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第12話「平等は不平等です」

「ちょっといいか」

 阿久津部長の声に、佐藤の肩がびくりと跳ねた。手にしていた資料を握りしめたまま、部長のデスクへと向かっていく後ろ姿を、僕は自分の席から見守った。

「この資料なんだが」

 部長は、彼が時間をかけて仕上げたはずの構成案に、赤ペンで淡々と印をつけていく。

「ここの優先順位、根拠が弱い。あと、この項目とこの項目、順番が逆の方がクライアントに伝わりやすいだろう」

「……はい、直します」

 その声は、いつもより少し硬かった。理不尽な怒鳴り声も、嫌味もない。ただ淡々と、正しい指摘だけが積み重なっていく。

「まあ、無花果が作ったフォーマットを参考にすれば、迷うことも減るはずだ」

 その一言に、佐藤の表情が、ほんの一瞬だけ強張った気がした。

 部長に、悪気はないはずだった。ただ事実を、平等に、当たり前のように口にしただけだ。けれど、その"当たり前さ"こそが、かえって逃げ場をなくしているようにも見えた。

「わかりました。もう一度、練り直します」

 そして、自分の席へと戻ってきた。

「大丈夫? 何か手伝おうか」

 声をかけると、少し無理をしたような笑みを浮かべた。

「平気平気。ちょっと、視点を変えてみるわ」

 そう言うと、彼は引き出しの奥から、あのHOPEプロジェクトの最終資料――三人で作り上げた、あの資料を引っ張り出して、

「これ、もう一回よく見とくわ。無花果の担当箇所、なんかコツがある気がするんだよな」

「そんな大したものじゃないと思うけど」

「いいから、いいから。ちょっと集中させて」

 それきり画面に向き直り、二つの資料を、何度も何度も見比べ始めた。

 その横顔には、いつもの気の抜けた明るさはなく、何かに追い立てられるような、静かな真剣さだけがあった。


 ――その日の夜、僕はいつもより早く『みやこや』の引き戸を開けた。


「あら、無花果さん。……なんだか、今日は元気ないわねぇ」

 女将さんが、僕の顔を見るなり、心配そうに眉を下げる。

「わかります? ちょっと、気になることがあって」

カウンターの隅に座ると、まどかが本から目を離し、こちらへ視線を寄越した。

「珍しいですね。そんな顔をするなんて」

「今日、部長が佐藤の資料に指摘を入れてて。その時、何気なく僕のフォーマットのこと引き合いに出したんだよね。そしたら、なんかいつもと様子が違って」

 まどかは、しばらくページの上に視線を落としたまま黙っていたが、やがて静かに本を閉じ、こちらに身体を向けた。

「部長も、悪気があったわけじゃないんだよ。それなのに、佐藤の顔、見たことないくらい強張ってて」

「なるほど」

 それだけ言うと、しばらく黙って湯呑みを両手で包んだ。

「無花果さん。私は子供のころ、メダカを飼っていたんですよ」

 唐突な話題転換に、僕は箸を止める。

「そして、水温を少しずつ上げていく実験をしました」

「メダカ?」

「ええ。一日に一度、水温を一度ずつ上げる。それくらいゆっくりとしたペースなら、メダカは案外平気な顔をして泳ぎ続けるんです。環境に、少しずつ体を慣らしているので」

 まどかは、湯呑みの中の茶葉を、ぼんやりと見つめながら続けた。

「でも、同じ変化でも、急に――たとえば一気に5℃も変えてしまうと、話は別です。順応する暇もなく、弱ってしまう子が出てくる」

「……それ、佐藤の話?」

「さあ、どうでしょう。ただの、昔話です」

 まどかは、悪戯っぽく笑ってみせたけれど、その目の奥には、いつもの余裕とは少し違う、静かな色が滲んでいる気がした。

「部長さんは、きっと少しずつ変わったんでしょうね。ゆっくりと、水温が変わるみたいに」

「うん」

「けれど、周りの人間にとっては、それは急な変化に見えることもある。特に、自分だけが取り残されているように感じる人にとっては」

まどかの言葉に、僕は佐藤の強張った横顔を思い出した。

「心配なんですか、その方のこと」

「うん。心配だよ」

 素直にそう答えると、まどかは、少しだけ驚いたような顔をした。それから、ふっと口元を緩める。

「優し……いえ、お人好しなんですね、無花果さんは。将来、悪い女に騙されそうですね」

「今、わざと言い直したよね。そんなことないと思いたいかな……」

「ふふ、どうでしょうね」

 まどかはそう言うと、また本に視線を戻した。

「あまり気に病まないでくださいね。無花果さんが思っている以上に、周りの方は、あなたのことをよく見ていますから」

 その言葉の意味を、僕はその時、深くは考えなかった。


 ――無花果たちが店を出た後も、佐藤は一人、自分のデスクであの資料を読み続けていた。


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