第15話「良薬は口に苦いはず」
その週末、僕は自宅で、ノートPCを開いていた。
カフェで一ノ瀬さんが言っていたように、マニュアルがあれば二人の仕事もより効率的になるだろう。
佐藤も、一ノ瀬さんも、最近は前向きに頑張ろうとしている。だったら、自分にできる形で、その背中を押してあげたい。
これまで、頭の中で感覚的にやっていた「情報の整理の仕方」を、誰が見ても分かるように、文章に落とし込んでいく。
優先順位のつけ方。資料の構成の組み立て方。指示が曖昧な時の、確認の仕方。
書き進めるほどに、不思議なくらい、次から次へと言葉が出てきた。まるで、最初から自分の中に、完成された答えがあったかのように。
一通り書き終えて、伸びをする。時計を見ると、日付が変わる少し前だった。
ふと、カリカリと苛立った様子の佐藤の顔が、頭をよぎった。このマニュアルが、少しでも、あいつの肩の力を抜く助けになればいいけれど。
そんなことを思いながら、ドラフトの最後のページの余白に、なんとなくペンを走らせていた。
――気づけば、そこには、ゆるみきった顔で丸くなる、猫が一匹。
まどかが見せてくれた、あの「ゆるみねこ」の、拙い模写だった。
「……なんで、これ描いてるんだろ」
我に返って苦笑しながらも、消す気にはなれなくて、そのままバッグにしまった。
月曜日、僕は出来上がったドラフトを、確認の意味も込めて佐藤に見せることにした。
「なあ、これ、ちょっと見てくれない? 週末にまとめてみたんだけど」
「ん? なんだこれ」
渡された資料をぱらぱらとめくり、
「……お前、これ、俺らのために作ってくれたのか」
「そんな大したものじゃないと思うけど。二人の役に立てばと思って。明日には部長に確認依頼をするから、気になる点があれば今日中に言ってくれ」
佐藤は、ページをぱらぱらとめくりながら、感心したように頷き、最後のページまでたどり着くと、ふっと表情を緩めた。
「……なんだよこの猫。お前、こんなの描ける柄だったっけ」
「あ、いや、それは……気にしないで」
「いいじゃん、これ。なんか、見てるだけで力抜けるな」
そう言って、ゆるみねこのページを、もう一度眺めた。
「いや……ありがとな。マジで」
彼は、いつになく神妙な顔で、頷いて、
「お前がいないときも、これでもう迷わなくて済むな」
「……え、それはどういう意味?」
問いかけたものの、聞こえなかったかのように、嬉しそうな顔で資料を持ち自分の席に戻っていった。
次の日、僕は、修正を重ねたマニュアルの完成版を、部長のデスクに持っていった。
「部長、これ、一度確認していただけますか。部署の共通マニュアルとして使えたらと思い、まとめてみたのですが」
部長は、少し意外そうな顔をして、資料を受け取った。
「お前、こんなもの作ってたのか」
「一ノ瀬さんの発案なんです。うちの部署には、いままでこういうマニュアルがなかったので」
「ふん」
部長は、資料をぱらぱらとめくりながら、その内容に、じっと目を通していく。
「……いいんじゃないか。悪くない」
「ありがとうございます」
「後で、内容を確認するから待っててくれ」
それだけ言うと、部長は資料を自分のデスクの隅に置いて、また別の仕事に戻っていった。
僕は、その資料を見つめる部長の横顔に、一瞬、何かが宿ったような気がした。
けれど、それが何なのか確かめる間もなく、デスクへと戻った。
マニュアルを渡した週の、木曜日のことだった。
「なあ無花果、これ、ちょっと見てくれない?」
佐藤が、資料を片手に、こちらへとやってくる。それ自体は、もう見慣れた光景になっていた。けど、ここ最近、その頻度は、明らかに増えている。
「これくらい、自分で判断できるだろ。あのマニュアル、見た?」
「あー、何回も読んだんだけど、やっぱりお前がいるなら直接聞いた方が早いからな」
悪びれる様子もなく、あっけらかんとそう言った。
「お前がいないときは、めちゃくちゃ頼らしてもらってるよ。それで、ここの数字なんだけどさ」
「うん、それは大丈夫。むしろこっちの表現の方が気になるかな」
「だよな、俺もそこ引っかかってたんだよ。……よし、これで行こう」
一言添えるだけで、すぐに納得して、安心したように自分の作業へ戻っていく。その様子は、もはや「相談」というより、「確認」に近くなっていた。
「無花果先輩、あの……」
その日の午後、一ノ瀬さんが、少し言いにくそうに、僕のデスクに近づいてきた。
「佐藤先輩なんですけど……最近、なんかおかしくないですか」
「え?」
「……ちょっとしたことでも、無花果先輩のところに行っちゃうっていうか。逆に、先輩がいないときは、ずっと何かの資料を見ているんですよ。」
――それは初耳だった。
(確かに、おかしいかも)
薄々気づいてはいたけれど、一ノ瀬さんに言われて確信に変わった。
いつも通りの、気の抜けた背中。けれど、そこに、微かな違和感が、静かに滲んでいた。
ふと、先日の「無花果様のご神託」という、佐藤の軽口が頭をよぎる。
あの時はまだ、冗談で済ませられる話だった。けれど今は――冗談で済ませていいのか、自分でもよく分からなくなっていた。僕は不安な気持ちに蓋をするように、
「そうだ、金曜の夜に久々に3人でご飯でも食べに行かない?申し訳ないんだけど、 佐藤の息抜きに付き合ってくれると嬉しいな」
「それはいいですね!たまにはお酒に酔わせて、いつもの飄々とした佐藤先輩にしてあげましょう!」
「うん、じゃあまた時間とか連絡するね」
「はい、連絡待ってますね!」
3人で愚痴でも言い合えば、きっとまたいつもの佐藤に戻ってくれる。なんとか自分に言い聞かせて、自分の仕事に戻るのだった。
次の日の朝、オフィスに入った瞬間、いつもと違う、ざわついた空気を感じた。
「……部長、どうしたんだ?」
佐藤が、怪訝そうな顔で、部長のデスクの方を見やる。
阿久津部長は、自分のデスクに座ったまま、ぼんやりと宙を見つめていた。手元には、あのマニュアルが、
――開かれたままになっていた。




