理想の自分
鏡の中の男は、かつてないほど完璧だった。
肌ツヤも、着ているシャツのシワひとつない清潔感も、何よりその自信に満ち溢れた眼差しも、二十五年間抱えていた「冴えない自分」の影などどこにも見当たらない。
『Re:Edit』を使い始めてから一週間。
湊の人生は、文字通り「編集」によって書き換えられた。
学歴は最高ランクの大学院修了へと更新され、キャリアは未経験のプロジェクトを成功させた実績で塗り固められている。
恋愛歴もそうだ。かつての拙い告白は、向こうからアプローチされて始まる大人のロマンスへと差し替えられ、手元に残る思い出は、甘い香りのする映画のようなシーンばかり。
湊は今、高層階のレストランで、洗練されたスーツを纏い、最高級のワインを嗜んでいた。
周囲の客たちが羨望の眼差しをこちらに向けているのがわかる。
SNSの通知音は鳴り止まない。彼は今や、完璧なライフスタイルを体現するインフルエンサーとして、ネットの海で神格化されつつあった。
しかし、その一口目のワインを喉に流し込んだとき、湊はふと奇妙な感覚に襲われた。
(……味が、しない)
極上のワインであるはずなのに、まるで紙の束を噛んでいるかのような味気なさ。
周囲の賑やかな会話も、彼にはどこか別の世界の出来事のように遠く響く。
彼は慌てて、これまでの編集履歴を確認した。
過去を削れば削るほど、今の自分は「何者か」として完成していく。
なのに、その「何者か」の中身がひどくスカスカなのだ。
思い返そうとする。
あの大学院時代の苦労を。
徹夜で論文を書いたあの時の焦燥感や、達成した瞬間の震えるような歓喜を。
しかし、記憶を辿ってもそこにあるのは、「優秀な学生として過ごした」という平坦な記録だけだ。
泥臭い努力の痕跡も、理不尽な教授との対立も、全て「編集」によってカットした代償。
喜びすらも、成功という結果だけが切り取られ、そこに至るまでの「過程」という感情のグラデーションが抜け落ちている。
湊は、テーブルに置かれたスマホの画面を指でなぞった。
成功者としての自分。理想の自分。
誰もが憧れるこの男の人生に、一つだけ、強烈な違和感が混ざり込んでいる。
「……ねえ、湊」
向かいの席に座っていた白石結衣が、ワイングラスを置いて湊を見つめた。
彼女だけだ。この「完璧に編集された世界」の中で、唯一、以前の湊と変わらない温度で自分を見てくれるのは。
彼女の目には、今の湊がどう映っているのだろうか。
「最近のあなた、本当に凄いね。仕事も恋愛も、すべてが上手くいっていて……でも」
結衣は言葉を切り、少しだけ悲しげに微笑んだ。
「なんだか、あなたがどこか遠くに行ってしまったみたい。昨日のこと、覚えてる?」
昨日のこと。湊は即座に記憶を探った。
完璧なスケジュールの通り、彼は理想的な一日を過ごしたはずだ。
「ああ、完璧だったろ。朝は……」
「そうじゃなくて」
彼女は湊の言葉を遮った。
「あなたが、昔、公園のベンチで『世界なんてなくなればいい』って泣いた日のこと。覚えてないの?」
心臓がドクン、と大きく脈打った。
そんな記憶、タイムラインには存在しない。
湊は即座にアプリを開き、過去の全ログを検索した。
該当なし。
そんな事実は、湊の人生には最初から存在しなかったのだ。
「そんなの、覚えてない。だってそんなこと、一度もなかったから」
湊が冷たく言い放つと、結衣の表情が凍りついた。
成功の階段を駆け上がるたびに、彼は確信していく。
この完璧な人生には、人間を人間たらしめるはずの「傷跡」が、驚くほど一つも残っていないという事実に。
湊はワイングラスを突き放すように置いた。
完璧な人生は、まるで真空パックされた標本のように冷たく、美しい。
彼はその美しさに安堵すると同時に、言いようのない恐怖に震えていた。
これは自分の人生なのか。
それとも、アプリが描いた「理想」という名の幻影なのか。
だが、今の彼にはもう、後戻りする勇気などどこにも残っていなかった。




