黒歴史削除
完璧な朝だった。会社への足取りは軽く、昨日まで自分を責め立てていた重圧は嘘のように消え失せていた。
『Re:Edit』という名の、毒を含んだ福音。
湊は通勤電車の車内で、何度もそのアプリの履歴を眺めた。
たった一行の「カット」だけで、現実は驚くほどスムーズに最適化される。
オフィスに着くと、同僚の態度が違った。
昨日の誤爆事件などなかったかのように、周囲は湊の提案したSNS企画を称賛し、上司までもが「期待しているぞ」と肩を叩く。
「相沢、昨日のプレゼンは最高だったな」
同期の言葉に、湊は自然な笑顔で返した。
「ありがとう。もっと良くなると思ってさ」
言葉すらも、まるで脚本通りに出てくる。自分の人生が、一本の洗練された映画のように進んでいく快感。
湊は止まらなかった。彼はトイレの個室に籠もり、昼休みの静寂を利用して、人生の「ノイズ」をさらに削ぎ落とす作業に没頭した。
まずは大学時代の失恋だ。
三年間引きずっていた、あのどうしようもない別れ。相手に罵倒され、自尊心をズタズタにされたあの光景を、「CUT」する。
次に、就職活動の最終面接で沈黙してしまったあの記憶を「REPLACE」する。自信に満ちた受け答えの動画へ差し替え、結果を「採用」へと書き換える。
画面上のタイムラインから、黒いノイズが次々と消えていく。そのたびに、湊の人生は輝きを増していった。
夕方になると、変化は目に見える形で現れた。
SNSのフォロワー数が、昨日までとは比較にならないほど急上昇している。自分が発信した何気ない一言がバズり、称賛のコメントが画面を埋め尽くす。
「成功している」
そんな実感が、内臓を熱くさせた。
かつての自分なら、批判を恐れて慎重になっていたはずの投稿も、今の湊は迷いなく入力できる。失敗の可能性を、すべてアプリが事前に消し去ってくれるのだから。
だが、その夜、帰宅した湊はふと違和感を覚えた。
SNSでフォロワーから寄せられる祝福のメッセージに対し、返信を書こうとして手が止まった。
「ありがとう」という言葉が、あまりに遠く感じられたのだ。
鏡の中に映る自分は、かつてないほど洗練され、自信に満ちている。
しかし、その瞳の奥には、何か決定的なものが欠けていた。かつて、あの失恋から立ち上がる時に感じた痛みや、面接の失敗から学んだ泥臭い努力。
そういった「傷跡」を消したことで、湊は同時に、自分という輪郭を形成していた硬質な芯までをも失いつつあるのかもしれない。
その時、スマホが短く震えた。大学からの友人、白石結衣からのメッセージだった。
『湊? 今日、なんだか雰囲気が違うね。何かあったの?』
湊は画面を見つめ、指を止める。
彼女だけだ。この改変された世界の中で、唯一、湊の「変化」に違和感を抱いている存在。湊は努めて明るい調子で返信を打った。
「別に、調子がいいだけだよ」
送信ボタンを押した直後、ふとアプリのタイムラインに手が伸びる。
結衣との友情関係も、過去を遡れば、些細な喧嘩や気まずい沈黙がいくつも転がっている。
それらもすべて、今の湊にとっては「不要なノイズ」に過ぎない。
湊は、結衣との過去のタイムラインに指をかけた。
完璧な人生を手に入れるためには、この「余計な違和感」すらも編集すべきなのかもしれない。
そんな狂気的な思考が、今の湊には、最も合理的な判断に思えていた。




