第14話「ゆるみねこ」
その日の夜、僕はいつものように『みやこや』の引き戸を開けた。
「あら、無花果さん、いらっしゃい。どうしたの、難しい顔をして」
女将さんが、湯呑みを差し出しながら、いつもの調子で迎えてくれる。
「今日、会社の後輩とカフェで話をしてて、気づいたんですが」
僕は、箸を取りながら、ぽつりと切り出した。
「なんていうか……入社してからの辛かった記憶を、事実としては覚えているのに、その時の気持ちだけ、うまく思い出せないんですよ。何と言うか、単なる事実、自分の経験としては覚えているのに、その時の感情だけ無くしてしまったみたいに」
「あら、そうなの?」
「まだ新人の頃、一度部長に酷く怒られてしまって。お前は名前の通り『花実がない、からっぽだな』と言われてすごい辛かったはずなんです。それなのに今は、その時の気持ちも思い出せなく……」
女将さんは、少し驚いたように目を丸くしたけれど、すぐに、柔らかく笑った。
「まあ、人はみんな抱え込みすぎるとパンクしちゃうから、どこかに置いてきちゃったのかもね」
その言葉には、なんてことのない相槌のはずなのに、ほんの少しだけ、実感のこもった重みがある気がした。
「そういうものですかね」
「そういうものよ。忘れられるだけ、幸せなことだってあるんだから」
女将さんは、そう言うと、厨房の奥へと戻っていった。
カウンターの隅で、まどかが本を閉じ、こちらを見ていた。
「無花果さんは、それをどう思っているんですか」
「どうって……正直、ちょっと怖いかな。自分の中の何かが、勝手に作り変えられているみたいで」
「作り変えられている、ですか」
まどかは、僕の言葉を、確かめるように繰り返した。
「もし、辛い記憶ごと、綺麗さっぱり消えていたら――それは、良いことだと思いますか?」
「……それは、ちょっと違うと思う」
僕は、少し考えてから、続けた。
「辛かった出来事自体は、僕の一部というか……なくなってほしいとは、思わないんだ。ただ、その時の苦しさを、いつまでも引きずってなきゃいけないとも思わないんだよ。……なんか、矛盾したことを言ってますね」
彼女は、しばらく黙って、僕の顔を見つめていた。
「いえ。とても、無花果さんらしい答えだと思います」
その声は、いつものからかうような響きとは、少し違って聞こえた。
「そうですかね」
「はい。……興味深いです、とても」
そう言うと、ペンを取り、ノートに何かを書き付けた。
気になって覗き込もうとすると、
「勝手に見ようとしないでください、目をつぶしますよ」
「えぇ……いつもは気にしないのに」
いつもの絵を思い出して、僕が少しだけ不安げな顔をしていると、
「まぁ、無花果さんがどうしてもと言うなら、特別に見せてあげます」
そう言って、まどかが開いたページには、これまでの味気ない棒人間とは対照的な、何とも言えない表情でデフォルメされた2匹のねこが日向ぼっこをする絵が描かれていた。
「どうです?可愛いでしょう」
僕は何が書かれていたのか身構えていた分、拍子抜けした顔をして
「……可愛いけど、これはいったい何かな?」
「これは『ゆるみねこ』ですよ。無花果さん、知らないんですか?」
わざとらしく驚いた表情をするまどかに、
「えっ、初めて見たんだけど。今こういうのが流行っているの?」
「そうですよ。この可愛らしい見た目が脳のアルファ波を分泌させると、最新の認知科学により証明されているんです」
「……それ、嘘ですよね」
「あら、ばれてしまいましたか。眉間にしわを寄せて、ご自身と友人のために悩む無花果さんを見て、思いついたんです」
「今の例えからは到底想像できないくらい、緩み切ってる絵なんだけど……」
まどかは、ふわりと笑い、もう用はないというように再び本を読み始めた。
残された僕は、何とも言えずにゆるみきった2匹のねこを見つめ――
ふと、デスクで余裕をなくして、カリカリしている佐藤の横顔を思い描いていた。
(……あいつにも、これくらい脱力してほしいな)




