第五十五話 誰も倒れていない
しばらく、誰も動けなかった。
暗闇の中に、セラの灯りの魔法だけが残っている。
だがそれも弱い。魔力が尽きかけているせいで、蝋燭の火ほどの光しか出ない。
四人の顔が、薄暗い光の中で浮かんでいる。
静寂が重い。
戦闘中は聞こえなかった自分の呼吸が、やけに大きく聞こえる。
四人分の呼吸。荒く、不規則で、少しずつ落ち着いていく。
最初に動いたのはアネスだった。
セラのそばに膝をつき、左肩を診る。
手で触れ、魔力の流れを確認する。
「感覚は?」
「……ない。肩から指先まで。影腕に触れられた場所です」
「影腕の魔力侵食。魔王の魔力がセラの魔力回路に入り込んでる。毒とは違う。異物だね。時間が経てば、セラ自身の魔力が押し出すと思うけど、念のため」
アネスの手が緑色に光り、セラの肩に当てられた。
温かさが、ゆっくりと肩から腕に広がる。
アネスの魔力が、セラの回路に残った魔王の魔力を洗い流している。
指先にぴりぴりとした感覚が戻ってきた。痛いが、感覚がある。
「痛い?」
「痺れてるだけです。感覚が戻ってきた」
「なら大丈夫。神経は無事。完全に戻るまで、半日くらいかかるかも」
アルドが剣を鞘に収め、セラの前に立った。
剣の刃には欠けが三か所。鎧の左肩に爪の跡がある。
だが致命傷はない。全員、生きている。
「立てるか」
「……少し待ってください」
「急がなくていい。時間はある」
レインが弓を下ろし、矢筒を確認した。
矢筒を逆さにして、中を覗く。
「残り四本か。ぎりぎりだったな。あと一体多かったら足りなかった」
それから壁にもたれ、天井を見上げた。
暗い天井。さっき一瞬だけ見えた、あの高い天井。
今は見えない。灯りが弱すぎる。
「なあ、俺たち……やったのか?」
「やった」アルドが短く答える。
「魔王を。倒したのか。本当に」
「倒した」
「四人で」
「四人で」
レインは天井を見上げたまま、長い息を吐いた。
吐き出した息が、暗闇に溶けた。
「……すげえな、俺たち」
声が震えていた。
レインが震えるのを見るのは、初めてだった。
いつも飄々としていて、軽口を叩いて、深刻な顔を見せない男が、震えている。
怖かったのだ。レインも。
怖いまま戦って、怖いまま勝った。
セラは床に座ったまま、周囲を見回した。
暗い空間。
前世で死んだ場所。
だが今は違う。
四人が、ここにいる。
全員が意識を保っている。全員が呼吸をしている。全員が生きている。
前世では、この場所にはセラの身体だけが残された。
冷たい床の上で、天井の暗闇を見上げて、一人で死んだ。
ユリウスの足音が遠ざかり、カイルの鎧の音が消え、ディーノの詠唱が途切れた。
最後に残ったのは、セラの浅い呼吸だけだった。
それも、やがて止まった。
今世では。
セラの目から、涙がこぼれた。
泣くつもりはなかった。
戦闘中は平気だった。魔王と対峙している間は、怒りと集中で涙が入る隙がなかった。
フラッシュバックの瞬間も、名前を呼ばれて戻れた。
戦っている間は、泣けなかった。
だが終わった瞬間に、全てが溢れた。
堤防が決壊するように。
一滴が落ちた瞬間に、止められなくなった。
声を殺して泣いた。
リーネのように。前世の自分のように。
声を殺す癖が、身体に染みついている。
泣き声を聞かれたくない。弱いと思われたくない。迷惑をかけたくない。
いや、違う。
セラは口を開いた。
声を出して泣いた。
初めて。
声を殺さずに、泣いた。
大声ではない。ただ、口を閉じなかった。
嗚咽が暗い空間に響いた。
天井に反響し、壁に跳ね返り、消えていく。
前世でセラが死んだ空間に、セラの泣き声が満ちた。
アルドは何も言わなかった。
セラの横に立ち、腕を組んで、待っていた。
レインも何も言わなかった。
壁にもたれたまま、弓を膝の上に置いて、目を閉じていた。
アネスだけが、セラの背中に手を置いていた。
何も言わない。ただ、手を置いている。
治癒の手ではない。ただの、温かい手。
泣き終わるまで、誰も動かなかった。
誰も”大丈夫か”と聞かなかった。
大丈夫じゃないことは分かっている。でも、大丈夫じゃなくていい。
泣きたいだけ泣けばいい。
そういう沈黙だった。
◇
どのくらい泣いていたのか分からない。
五分か、十分か。時間の感覚がなかった。
涙が止まった時、セラの目は腫れ、喉が渇き、身体から力が抜けていた。
でも、胸の奥が軽かった。
何かが流れ出た後の、空洞のような軽さ。
空っぽだが、重くはない。
前世の記憶がまだある。消えてはいない。
ユリウスの背中。遠ざかる足音。暗い天井。
全部、まだ胸の底に沈んでいる。
だが、その上に新しい記憶が乗った。
アルドの声。“セラ、ここにいるぞ”。
レインの矢。弓の限界まで引いた全力の一射。
アネスの手。回復の光。そして、ただの温かい手。
四人で立っている。この場所で。
前世で死んだ場所で、四人で立っている。
前世の記憶は消えない。
でも、今世の記憶で上書きできる。
暗い天井を見上げて死んだ記憶の上に、四人で立っている記憶を乗せる。
完全には消えない。でも、一番上に来るのは今世の記憶だ。
セラは立ち上がった。
足元がふらつく。アルドが腕を差し出した。
「掴め」
「……はい」
アルドの腕を掴んで立ち上がった。
太い腕。安定した力。
前世では、最後に手を差し伸べてくれた人はいなかった。
「帰ろう」
アルドが言った。
「はい。帰りましょう」
四人は階段を登り始めた。
来た道を戻る。
暗い城の中を、灯りの魔法で照らしながら。
セラの灯りは弱かったが、四人の足元を照らすには十分だった。




