこそが、本当の進化だと、私は考えています」
狂信的な思想には見えなかった。むしろ、あまりにも、筋が通りすぎていて――だからこそ、僕は聞かずにはいられなかった。
「……君の本当の目的は分かったよ、けれど、それが部長のあの姿につながるとは思えないよ」
「そこを突かれると、返答に困りますね。今回の目的は、無花果さんがご自身の本当になりたい姿に向かえるのか、そして、最適化された人間は周囲にどのような変化をもたらすのかを観察することでした」
まどかは、そこで、静かに、僕の目を見つめた。
「結果は、途中まで良好でした。あなたは仕事が出来るようになり、周囲はあなたが望む最適な職場に近づいていたでしょう?」
「……それはどういうことかな。部長や、佐藤のあんな姿、僕は望んでいないよ」
「あくまで一面ですよ。あなたは心のどこかで、優しい上司や頼られる人間に憧れていたのではないですか。……だから、元から先輩として頼ってくれている後輩さんには、まだ影響は出ていないのでしょう」
それだけで人があんなにも変わるものなのか。そう問おうとすると、僕の考えを先読みしたかのように少しだけ微笑み、
「ええ、それだけでは人は変わりませんよ。おそらくですが、彼らにも心のどこかで望む姿があり、その影響もあるのでしょう」
「部長さんは、皆さんが3人で協力する姿を見て、過去の気持ちを思い出した。佐藤さんは、変化する周囲への焦燥や不安が依存に近い形で表れたのでしょう」
「そんなことあるわけが……」
理性では不可能だと思いつつ、これまでのことを考えるとどうしても否定しきれずにいると――
「信じるかどうかは、お任せします。と言いましたよね」
彼女は、少しだけ、悪戯っぽく笑った。
「これで、少しは信じる材料になりましたか?」
僕は、すぐには、答えられなかった。
その思想は、確かに、筋が通っている。けれど、それが、彼女のやり方を正当化する理由になるかどうかは、また、別の話だった。




