第16話「視線の先にあるもの」
金曜日の朝。オフィスに足を踏み入れた瞬間、いつもと違う、ざわついた空気を感じた。
「……部長、どうしたんだ?」
佐藤が、怪訝そうな顔で、部長のデスクの方を見やる。
阿久津部長は、自分のデスクに座ったまま、ぼんやりと宙を見つめていた。手元には、あのマニュアルが、開かれたままになっていた。
「阿久津部長」
僕が声をかけると、部長は、ワンテンポ遅れて、こちらを向いた。
「……ああ、無花果か。すまん、なんだったか」
「いえ、今日の会議の件で、確認したいことが」
「会議……」
部長は、疲れきったような顔で、額に手を当てた。
「悪いが、後にしてくれないか。今日は、なんだか、頭が回らなくて」
いつもの、覇気のある――良くも悪くも人を圧倒するような迫力が、そこにはなかった。まるで、糸が切れた人形のような、力ない座り方だった。
午前中はまだ、「疲れているだけ」で通用する範囲だった。けれど、午後になると、部長の様子は、誰の目にも明らかにおかしくなっていった。
「部長、さっきの件の確認なんですが……」
声をかけた社員に対して、部長は、ワンテンポどころか、数秒の間、反応を返さなかった。
「……部長?」
「……ああ、すまん。何だったか」
同じことを、もう三回は聞き返している。目の焦点は合っているのに、そこに、いつもの鋭さがまるでない。
ふと見ると、部長の机の上には、あのマニュアルが開かれたままになっていた。いや、開かれたまま、というより――何度も、何度も、同じページを読み返しているようだった。指先で、文字の並びを、なぞるように追っている。
「部長、大丈夫ですか」
「大丈夫だ……いや」
部長は、そこまで言いかけて、また、言葉を止めた。視線は、いつのまにか、またマニュアルのページに吸い寄せられている。
「……部長、本当に大丈夫すか?」
佐藤が、心配そうに部長のデスクへと近づいていく。
「なんか、今日、ずっとおかしいですよ。それ、さっきからずっと同じとこ読んでません?」
「……そう、だな」
部長は、そう答えたきり、また、動かなくなった。その表情は、怒りも苛立ちも、何もかもが抜け落ちたような、奇妙な微笑みに満ちていた。
「無花果先輩……部長、様子おかしくないですか?」
一ノ瀬さんが、青ざめた顔で、僕の元に駆け寄ってくる。
「うん……。ちょっと、まずいかもしれない」
――マニュアルの件を思い出す。あんな、ただの業務資料が、こんなことを引き起こすはずがない。そう自分に言い聞かせようとしても、目の前の光景が、その言い訳を許してくれなかった。
脳裏に浮かんだのは、あの、硝子細工のような瞳をした少女の顔だった。
「一ノ瀬さん、少し、外に出てくる。何かあったら、すぐ連絡して」
「え、先輩……?」
戸惑う一ノ瀬さんを残し、僕は、逃げるように、オフィスの外へと足を向けた。
オフィスを飛び出した僕は、いつもの裏路地へと足を速めた。
アスファルトを蹴る靴音が、まだ人通りの残る夕暮れの街に、やけに大きく響く。
空はまだ、うっすらと赤みを残していたけれど、道の端には、もう夜の色が忍び寄り始めていた。逢魔が時――そんな言葉が、ふと頭をよぎる。
頭の中では、部長の、あの空っぽな微笑みが、何度も繰り返し再生されていた。
――まさか、まどかさんが。
そう思う端から、僕は、自分にそれを否定させようとしていた。
彼女は、いつも、くだらないことで僕をからかいながらも一緒に笑って。そんな時間を、何度も僕にくれた子だ。あの温かさが、全部、嘘だったなんて。
――いや、待て。まだ彼女が原因だと決まったわけではない。
自分の中で、二つの声がせめぎ合う。
けれど、部長のあの、抜け殻のような姿を思い出すたびに、否定したい気持ちは、みるみるうちに、力を失っていった。
曲がり角を折れて、視界に飛び込んできた赤提灯の明かり。
いつもは、僕の擦り切れた心を優しく包み込んでくれるはずのその灯りが、今は、なぜか、底の知れない何かの入り口のように見えた。
引き戸に手をかけようとして、僕は、ふと、足を止めた。
扉には、見慣れない「準備中」の札が、下げられていた。
(……こんな時間に?)
違和感を覚えながらも、僕は、構わず引き戸を開けた。
ガラガラッ、といういつもの音が、やけに大きく、静まり返った店内に響く。
いつもは厨房から顔を出してくれるはずの女将さんの姿は、どこにも見当たらない。
視界の先に映ったのは、淀み一つない漆黒の―




