第18話「嘘か本当か」
部長が、デスクに突っ伏すように眠りについた姿を見つめながら、僕は、震える声を、なんとか絞り出した。
「……まどかさん」
「はい、なんですか?」
彼女は、まるで、何事もなかったかのように、いつもの調子でこちらを振り返った。
「僕にも、同じことをしていたの?」
「……何のことでしょう」
「入社した頃のことなんだけど……」
自分の声が、思っていたより硬く、震えていることに気づいた。
「あの頃、辛かったはずなんだ。理不尽なことも、たくさんあったはずなんだ。なのに、思い出そうとしても、出てくるのは、出来事だけで……その時の気持ちが、全然、思い出せないんだ」
言葉にしてみると、自分でも、その異常さが、改めて胸に迫ってきた。
「泣いたはずなんだ。悔しかったはずなんだ。なのに、そのことを思い出しても、まるで、他人の話を聞いてるみたいに、何も、感じないんだ」
彼女は、しばらく、僕の顔をじっと見つめていた。
その沈黙が、何よりも雄弁な答えだった。
「……やっぱり、そうなんだ」
「少しだけ、不要なノイズを取り除いたんです」
まどかは、悪びれる様子もなく、あっさりと、そう認めた。
「あの頃の無花果さんは、辛い記憶に押し潰されて、心が擦り切れかけていましたから。そのままでは、私のサンプルとして、使い物にならなくなるところでした」
「……いつ、それをしたの」
「初めて『みやこや』にいらした日からですよ。料理は下ごしらえが重要ですから」
彼女はあっさりと、そう答えた。
「おかあさんの料理には、少し、特別な隠し味が入っていましたから。あの日から、無花果さんは、生姜焼きと一緒に、色々なものを、飲み込んでいたんです」
目の前が、ぐらりと揺れるような感覚がした。
あの日から、ずっと。
あの温かい引き戸をくぐった、最初の瞬間から、もう、彼女の手のひらの上にいたのだ。
「僕の……僕の人生は、一体、どこから、僕自身のものなんだ」
声が、掠れた。
「安心してください。ノイズを取り除いただけで、無花果さんの性格や、考え方そのものには、一切手を加えていません。今の無花果さんは、紛れもなく、無花果さんです」
「……そんなの信じられないよ」
「信じるかどうかは、お任せします」
まどかは、静かにそう言った。
震える息を吐きながら、次に浮かんだ問いを、ぶつけずにはいられなかった。
「佐藤や、一ノ瀬さんは……あの二人も、いつか同じようなことになるの? さっきの、部長みたいに……」
「それは」
まどかは、一瞬、言葉を選ぶように、間を置いた。
「今はまだ、お答えできません。それは無花果さんの答え次第、かもしれません」
その一瞬の沈黙が、答え以上に、僕の不安を煽った。
それ以上、何を聞けばいいのか分からなくなって、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
その後、どうやって家まで帰ったのか、ほとんど覚えていなかった。
ただ、少し調子が悪いから飲み会は延期にしようと二人には伝えて、気づけば、見慣れたはずの自分の部屋のベッドに、力なく腰掛けていた。
スマホの画面には、二人からのメッセージが届いていた。
『体調大丈夫か?部長、なんか急に元気になって帰ったわ。しょうがないから、おまえの分までフォローしといてやるよ! また来週な』
『お体大丈夫ですか?ゆっくり休んでくださいね!飲み会楽しみにしています!』
まどかのことは何も書かれていないことに薄ら寒さを覚えながら、その文字をぼんやりと眺めた。
佐藤も一ノ瀬さんも、きっと今頃、ただ「部長が体調を崩して、すぐに回復した」くらいにしか、思っていないのだろう。
あの光景の異常さも、まどかという存在の底知れなさも、何も知らないまま。
僕は、天井を見上げた。
自分がこれまで積み重ねてきたと思っていたものの、どこまでが本当の自分で、どこからが、あの少女の手によって整えられたものなのか。
その境界線は、もう、自分では、見つけることができなかった。
――それでも。
不思議と、まどかを、恨む気持ちにはなれなかった。
あの日、擦り切れかけていた自分を、ここまで連れてきてくれたのも、また、彼女なのだ。
感謝と、恐怖と、そして、拭いきれない不信感。
その全部が、ぐちゃぐちゃに絡み合ったまま、僕の中に居座っていた。
――「今は、まだ、お答えできません」
あの言葉が、耳の奥に、こびりついて離れなかった。
佐藤や、一ノ瀬さんにも、いつか、同じことが起きるかもしれない。
その可能性を、このまま、見て見ぬふりをすることなんて、できるはずがなかった。
――ちゃんと、話を聞こう。
明日、『みやこや』に向かうことを決め、ゆっくりと目を閉じた。




