第四十五話 カレイドの朝、それぞれの旅路
勇者パーティが出立する朝が来た。
空は晴れていた。
冬の終わりの風がまだ冷たいが、日差しには春の気配がある。
港の水面が朝日を受けてきらきらと光り、鷗が高く飛んでいる。
港の通りに馬車が一台。
勇者パーティの装備が積まれている。
聖剣の鞘が馬車の荷台から覗いている。装飾の金属が朝日を反射して光っている。
ユリウスが先頭に立ち、カイルとディーノが荷を確認している。
ユリウスは通りを行く人々に軽く手を上げている。
英雄の去り際。堂々として、自信に満ちている。
リーネは馬車の横に立っていた。
荷袋を肩にかけ、杖を手に持ち、静かに通りの先を見ている。
風が栗色の髪を揺らしている。
セラたちは宿の前にいた。
見送るつもりはなかった。
たまたま出発の準備が重なっただけだ。
セラたちも今日、カレイドを出る。
次の目的地は西の街道。旧砦の村を経由して、南の情報を集める。
荷物をまとめ、宿の清算を済ませ、宿の前に出た。
その時、通りの向こうに馬車が見えた。
リーネがこちらに気づいた。
一瞬、足が止まった。
それから馬車の横から離れ、小走りで駆けてくる。
足首はもう痛くないらしい。しっかりとした足取りだ。
「セラさん」
「……リーネさん」
リーネは息を整え、セラの前に立った。
目が赤い。昨夜も泣いたのかもしれない。
だが今は泣いていない。唇を引き結んで、真っ直ぐにセラを見ている。
「考えました。昨日の夜から、ずっと考えました」
セラは黙って聞く。
「今すぐは……出られません。パーティを抜ける手続きがある。王命討伐隊は正式な組織だから、勝手に離脱したら処罰対象になる可能性があります。推薦してくれた先生への報告も必要です。勝手に消えたら迷惑がかかる人がいるから」
セラは頷いた。
正しい判断だ。衝動で動けば、リーネ自身が不利になる。
手順を踏む必要がある。前世のセラにはその余裕がなかった。
「でも」
リーネの声が少し強くなった。
昨日の市場での声より、一段階はっきりしている。
「このまま、ずっとじゃない。次の拠点に着いたら、先生に手紙を書きます。今の状況と、自分の意思を伝えます。先生が聞いてくれるかは分からない。でも、伝えなければ始まらないから」
自分の意思。
セラの胸に、温かいものが広がった。
ゆっくりと、確かに。
リーネは”選ばれて”パーティに入った。
自分の意思ではなく、周囲の期待で。
今、初めて”自分の意思”で動こうとしている。
「……それでいいと思います。いい判断です」
「セラさんが言ってくれたこと、忘れません。“恩は命を差し出す理由にはならない”って」
リーネの目は赤いが、涙は流れていない。
泣く代わりに、口元を引き結んでいる。
強さは、泣かないことではない。泣いた後に立つことだ。
この子は、立っている。
セラは自分でも驚くほど自然に、リーネの手を握った。
栗色の髪の少女の手は、細くて、少し冷たかった。
でも、握り返す力がある。
「手紙を書いたら……良ければ、ルドナのギルドに一報ください。私たちの拠点です。銀夜の残火というパーティ名で登録してあります」
リーネの目が丸くなった。
「いいんですか」
「もちろん。受け皿がないと、動きにくいでしょう。行く場所があると分かれば、動ける」
受け皿。
前世の自分にはなかったもの。
あの時、家から追放されたセラに手を差し伸べる人はいなかった。
行く場所がなかったからソロの冒険者になった。
それでも生きてこられたのは、運が良かっただけだ。
だから今世では、自分がそれになる。
“ここに来ていい”と言える場所を、差し出す。
リーネは何度も頷き、両手でセラの手を握り返した。
細い指に、力がこもっている。
「ありがとう。ありがとうございます。セラさん」
声が震えていた。
でも、崩れなかった。
泣きそうな顔で、笑おうとしている。
その不器用な表情が、セラの胸を打った。
◇
馬車の方から、ユリウスの声が飛んだ。
「リーネ、何やってる。出るぞ」
いつもの命令口調。振り返りもしない。
リーネは手を離し、一歩下がった。
「行きます」
踵を返し、馬車の方へ駆け戻る。
その背中は、数日前に市場で見た背中とは違っていた。
肩が内側に入っていない。少しだけ、背筋が伸びている。
駆け戻る途中で、リーネが振り返った。
一瞬だけ。セラと目が合い、小さく頭を下げた。
それから、笑った。
小さく、不器用に。でも確かに笑った。
馬車に乗り込む。
幌の中に消えていく。
ユリウスが馬車の先頭に立ち、号令をかけた。
馬車が動き出す。
車輪が石畳の上を転がり、港の通りをゆっくり進んでいく。
リーネが幌の隙間からこちらを見た。
小さく手を振った。
セラも手を上げた。
自然に。力まずに。
ソロの頃なら、絶対にしなかった動作だ。
馬車が角を曲がり、見えなくなった。
車輪の音が遠ざかり、やがて波の音に紛れて消えた。
◇
通りに静けさが戻る。
港の波音と、鷗の声だけが残った。
朝の日差しが石畳を温め始めている。
レインが隣に来た。
腕を組み、馬車が消えた方角を見ながら。
「泣くなよ」
「泣いてません」
「目、赤いけど」
「風のせいです」
「はいはい」
アネスが小さく笑い、アルドが肩をすくめた。
セラは空を見上げた。
冬の空は高く、薄い雲が流れている。
雲の間から青空が覗き、日差しが肌に触れる。
春が近い。
全ては解決していない。
リーネはまだ勇者パーティの中にいる。
手紙を書くかどうかも、まだ分からない。
ユリウスの性格が変わるわけでもない。
前世の傷が消えたわけでもない。
でも、いくつかのことが変わった。
前世では、誰にも言えなかった。
今世では、言えた。
前世の話をアルドに打ち明けた。
怒りを”正しい”と言ってもらえた。
リーネに手を伸ばした。
“恩は命を差し出す理由にはならない”と、自分が一番聞きたかった言葉を、誰かに渡した。
渡した言葉は、自分にも返ってくる。
◇
カレイドを出る準備を整えた。
次の目的地は西の街道。旧砦の村を経由して、南の情報を集める。
出発の前に、アルドが言った。
「昨夜の話、レインとアネスにも共有していいか」
前世のこと。
セラは少し考えた。
怖さはまだある。二人にどう受け取られるか、分からない。
アルドは受け止めてくれた。でも、全員がそうとは限らない。
だが、隠したまま旅を続けることの方が、もう怖い。
嘘の重さに、耐えられなくなっている。
「……はい。共有してください。隠したまま旅を続けるのは、もう無理だと思うので」
アルドが頷き、レインとアネスに目を向けた。
「話がある。長くなるけど、聞いてくれ」
レインが矢筒を下ろし、椅子に座り直した。
「聞くよ」。軽い声。だが目は真剣だ。
アネスが薬の袋を閉じ、テーブルに手を置いた。
「もちろん」。穏やかな声。いつも通り。
四人は宿のテーブルを囲み、セラは二度目の告白をした。
前世のこと。勇者パーティのこと。囮にされたこと。死んだこと。
目を覚ましたら子どもだったこと。記憶を持ったまま今世を生きていること。
ユリウスの顔を見た時の恐怖。リーネと自分を重ねたこと。
話し終えた時、セラの手は震えていた。
だが声は、昨夜より安定していた。
二度目は、少しだけ楽だった。
言葉にした記憶は、二度目の方が制御しやすい。
レインが沈黙を破った。
「……なるほどな。市場で固まった理由、やっと分かった。あの時、声かけづらかったんだよな。何が起きてるか分からなくて」
責める声ではなかった。
“分からなかったけど気にしてた”という声だった。
アネスが静かに言う。
「全部話してくれて、ありがとう。重かったでしょう。一人で、ずっと」
「……はい。重かったです」
「じゃあ、もう重いまま持たなくていい。四人で分ける」
セラの目が熱くなった。
四人で分ける。
荷物を分けるように。食糧を分けるように。
前世の痛みを、四人で分ける。
アルドが茶を注ぎ直す。
四つの杯に、均等に。
「さて。前世の話は受け取った。これからどうするかは、歩きながら考えよう」
いつもの声だった。
特別扱いしない。重くし過ぎない。
ただ”受け取った”と言って、前に進む。
アルドはいつもそうだ。
セラは茶を一口飲み、立ち上がった。
「行きましょう」
四人は宿を出た。
荷物を背負い、武器を携え、カレイドの門に向かう。
門を抜けると、海風が背中を押した。
強い風。潮の匂い。冬の終わりの、冷たくて温かい風。
前には長い街道が伸びている。
白い道が、丘の向こうに消えている。
隣にはアルド、レイン、アネスがいる。
四人の足音が、石畳の上で重なる。
後ろには、リーネとの約束がある。
ルドナのギルド。銀夜の残火。
手紙が届くかどうかは分からない。
でも、“届く場所がある”ということを伝えた。
それだけで、一つの扉が開いている。
前世の影はまだ消えていない。
ユリウスの顔も、“そうか”の一言も、胸の底に沈んだままだ。
死んだ記憶も、暗い天井も、遠ざかる足音も、消えてはいない。
でもセラは歩いている。
一人ではなく、四人で。
二度目の人生で初めて、前世に向き合えた。
初めて言葉にした。初めて受け止められた。
初めて、同じ傷を持つ誰かに手を伸ばせた。
それだけで、今日の一歩には意味がある。
街道の向こうに、春の気配がある。
まだ見えないが、近づいている。
セラは前を向いて歩いた。




