第五十四話 囮ではなく、先陣として
※タイトル重複
魔王の大技の後、短い静寂が落ちた。
互いに体勢を立て直す時間。
魔王も消耗している。影腕の残り一本が、明滅するように不安定になっている。
左の影腕の輪郭がぼやけ、時折透けて見える。
大技で大量の魔力を消費したのだ。
セラは息を整えながら、状況を整理した。
思考を止めない。止めたら恐怖に呑まれる。考え続ける。
魔力残量三割。
触媒の小瓶は残り二本。火山灰と氷結粉。
身体の損傷は軽微。右腕の痺れは回復済み。頬の擦り傷は気にならない。
アルド:剣の刃に欠けが一か所。腕に爪傷。体力は七割程度。呼吸がやや荒い。
レイン:矢の残り十二本。体力は八割。まだ余裕がある。
アネス:回復魔法の使用回数はまだ余裕あり。ただし魔力場の影響で消耗が早い。顔色がやや青い。
勝てる。
前世の知識と今世の技術があれば、勝てる。
だが問題は、セラの魔力が三割しかないこと。
魔力弾をもう一発撃てば、残りは一割を切る。
一割を切れば、魔力枯渇で意識を失う可能性がある。
前世のセラは、魔力が枯渇した状態で”前に出ろ”と言われた。
空っぽの身体で囮になり、魔王の攻撃を引きつけ、死んだ。
今世では。
「アルド」
「ああ」
「私が前に出ます」
アルドの目が光った。
「前に?」
「影腕の残り一本を消すのに、魔力弾がもう一発必要です。至近距離から撃てば確実に当たる。遠距離だと、魔王に影腕で弾かれる可能性がある」
「至近距離って、どのくらいだ」
「三歩」
三歩。
魔王の腕が届く距離だ。
爪の射程内。衝撃波を避けられない距離。
アルドは一瞬黙った。
その一瞬に、いくつもの計算が走ったのだろう。
リスク。成功率。代替案。
そして、セラの意思。
「一人で行くのか」
「いいえ。一緒に来てください。私が影腕を消す。アルドさんが、その瞬間に実体の腕を斬る。影腕が消えれば、魔王の防御が崩壊します。残るのは実体の腕一本だけ。そこにレインの矢とアネスの束縛術を重ねれば、止められる」
アルドはセラの目を三秒見つめた。
三秒。四十六話の宿で”行こう”を決めた時と同じ時間。
頷いた。
「分かった。行こう」
「……聞かないんですか。“それで大丈夫か”って」
「セラの判断だろう。セラが”行く”と言うなら、行く。それがこのパーティのやり方だ」
前世とは違う。
前世では、“前に出ろ”は命令だった。セラの意思は関係なかった。
今世では、“前に出ます”はセラの意思だ。セラが決めて、セラが動く。
囮ではなく、先陣として。
捨てられるためではなく、切り開くために。
「レイン、最大の一射を用意してください。影腕が消えた瞬間に、魔王の胸を狙って。弓の限界まで引いて」
「任せろ。外さない」
「アネス、束縛術の準備を。魔王の足を止めてくれれば、レインの矢が確実に届きます。タイミングは矢と同時に」
「了解。セラに合わせる」
四人の息が揃った。
言葉ではなく、呼吸が揃った。
吸う。吐く。同じタイミング。
◇
セラとアルドが前に出た。
並んで走る。セラが左、アルドが右。
二人の足音が、暗い空間に響く。
同じ速度。同じリズム。
魔王が反応する。
紫の瞳がセラを捉え、残った影腕が防御の構えを取る。
影腕が胸の前に広がり、盾になる。
実体の二本の腕が、攻撃態勢に入る。
魔王の右腕が振り下ろされた。
アルドが受ける。剣と爪が衝突し、火花が散る。金属の悲鳴が空間に響く。
アルドの足が床を滑る。だが持ちこたえている。
左腕が横薙ぎに来る。
セラは身を屈めた。爪が頭上を通過し、風圧で髪が数本切れた。
灰色の髪が空中に舞う。
三歩の距離に入った。
影腕が迎撃に来る。
半透明の腕がセラの顔面を狙う。
防御と攻撃を同時に行える影腕の特性。
セラは魔力弾を生成した。
右手に集中。残り全て。
三割の魔力を全て注ぎ込む。
手のひらが白熱する。骨が軋む。指の関節が悲鳴を上げる。
これ以上は無理だという信号が全身から届く。無視する。
影腕とセラの手が、同時に動いた。
影腕がセラの左肩に触れた。
冷たい。氷よりも冷たい。
冷たさではなく、“無”の感覚。
魔力が身体の中に侵入してくる。セラの魔力回路を、魔王の魔力が逆流する。
肩から腕にかけて感覚が消える。指が動かない。
同時に、セラの右手が影腕の付け根に魔力弾を叩き込んだ。
光が弾けた。
紫と白の光が交差し、空間が一瞬だけ昼のように明るくなった。
天井が見えた。黒い石の天井。高さは三十メートル以上ある。
前世では見えなかった天井が、一瞬だけ見えた。
影腕が悲鳴のような音を立てて崩壊する。
紫の光が霧散し、影が消えた。
四本あった腕が、二本になった。
いや、一本。
アルドの剣が閃いていた。
影腕が崩壊した瞬間を逃さず、魔王の右の実体腕を、肘の関節ごと斬り落とした。
黒い液体が噴き出し、床に散る。
魔王が咆哮した。
声ではない。魔力の爆発が、音になった。
空間全体が震える。壁にひびが走り、天井から石片が落ちる。
だがその足が動かない。
アネスの束縛術。
床から伸びた光の鎖が、魔王の両足に絡みついている。
治癒術の応用。生体の筋肉の動きを固定する技術を、攻撃に転用した。
本来は骨折した患部を固定するための魔法だ。
それを、魔王の足に使った。
そしてレインの矢が飛んだ。
全力の一射。
弓が軋み、弦が唸る。弓の限界まで引いた一射。
矢が空気を裂いて直進する。風切り音が鋭い。
魔王の胸に命中した。
矢が深く突き刺さり、魔王の身体が後方に押された。
束縛の鎖が軋む。だが足は動かない。
魔王は残った左腕で矢を掴み、引き抜こうとした。
だが矢の先端にはセラが仕込んだ氷結の触媒が塗ってあった。
出発前に、セラが全ての矢先に塗っておいた。
“万が一のために”。万が一が今だ。
胸の内部から凍結が始まる。
氷が矢を起点に広がり、魔王の体内を侵食する。
魔王の動きが鈍くなる。紫の瞳の光が薄れていく。
「……二度目の人間に、やられるとはな」
魔王の声が掠れた。
もう、声に力がない。
セラは床に膝をついていた。
魔力が尽きかけている。左肩の感覚がない。視界が暗い。
身体が重い。立っていられない。
だが意識はある。
前世では、この時点で意識を失っていた。
倒れて、天井の暗闇を見上げて、そのまま暗闇に沈んだ。
今世では、目が開いている。
膝をついているが、顔は上を向いている。
魔王の最期を、見ている。
魔王の身体が崩れ始めた。
黒いローブが灰になり、四肢が溶けるように消えていく。
氷の結晶と紫の光が混ざり合い、粒子になって空気に散る。
紫の瞳が最後にセラを見た。
「お前は……怒りで来たのだな。怒りは良い燃料だが、燃え尽きるぞ」
「燃え尽きない」
セラは膝をついたまま答えた。
声が掠れている。だが言葉は明瞭だ。
「一人なら燃え尽きた。でも、四人いる」
魔王は笑ったように見えた。
口元が僅かに動いた。嘲笑ではない。
何か別の感情。理解か、諦めか、あるいは――羨望か。
それが最後の表情だった。
紫の光が消え、闇が戻り、魔法陣の輝きが死んだ。
静寂。
完全な静寂。
魔王が消えた。
魔力の圧迫感が、一瞬で消えた。
空気が軽くなった。肺に入る空気が、ただの空気に戻った。
魔王が消えた。




