第六十九話 名前を呼ぶこと
王都を発つ前日の朝。
報奨金の受け取りを済ませ、必要な買い物を終え、ギルド本部に次の依頼を確認した。
Sランクへの昇格審査は後日ルドナの支部経由で通知される、とのことだった。
やるべきことは全て終わった。
明日、王都を出る。ルドナに戻り、また旅を続ける。
最後の一日を、四人はそれぞれに過ごした。
レインは武器屋を回り、新しい弓弦と矢じりを買い込んだ。
アネスは薬問屋で珍しい薬草を見つけ、嬉々として買い漁った。
アルドは宿で装備の手入れをしていた。
セラは、一人で街を歩いた。
◇
王都の街は、前世の記憶と重なる場所が多い。
中央広場の噴水。前世では、ここでユリウスが市民に手を振った。
宮廷に続く大通り。前世では、ここを馬車で通った。
だが、今世のセラは観光客のように歩いている。
誰にも認識されず、誰にも呼び止められず、自由に。
魔法学院の前を通りかかった時、セラの足が止まった。
門の前に、掲示板がある。
学院の公告が貼られている。研究発表会の案内、入学試験の日程、卒業生の就職先一覧。
その中に、一枚。
“勇者パーティ派遣魔導士 リーネ・フォーゲル 魔法学院特待枠推薦取り消し審議中”
審議中。
リーネの先生が、動いたのだ。
リーネの手紙を受け取り、学院に掛け合ったのだろう。
推薦の取り消し審議。つまり、リーネが勇者パーティを離れるための手続きが始まっている。
セラの胸に、温かいものが広がった。
リーネが動いた。先生が動いた。学院が動いた。
一つの手紙が、波紋を広げている。
セラはしばらく掲示板の前に立ち、それから歩き出した。
◇
宿に戻ると、アルドが一人で食堂のテーブルにいた。
剣の手入れは終わったらしく、鞘に収めた剣がテーブルの横に立てかけてある。
茶を飲みながら、何かを考えている顔。
セラは向かいに座った。
「アルドさん」
「ん」
「一つ、聞いてもいいですか」
「いいぞ」
「魔王城で、私の名前を呼んでくれましたよね。三層目に入った時と、大技の時と」
「ああ。合図だったからな」
「合図として呼んでくれたのは分かっています。でも……あの時の声、すごく近かった。すぐ後ろにいるのが分かった」
「離れたら意味がないだろう。名前を呼ぶなら、聞こえる距離で」
「聞こえる距離に、いてくれた」
セラの声が、少し震えた。
「前世では、誰も名前を呼んでくれなかった。最後の瞬間に、呼んでほしかった。でも誰も呼ばなかった。だから、今世で……アルドさんが呼んでくれた時、戻って来られた」
アルドは茶を置いた。
「セラ」
名前を呼ばれた。
今、目の前で。普通の声で。
「これからも呼ぶ。必要な時だけじゃなく。普通の時にも。朝の挨拶でも、依頼の相談でも。名前を呼ぶのに理由は要らない」
セラの目が熱くなった。
名前を呼ばれること。
それがどれほど大きなことか、前世を経験した人間にしか分からない。
名前を呼ばれることは、存在を認められること。
“ここにいていい”と言われること。
「アルドさん」
「ん」
「私も……呼びます。アルドさんの名前を。必要な時だけじゃなく」
アルドは微笑んだ。
珍しい、穏やかな笑み。
「頼む」
窓から午後の日差しが差し込んでいた。
テーブルの上に、茶の杯が二つ。
特別なことは何も起きていない。
ただ、名前を呼び合う約束をした。
それだけのことが、セラの胸を満たしていた。
◇
夜、部屋に戻ったセラに、アネスが聞いた。
「今日、一日何してたの?」
「街を歩いて……リーネさんのことで良い知らせを見つけて……あと、アルドさんと少し話しました」
「少し、ね」
アネスが微笑む。
「アネス。一つ聞いていいですか」
「何?」
「私は……アルドさんのことを、どう思っているんでしょうか。自分で分からないんです」
アネスは寝台に腰を下ろし、セラを見た。
「分からない?」
「はい。信頼はしています。パーティのリーダーとして尊敬もしています。でも、それだけじゃない気がする。背中が消える時に胸が痛いのは、信頼だけでは説明がつかない」
アネスは少し考えて、言った。
「セラ。それは、名前がなくてもいい感情だと思うよ」
「名前がなくていい?」
「今は、“離れたくない”で十分。それが信頼なのか、依存なのか、もっと別の何かなのかは、歩きながら分かっていくことだよ。急いで名前をつけなくていい」
セラは頷いた。
「離れたくない」
口に出してみた。
言葉にすると、形になる。形になると、少しだけ受け入れられる。
前世のセラには、“離れたくない”と思う相手がいなかった。
今世のセラには、いる。
それだけで、今世を生きている意味がある。




