第六十五話 離れることの怖さ
アルドが宿に戻ったのは、日が暮れてからだった。
三時間近く外にいた。
食堂に降りてきたアルドの顔は、いつも通りだった。
穏やかで、静かで、表情の変化が少ない。
だがセラは気づいた。目の奥に精神の疲労がある。
誰かと話して消耗した後の目だ。ミルネの会談の後にも見た目。
「ただいま」
「おかえり」レインが杯を差し出す。「長かったな」
「城に着いた時点で、典礼官に捕まった。明日の段取りを延々と聞かされた」
「父上には?」
「会ってない。明日の協議で顔を合わせる」
食事を取り、明日の出頭の段取りを確認し、早めに部屋に戻った。
◇
セラは眠れなかった。
寝台の上で天井を見つめている。
宿の天井は白い漆喰で、蝋燭の灯りが揺れるたびに影が動く。
眠れないのは、明日の出頭が不安だからではない。
政治の場が怖いわけでもない。
前世で宮廷を経験している。建前と儀礼の世界には免疫がある。
怖いのは、アルドが一人で何かを背負おうとしていること。
“三人は巻き込まれなくていい”。
ルドナで言ったあの言葉が、胸に引っかかっている。
アルドは優しい人だ。
優しいから、一人で背負おうとする。
仲間を守るために、自分だけが前に出ようとする。
ミルネでもそうだった。
王家の書簡を一人で受け取り、会談に一人で行こうとした。
あの時はレインが「行くぞ」と言って付いていった。
だが今回は、王城だ。
ミルネの城都とは規模が違う。
ここには王がいる。アルドの父親がいる。
“お前の力は国のものだ”と言った人間が、正面に座る。
セラは寝台に起き上がった。
胸の中の感情を、整理しようとした。
前世のセラは、人との距離を恐れなかった。
恐れなかったのではない。距離そのものを知らなかった。
勇者パーティの中では、セラと他の三人の間に常に壁があった。
壁があることに慣れていたから、壁が怖いとは思わなかった。
今世のセラは、壁のない関係を知ってしまった。
アルドの茶。レインの軽口。アネスの手。
名前を呼ばれること。信頼されること。
壁がない分、距離が変わることが怖い。
アルドが政治に巻き込まれて、パーティを離れたら。
王家に戻って、王子として生きることになったら。
“すぐ戻る”と言って出ていって、戻ってこなかったら。
前世の足音が蘇る。
遠ざかっていく足音。
あれは、もう終わったはずだ。
魔王城で泣いて、区切りをつけたはずだ。
だが恐怖は、完全には消えない。
形を変えて、戻ってくる。
前世の恐怖は”置いていかれること”だった。
今世の恐怖は”離れること”だ。
似ているが、違う。
前世は受動的な恐怖。今世は能動的な恐怖。
“離れたくない”と思う自分がいるから、怖い。
セラは自分の胸に手を当てた。
鼓動を感じる。速い。
この感情に名前をつけるなら、何だろう。
信頼か。依存か。
それとも。
セラは首を振った。
今はまだ、名前をつけなくていい。
名前をつける前に、やるべきことがある。
明日、アルドの隣にいる。
それだけだ。
◇
翌朝。四人は宿を出て、王城に向かった。
王城は街の北端にある。
白い石の壁で囲まれた広大な敷地。尖塔が七本、空を刺している。
アルドがギルド本部から発行された出頭許可証を見せた。
衛兵がそれを確認する。“殿下”と呼びかけるのを、意図的に避けた。
アルドの表情で察したのだろう。
王城の敷地内は、街の喧騒とは別世界だった。
広い前庭。手入れされた芝生と花壇。噴水が水を上げている。
セラは歩きながら、前世の記憶を抑えていた。
同じ場所。同じ噴水。同じ石畳。
前世では、ここを歩いた時、セラの横にユリウスがいた。
今世では、アルドがいる。
正面玄関で、典礼官が待っていた。
「お待ちしておりました。アルド殿下、並びに銀夜の残火の皆様。授与式は午後です。その前に、協議の場が設けられております」
「協議には、誰が出席する?」
「王城典礼局長、騎士団代表、そして……陛下のご列席が予定されております」
陛下。
王。アルドの父親。
アルドの歩調が、一瞬だけ乱れた。
セラは無言で、アルドの半歩後ろを歩いた。
言葉はかけない。だが、いる。
半歩の距離で、いる。




