第四十八話 前世の景色
四日目の朝。
エルドガルドの裏側に回り込んだ。
山脈の北面は険しく、岩壁が切り立っている。
南面とは植生が違う。木が少なく、岩と苔と枯れ草だけの世界。
風が常に吹いていて、体温を奪う。
だがセラは前世の記憶で、一つだけ通れる裂け目を知っていた。
「ここです。この岩の隙間を通ります」
巨大な岩壁。高さは十メートル以上ある。
その壁面に、縦の裂け目が走っている。
人一人がやっと通れる幅。外からは影にしか見えない。
周囲の岩と同じ色をしていて、知らなければ絶対に見つけられない。
レインが裂け目に近づき、中を覗き込んだ。
「暗いな。底が見えない。どこまで続いてる?」
「三百歩ほどで抜けます。途中で二回折れ曲がるから、先の光も見えない。でも行き止まりじゃない。その先が盆地です。魔王城が見えるはずです」
「前世ではどうやって見つけたんだ、こんな場所」
「ディーノです。あの男は探索の天才でした。岩壁の微かな風の流れを感じて、向こう側に空間があると気づいた。それだけは、認めざるを得ない」
ディーノの名前を出すと、声が少し固くなった。
ディーノは勇者パーティの中で、セラに”邪魔なら下がっていてくれ”と言った男だ。
だが同時に、パーティの中で最も有能な支援魔導士だった。
嫌いだ。だが実力は認めている。その二つの感情が共存している。
アルドが裂け目の壁面に手を当てた。
岩の質感を確かめ、足元の安定性を見ている。
「足元は?」
「湿っています。苔が生えてる。滑りやすい。前世では夏だったから乾いていましたが、今は冬なので注意が必要です」
「了解。ロープを出す。四人で繋いで進む」
アルドが荷物からロープを出し、四人の腰を結んだ。
二メートル間隔。誰かが滑っても、他の三人で支えられる距離。
前世では、ロープなど使わなかった。
ユリウスが先頭に立ち、振り返りもせず進んだ。
セラは最後尾で、暗闇の中を一人で歩いた。
四人は裂け目に入った。
セラが先頭。右手に小さな灯りの魔法を灯す。
魔力場の影響で、小さな灯りのつもりが少し明るくなりすぎた。
出力を抑え、松明程度の光に調整する。
岩壁が両側から迫り、天井は手を伸ばせば届く高さ。
足元は湿っていて、苔の匂いがする。
水が岩壁を伝い、足元に細い流れを作っている。
三百歩。
セラは歩数を数えながら進んだ。
前世でも数えた。同じ場所。同じ暗さ。同じ湿った空気。同じ苔の匂い。
五十歩。百歩。
最初の折れ曲がりを過ぎると、裂け目の幅が少し広がった。
二人が並べるくらいの幅になり、天井も高くなる。
百五十歩。二百歩。
二つ目の折れ曲がりの手前で、セラは足を止めた。
魔力感知に反応がある。微弱だが、前方に生物の気配。
「止まってください。何かいます」
四人が止まった。ロープが軽く張る。
セラは灯りの光を絞り、魔力感知を前方に集中させた。
小さな反応。地面に近い位置。動きが鈍い。
「……蛇型の小型魔物です。冬眠しかけてる。動きは遅い。刺激しなければ通れます」
「数は?」
「二体。壁に張り付いてます。右の壁、腰の高さ」
アルドが頷き、剣の柄に手を置いたまま、右壁を避けて進んだ。
四人は左壁に寄って、静かに通過した。
蛇型の魔物は、壁の窪みでとぐろを巻いていた。
黒い鱗が灯りの光を反射して、微かに光っている。
頭を上げかけたが、また下ろした。冬の寒さで動く気力がないのだろう。
通過。
「ナイスだ、セラ。完璧な誘導」レインが小声で言う。
二百五十歩。三百歩。
前方に、灰色の光が見えた。
裂け目の出口だ。
だが前世と違うのは、背中に三人の足音があること。
アルドの重い靴音。レインの軽い足取り。アネスの規則的な歩み。
三つの足音が、セラの後ろで鳴っている。
ロープの重みが腰に伝わる。繋がっている。
遠ざからない足音。
◇
裂け目を抜けた。
目の前に、盆地が広がった。
円形の窪地。直径は一里ほど。
周囲を岩壁に囲まれ、空だけが丸く開いている。
灰色の雲が低く垂れ込め、日差しはない。
盆地の底は平坦で、枯れた草が霜に覆われて白く光っている。
空気が変わった。
外の山道とは明らかに違う。
重い。粘い。魔力の密度が、さっきまでの数倍に跳ね上がっている。
息を吸うだけで、肺の中で魔力がざわめく。
盆地の中央に、それはあった。
黒い城。
尖塔が三本、灰色の空を突いている。
一番高い塔が中央にあり、左右にやや低い塔が並んでいる。
壁は黒曜石のように光を吸い込み、窓はない。
城の輪郭が、周囲の空気に溶け込むように曖昧だ。
近くにあるのに遠くに見える。大きいのに小さく見える。
魔力の結界が、視覚を歪めている。
城の周囲に、紫色の霧が漂っている。
霧は地面を這うように広がり、城壁の根元を覆っている。
魔力の霧だ。これが、魔力酔いの原因だろう。
前世と同じだった。
同じ城。同じ形。同じ色。同じ紫の霧。
二度目の人生で、同じ場所に立っている。
セラの足が止まった。
息が詰まる。
視界が揺れる。
心臓が跳ね、手足が冷たくなる。
あの城の中で、死んだ。
あの城の最深部で、暗い床の上に倒れて、天井の暗闇を見上げて、一人で。
誰も来なかった。誰の足音も聞こえなかった。
痛みが遠のいて、感覚が消えて、最後に残ったのは暗闇だけだった。
記憶が、城を見ただけで蘇る。
魔力場が増幅しているのか、いつもより鮮明だ。
色も、音も、痛みも。
「セラ」
アルドの声。
近い。すぐ後ろにいる。
ロープが腰に触れている。繋がっている。
「……はい」
「ここにいるぞ」
短い言葉。
だが、その声が錨になった。
揺れる船を繋ぎ止める錨のように、セラの足元が固まった。
ここにいる。四人で。
前世ではない。今世だ。
隣にアルドがいて、後ろにレインとアネスがいる。
セラは深く息を吸い、城を見据えた。
黒い城。前世で死んだ場所。
今度は、ここで死なない。
「行きましょう」




