第五十六話 城を出る
城の中は、静かだった。
魔王が消えたことで、魔力場が急速に薄まっている。
肌を刺すような圧迫感が消え、空気が軽くなっていく。
呼吸が楽になった。肺に入る空気が、普通の空気に戻っている。
濡らした布を顔に巻いていたが、もう必要ない。アルドが最初に布を外し、他の三人も続いた。
階段を登る足が重い。
魔力枯渇の影響が、戦闘の緊張が解けたことで一気に出てきた。
百段の階段が、行きの倍の長さに感じる。
セラは一段ずつ数えながら登った。
行きと同じように。数を数えることが、足を動かす動機になる。
一。二。三。
アルドが前を歩いている。
セラの歩調に合わせて、ゆっくりと。
二層目を通過する時、魔物の気配はなかった。
魔王が消えたことで、城を維持していた魔力の体系が崩れたのだろう。
通路の壁に刻まれていた紋様の光が消え、ただの黒い石に戻っている。
護衛の魔物も消えたか、あるいは散り散りに逃げたか。
獣型の魔物の死骸は残っているが、もう動かない。
黒い石の通路を歩きながら、セラは壁に手をついた。
壁の冷たさが手のひらに伝わる。
前世ではこの壁に触れる余裕もなかった。
今は、壁に手をついて、休みながら歩ける。
「セラ、ペース落とすぞ」
アルドが前方から声をかける。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる。顔が白い。ゆっくり行く」
反論する余力がなかった。
アルドの判断に従い、歩調を落とす。
一層目の回廊では、罠の魔法陣が消えていた。
魔力の供給が途絶え、陣が描かれた石の表面がただの模様に戻っている。
壁の針の罠も、発射機構が停止している。
あれほど緊張した往路が、帰りは静かな廊下でしかなかった。
アネスがセラの横を歩き、時折脈を確認している。
手首を取り、脈拍を数え、頷く。
「脈は安定してる。でも遅い。魔力枯渇の影響で循環が落ちてる。急がないで」
「すみません。足を引っ張って」
「引っ張ってない。全員疲れてる。セラだけじゃない」
レインが後ろから言った。
「俺も足が棒だよ。弓を持ってる腕が震えてる。カッコよく言えないけど、正直しんどい」
全員が疲れている。
だが全員が歩いている。
城門が見えた。
黒い扉は開いたままだ。その向こうに、灰色の空が覗いている。
空の色が、これほど嬉しいと思ったことはなかった。
四人は城門をくぐった。
外に出た瞬間、風が吹いた。
山の風。冷たく、清潔で、魔力を含まない風。
肌に触れる風が、ただの風であることに、涙が出そうになった。
セラは立ち止まり、目を閉じて、風を顔に受けた。
生きている。
この場所に来て、戦って、勝って、生きて出てきた。
前世では、二度とくぐれなかった門を、今世ではくぐった。
入って、出た。
前世のセラは入ったまま出てこなかった。
今世のセラは出てきた。
目を開けると、盆地の景色が広がっていた。
灰色の空。岩壁に囲まれた窪地。
だが、紫の霧が消えている。
城の周りを覆っていた魔力の霧が、完全に晴れていた。
枯れた草が見え、地面の色が分かる。茶色い土。普通の土だ。
城そのものにも変化が起きていた。
黒曜石のような壁面に亀裂が走り、尖塔の一つが傾いている。
中央の塔の先端が崩れ、石片が地面に散らばっていた。
魔王が消えたことで、城を維持する力が失われたのだ。
レインが城を振り返って言った。
「あれ、そのうち崩れるな」
「崩れますね。魔力で維持されていた構造物は、魔力がなくなれば瓦解します。数日持つか、数時間か」
「記念に一個持っていくか。黒い石」
「やめとけ」アルドが言う。「魔力が残ってたら厄介だ」
「冗談だよ」
レインは笑ったが、目は笑っていなかった。
疲労と安堵が混ざった、奇妙な表情だった。
笑いたいのに笑えない。安心したいのに、まだ信じられない。
◇
盆地を出るには、来た時と同じ岩壁の裂け目を通る必要がある。
だが、裂け目の手前で、セラの膝が折れた。
限界だった。
魔力枯渇の影響が、戦闘の緊張が完全に解けたことで一気に出た。
視界が暗くなり、耳鳴りがする。
手足が痺れ、自分の身体の輪郭が曖昧になる。
「セラ!」
アネスが駆け寄る。
「大丈夫、意識はあります。ただ、足が……動かない」
「動かなくていい。ここで少し休む」
アルドが判断した。
迷いなく。即座に。
「裂け目を出るまで、あと少しだ。だが無理して倒れたら、狭い通路で詰まる。ここで三十分休む。水と食料を出せ」
セラは岩に背中を預け、座り込んだ。
空を見上げる。
盆地の丸い空。灰色の雲が薄くなり、隙間から青空が覗いている。
風が冷たいが、心地いい。生きている風だ。
アネスがセラの手首を取り、脈を確認している。
「脈は安定してる。魔力枯渇の典型症状。水を飲んで、糖分を取れば回復する。急に動かなければ大丈夫」
レインが荷物から干し果物を出し、セラの手に乗せた。
「食え。甘いやつ。干しぶどう。俺の非常食」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。食え」
干しぶどうを口に入れた。甘さが舌に広がり、少しだけ視界が明るくなる。
糖分が脳に届いている。身体が「もっとくれ」と言っている。
アルドは裂け目の入口に立ち、外の様子を窺っている。
警戒を怠らない。魔王は倒したが、山の魔物がいないとは限らない。
剣の柄に手をかけたまま、岩の間の風の音を聞いている。
四人がそれぞれの役割を果たしている。
セラが倒れても、パーティは回り続ける。
一人が欠けた分を三人が補い、回復を待つ。
前世では、セラが倒れたら置いていかれた。
“足手まとい”。その言葉は直接言われなかったが、態度で示された。
今世では、座り込んだセラの横に、三人がいる。
その事実が、干しぶどうの甘さよりもずっと温かかった。




