第17話「はーとの形」
――ガラガラッ、といういつもの音が、やけに大きく響く。引き戸を開けると、カウンターの隅には、淀み一つなく、すべてを吸い込むような、漆黒の服を纏ったまどかが座っていた。
「まどかさん」
僕は、息を切らしたまま、彼女の前に立った。それでも、その先の言葉が、すぐには出てこなかった。
――聞いてしまえば、もう、後戻りはできない。
「あら、お久しぶり……でもないですね。今日はどうしたんですか、無花果さん。そんなに息を切らせて」
まるで、今日来ることを最初から分かっていたかのように、落ち着き払った様子で、ノートから視線を上げた。
その、いつもと変わらない声に、一瞬だけ、救われたような気持ちになった。
――やっぱり、いつものまどかさんじゃないか。
そんな都合のいい望みを、僕は、まだ捨てきれずにいた。
「部長が、おかしいんだ」
けれど、口をついて出たのは、疑いを晴らすための言葉ではなく、事実を確かめずにはいられない、震えた声だった。
「今日、急に様子がおかしくなって……何度も同じことを聞き返したり、ずっと同じ資料のページを見つめ続けたり。まるで、中身が抜けちゃったみたいに」
まどかは、少しだけ、興味深そうに目を細めた。
「へえ。それは、興味深いですね」
その、あまりにも普段通りの反応に、僕の中で、何かが、静かに軋んだ。
「……知ってたんだね」
問い詰める強さは、自分でも驚くほど、なかった。むしろ、縋るような響きに近かったかもしれない。
「さあ、どうでしょう」
「……答えてよ。何か知っているんじゃないの。組体操みたいに描かれていた、ノートの絵とか」
彼女は、手元のノートを閉じると、椅子から立ち上がった。
「無花果さん、詳しい話は後からにしましょう。おかあさんには、聞かせられない話なので」
「え……」
いつもの飄々とした調子とは違う、どこか静かで、それでいて有無を言わせない声で、
「今から、直接確認しに行きますよ。あなたの、大切な上司の様子を」
そう言った。
僕は、その声色、何を読み取ればいいのか分からないまま、ただ、頷くしかなかった。
――問い詰めたかったはずなのに、気づけば、彼女に、また導かれている。
そのことに気づいて、自分自身の弱さに、少しだけ、うんざりした。
――こうして、まどかと共に、あの狂ったオフィスへと引き返すことになった。
「こんにちは、無花果の妹です。兄の荷物の中に、間違えて資料を入れてしまったみたいで、取りに伺いました」
受付にいた社員に、まどかは、驚くほど自然な調子でそう告げた。
誰も、不審がる様子はなかった。それどころか、存在そのものが、視界を素通りしていくかのように、誰の視線も、彼女の上には留まらなかった。
僕は、背筋がぞっとするのを感じながらも、後をついていくしかなかった。
フロアに足を踏み入れると、部長のデスクの周りにだけ、他とは違う、妙な緊張感が漂っていた。
佐藤たちは、心配そうにちらちらと部長の方を窺いながらも、それぞれ、いつも通りに仕事を進めている。ただ、部長のデスクの周りだけが、ぽっかりと、静けさに沈んでいた。
阿久津部長は、相変わらず、自分のデスクに座ったまま、うつろな目で、あのマニュアルを見つめ続けていた。
――誰もまどかには気づかずに、部長だけを気にかけていることに、薄ら寒さを覚えた。
「……あら。想定していたより、深く進行していますね」
部長の前に立つと、値踏みするような目で、彼を見下ろした。
「まどかさん、部長に何が起きているの?」
「それよりも、元に戻すことが先決です。ただ、無花果さんは、少し離れていてもらえますか」
「……いや、僕も見てる」
思わず、そう言っていた。
これから何が起きるのか、確かめずにはいられなかった。
彼女は、少しだけ困ったように眉を寄せたけれど、それ以上は、何も言わなかった。
「では、見ていてください。無花果さんの資料が引き起こした、この不完全な回路を――どう、修正するのか」
そう言って鞄からノートを取り出すと、あるページを開いて、部長の目の前に、静かにかざした。
そのページには、一見、何も書かれていないように見えた。けれど、まどかがそれを軽く傾けるたびに、紙の表面が、光の加減で、複雑な幾何学模様を浮かび上がらせているように見えた。
「部長さん。少しだけ、これを見ていてください」
まどかの声は、これまで聞いたことがないくらい静寂に満ちていた。
部長の目が、ゆっくりと、そのページに吸い寄せられていく。 しばらくの沈黙の後、彼女は、ページをめくった。
今度のページには、四色の絵の具が、境界を溶かし合いながら、ゆっくりと滲んでいく様子が描かれていた。青、赤、緑、紫――それぞれの色が、互いを侵食するように混ざり合い、やがて、中心に、ひとつのハートの形を、ぼんやりと象っていく。
――ふと、脳裏に浮かんだのは、あの、最初の夜に見た、上司からの軽薄なメールだった。
『明日朝イチまでに企画書よろしく(はーと)』
あの時の、あの薄っぺらい記号と、今、目の前で滲んでいくこの絵は、同じ「ハート」のはずなのに、まるで別物のように見えた。
「大丈夫ですよ。乱れてしまった回路を、少しだけ整えただけです」
まどかは、ノートを閉じると、満足そうに頷いた。
部長の体から、みるみるうちに、力が抜けていくのが分かった。
目を閉じ、まるで眠りに落ちるように、静かに、椅子の背もたれへと沈み込んでいく。
僕は、ただ、その光景を、声もなく見つめていた。
――これが、彼女の力。
人の心を、頭を、まるで機械の部品のように、ノートのページ一枚で書き換えてしまう。
その光景は、美しくさえあった。だからこそ、恐ろしかった。
もし、これと同じことが、自分にも起きていたとしたら。
もし、今の僕の輪郭も、こうして、誰かの、たった一手で、静かに整えられたものだったとしたら――
そこまで考えて、自分の体が、小刻みに震えていることに気づいた。




