第13話「砂糖は溶けゆく」
その日から、佐藤の様子は、少しずつ変わっていった。
「なあ、無花果。今日の会議の資料、どっちの構成で行くべきだと思う?」
朝、出社するなり、二種類の資料を手に、僕のデスクに近づいてきた。
「どっちでも大差ないと思うけど。佐藤はどっちがいいと思ってるの?」
「いや、それが決められなくてさ。最近お前神がってるだろ、だから無花果様のご神託でももらおうと思って」
軽口のつもりなのだろう。けれど、その声には、以前のような気楽さがなかった。
「……らしくないね、それ」
「そう? まあ、部長の目もあるしさ。ちゃんと考えなきゃなって」
僕は少し迷ってから、「こっちのほうがいいかな」と、片方を指差した。彼は、その答えを待っていたかのように、あっさりと頷いて自分の席へ戻っていく。
その様子を、少し離れた席から見ていた一ノ瀬さんが、小さく呟いた
「佐藤先輩、最近ずいぶん、無花果先輩に聞くこと多いですよね」
「そうかな? 単に、僕に丸投げしてるだけな気もするけど」
「いえ……そういうのとも、ちょっと違う気がして」
一ノ瀬さんは、少し言葉を選ぶように、視線を落とした。
「前は、迷っても、自分の勘で決めて突き進むタイプだったのに。最近は、決める前に、必ず無花果先輩に確認取ってから動いてる感じがするんです」
その指摘に僕は、昨夜のまどかとのやり取りを思い出した。
――急な変化は、時に、順応する暇もなく人を弱らせる。
「……そうかもしれない」
僕は少し考えてから、給湯室に向かい、缶コーヒーを二本買って戻った。一本を、佐藤のデスクにそっと置く。
「ん? どうした、急に」
「いや、なんとなく。……最近、大丈夫か? 根詰めすぎてない?」
「え、なんだよ、改まって。平気だよ、平気」
佐藤は、いつもの軽い調子でそう言ったけれど、缶を手に取る仕草が、ほんの少しだけぎこちなかった。
「なんかあったら、いつでも言ってよ。一人で抱え込む必要はないからさ」
「……お前がそれ言うのかよ
佐藤は苦笑いを浮かべると、プルタブを開けて一口飲んだ。
「ありがとな。……ちょっと、元気出た」
その笑顔は、いつもと変わらないはずなのに、どこか無理をしているようにも見えた。
その日、僕と一ノ瀬さんは、珍しく同じタイミングで仕事を終えた。
「無花果先輩、この後お時間あります? ちょっと、相談したいことがあって」
「うん、大丈夫だよ」
会社近くのカフェに入り、窓際の席に向かい合って座る。一ノ瀬さんは、抱えている案件の進め方について、いくつか質問を重ねてきた。
「……なるほどね。それなら、こういう順番で進めた方がいいと思うよ」
「ありがとうございます、助かります」
一ノ瀬さんは、ノートにメモを取りながら、ほっとしたように微笑んだ。
「そういえば」と、彼女がふと、カップを両手で包むように持ちながら呟いた。
「最近、佐藤さん本当に頑張ってますよね。前は、もっと自分のペースでやるタイプだったのに」
「そうだね。少し無理してるんじゃないかって思うくらいに。昔のあいつなら、何を言われても飄々としていたのに」
「それは、佐藤さんらしいですね。無花果先輩は、入社した頃はどんな感じだったんですか?」
何気ない質問だった。
けれど、僕はそこで、ふと、言葉に詰まった。
「……入社した頃、か」
思い出そうとする。あの、右も左も分からなかった新人時代。
――出来事自体は、案外はっきりと思い出せた。理不尽な指示を出されたこと。深夜まで一人で残業していたこと。上司に叱責されたこと。エピソードとしては、驚くほど克明に、記憶の中に残っている。
なのに。
その時、確かに感じていたはずの、悔しさも、苦しさも、涙も。
まるで、他人の話を聞いているかのように、何一つ、胸に迫ってこない。
「……あれ」
「先輩?」
「あ、ごめん。ちょっと、考え事してて」
僕は、慌てて笑顔を作った。
「入社した頃は、色々あったはずなんだけどね。理不尽なことも、たくさんあったし……でも、なんでだろう。話としては覚えてるのに、その時どんな気持ちだったのか、全然、思い出せないんだ」
「そうなんですか? まあ、辛いことなんて、忘れちゃった方がいいのかもしれないですね」
一ノ瀬さんは、屈託なくそう言って、コーヒーを一口すすった。
その屈託のなさが、今は、少しだけ怖かった。
――忘れているわけじゃない。
覚えている。でも、感じられない。
その違いが、自分でもうまく言葉にできないまま、じわりとした薄気味悪さだけが、胸の中に広がっていった。
「そういえば」
一ノ瀬さんが、話題を変えるように、ノートのページをめくった。
「無花果先輩の資料の作り方って、本当にわかりやすいですよね。ああいうの、うちの部署の共通マニュアルとかにしたらいいのに」
「マニュアル?」
「はい。うちの部署って、意外とそういうのないんですよね。みんな、自己流でやってて」
一ノ瀬さんの何気ない一言が、僕の頭の中に、小さく引っかかった。
――マニュアル、か。
佐藤も、一ノ瀬さんも、最近は前向きに頑張ろうとしている。だったら、自分にできることとして、そういう形で、二人の力になれるかもしれない。
さっきまでの薄気味悪さを振り払うように、僕は、そんなことを考え始めていた。




