第五十三話 前世と今世の境界
魔王の影腕が一本消えたことで、攻撃パターンが変わった。
残った左の影腕が防御に回り、身体の前に展開している。
盾のように広がった影腕が、魔王の胸と顔を覆っている。
実体の二本の腕が攻撃を担い、従来より積極的に振るわれる。
速い。前世より速い。
実体の腕が、コンマ一秒の間に二回振るわれる。
「前世では影腕二本で攻撃していました。実体の腕はそこまで速くなかった。今は実体で攻めてきてる。戦い方を変えてきた」
「学習してるのか」アルドが剣で爪を弾きながら叫ぶ。顔に汗が飛ぶ。
「魔王は知性がある。一度見た攻撃は対策を取る。パターンを読む」
セラの脳が高速で回転する。
前世の記憶と今の状況を照合し、差分を抽出する。
前世と同じ点:城の構造、魔王の基本形態、影腕の弱点。
前世と違う点:二層目の魔物の種類、門が開いていたこと、魔王の戦術変更。
前世の知識が全て通用するわけではない。
だが、基盤はある。基盤の上に、今世の判断を乗せればいい。
前世の知識は地図であり、今世の判断は足だ。
地図があっても歩かなければ進めない。
魔王の左腕が横薙ぎに振られた。
黒い衝撃波――さっきより細く、速い。扇状ではなく、一本の線。狙い撃ちだ。
狙いはセラ。
魔力弾を撃てる唯一の存在を、魔王は最優先で排除しようとしている。
正しい判断だ。魔王にとってセラが最大の脅威であることは、影腕を消された時点で確定している。
セラは土壁を立てた。
床から石の壁が隆起し、セラの前に立ちはだかる。
だが衝撃波が壁を貫通する。魔力で構成された攻撃に、物理的な壁は紙と同じだ。
壁が砕け、石片がセラの頬を擦った。血が滲む。
壁の向こう側にいたレインが、矢を放った。
衝撃波の隙を突いて、魔王の顔面を狙った一射。
タイミングは完璧だった。魔王が攻撃動作に入った直後、防御が最も薄い瞬間。
魔王が左の影腕を動かして弾く。矢が砕け散る。
だがその一瞬で、衝撃波の追撃が途切れた。
影腕を防御に使った分、次の攻撃が遅れる。
セラは横に転がり、体勢を立て直した。
右の腕が痺れている。衝撃波の余波を受けた。指先の感覚が鈍い。
「アネス!」
「分かってる!」
アネスの回復魔法が飛んでくる。
緑色の光がセラの右腕に絡みつき、痺れが引いていく。
指先の感覚が戻る。
四人の連携が、自然に回っている。
誰かが攻めている時、誰かが守り、誰かが回復する。
声をかけなくても、視線と気配で動けるようになっている。
カレイドの森の哨戒で鍛えた連携が、ここで活きている。
これが、パーティだ。
前世のセラは、これを知らなかった。
“パーティ”という言葉は知っていたが、中身を知らなかった。
◇
戦闘が十五分を超えた頃、変化が起きた。
魔王が後退した。
初めて、魔王が距離を取った。
実体の腕を振るう動作を止め、魔法陣の中央に戻った。
三本の腕を広げ、身体を浮かせた。
足が床から離れ、魔法陣の上空に浮いている。
「来る」
セラが叫んだ。
魔法陣が激しく発光した。
紫の光が空間全体を満たし、影が消える。
床の紋様が回転し始めた。螺旋状の文字が光りながら、時計回りに回っている。
空気が渦を巻く。魔力が魔法陣に吸い込まれ、凝縮されていく。
大技だ。
前世でも見た。
魔王が追い詰められた時に使う広範囲攻撃。
溜めが長い代わりに、威力が桁違いだ。
前世では、この攻撃でカイルの盾が砕けた。
魔力耐性のある特注の盾が、一撃で粉々になった。
ディーノの指輪が三つ壊れた。指輪は魔力の過負荷で焼き切れた。
そしてセラは――この攻撃の後に”前に出ろ”と命じられた。
魔力が尽きかけた状態で、囮になれと。
記憶がフラッシュバックする。
紫の光。魔法陣の回転。ユリウスの声。
“セラ、前に出ろ”。
視界が白くなりかけた。
足が床から離れる感覚。ここにいるのに、ここにいない感覚。
「セラ!」
アルドの声。
名前。今世の名前。
白い視界が引き戻される。
床の感触が足裏に戻る。
「私はここにいる」
セラは自分に言い聞かせた。声に出した。
自分の声を聞くことで、現実に戻る。
「ここにいる。今世にいる。四人でいる」
魔法陣の光が最大になった。
紫の光が目を灼き、空気が振動する。
もうすぐ来る。
「全員、私の後ろに!」
セラは両手を前に出した。
魔力を全身から絞り出し、防御を展開する。
壁ではない。
魔力の膜。空間そのものを歪めて、攻撃を逸らす構造。
ソロの二年間で編み出した最大の防御術。
通常の壁は魔力攻撃を受け止めるが、受け止めれば壊れる。
この膜は受け止めるのではなく、逸らす。
攻撃の軌道を歪めて、左右に分散させる。
川の中に立てた楔のように、流れを二つに割る。
名前はつけていない。名前をつける余裕がなかっただけだ。
ソロの夜営で、一人で試行錯誤した技だ。
魔王の広範囲攻撃が放たれた。
紫の光が波となって押し寄せる。
音がない。光だけが迫ってくる。
だが光が触れた場所は全て破壊される。
床が割れ、壁が砕け、空気が燃える。
空間全体が紫の光に呑み込まれた。
セラの防御膜に、波が衝突した。
衝撃。
足が地面にめり込む。腕が軋む。歯を食いしばる。
全身の骨が悲鳴を上げている。
魔力が削られていく。膜が薄くなる。
紫の光が膜を侵食し、セラの手のひらに触れそうになる。
だが、持ちこたえた。
波が左右に分かれ、四人の横を通過していく。
背中の風圧で、髪が前に煽られた。
波が収まった。
紫の光が薄れ、空間に静寂が戻る。
床には深い溝が二本、セラの防御膜が光を分割した跡として残っていた。
セラの腕が震えていた。
膝が笑っている。
魔力の残量は三割。一気に消耗した。
だが四人とも立っている。
前世では、この瞬間に立っていたのはユリウスだけだった。
カイルは膝をつき、ディーノは壁に叩きつけられ、セラは床に倒れていた。
ユリウスだけが聖剣の力で立ち、そしてセラに”前に出ろ”と言った。
今世では、四人が立っている。
魔王の紫の瞳が、僅かに揺れた。
「……四人とも立っているのか」
驚きが、声に混じっていた。
初めて、魔王の声に感情が乗った。




