第四十三話 “前世”という言葉
その夜、セラは宿の屋上に出た。
港町の夜は風が強い。
潮の匂いが髪を攫い、外套の裾をはためかせる。
遠くで灯台の光が回っている。等間隔で、ゆっくりと。
港に停泊した船のマストが、月明かりの中で林のように並んでいる。
一人になりたかった。
頭の中が騒がしすぎて、誰かの声を聞く余裕がない。
ユリウスの顔。リーネの涙。“そうか”の一言。“全員の面倒は見切れない”。
“離脱”と書かれた報告書。“引き取り”という言葉。
リーネの口が動いた”ありがとう”。
全部が混ざって、どれが今世の怒りで、どれが前世の痛みか、区別がつかなくなっている。
感情の糸が絡まって、どこを引っ張れば解けるのか分からない。
一人で解こうとすると、余計に絡まる。
屋上の縁に座り、足を投げ出した。
石の縁は冷たい。風が頬を叩く。
冷たさが、少しだけ頭を冷やす。
◇
屋上の扉が開いた。
アルドだった。
二杯の茶を持って、静かに歩いてくる。
湯気が風に散らされている。
セラの隣に座った。
距離は肩一つ分。近すぎず、遠すぎず。
「邪魔するぞ」
「……一人がよかったんですけど」
「嫌なら言え。帰る」
嘘ではない。アルドは本気で帰る人間だ。
“一人にしてくれ”と言えば、茶だけ置いて消える。
それが分かっているから、甘えられる。
セラは少し考えて、首を振った。
「いいです。いてください」
茶を受け取った。
両手で包むと、温かさが指先から腕に伝わる。
潮風が二人の間を通り抜ける。
しばらく無言だった。
灯台の光が回り、波の音が繰り返し、船の綱が風に鳴る。
アルドが先に口を開いた。
「昼のこと、整理したい。怒りの中身を、俺にも少し見せてくれないか」
「……難しい話になります」
「難しくていい。俺は頭が良くないから、難しい話を聞くのに慣れてる」
謙遜ではなく、緊張を解くための冗談だ。
アルドなりの気遣い。不器用だが、確かに届く。
セラは茶を一口飲んだ。温かさが喉を通り、少しだけ頭が冷える。
言える範囲を選ぶ。
嘘をつかずに、でも全部は言わずに。
……いや。
もう、“言える範囲”を選んでいる場合ではない気がした。
カレイドに来てからずっと、セラは”言える範囲”で誤魔化してきた。
“今世では知り合いじゃない”。“似た経験がある”。“理由はまだ言えない”。
全部、嘘ではないが、全部、核心を避けている。
そしてその核心が、セラ自身を食い破ろうとしている。
前世の記憶が、今世の身体に収まりきらなくなっている。
出さなければ壊れる。
「私には……前の記憶があるんです」
声が出た。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
震えていない。もう、震える余裕すらないのかもしれない。
アルドは黙って聞いている。
茶を持ったまま、前を向いて。
「今の人生の前に、別の人生があった。その人生で、私はあの勇者パーティにいました。四人目として。ユリウスの隣で、魔導士として戦っていました」
言ってしまった。
前世。
今までどうしても言えなかった二文字が、口から出ていた。
出た瞬間、胸の圧迫感が少しだけ楽になった。
言葉にすると、形になる。形になると、少しだけ手放せる。
アルドの表情は変わらなかった。
驚かない。否定もしない。疑いもしない。
ただ、聞いている。
「その人生で、私は囮にされました。魔王との最終戦で、仲間だと思ってた人たちに、最後に切り捨てられた。“引きつけろ”って言われて、前に出て、そのまま置いていかれた」
声が震えそうになった。
歯を食いしばって止める。
ここで崩れたら、最後まで言えなくなる。
「……そして死にました。暗い場所で、一人で」
長い沈黙が落ちた。
潮風だけが鳴っている。
灯台の光が回り、屋上に影と光の縞を作る。
波の音が、遠くで繰り返している。
「目を覚ましたら、今世にいました。赤ん坊……いえ、子どもの自分に。記憶も魔法の感覚も持ったまま。だから……あのパーティを見ると、身体が勝手に反応するんです。怒りなのか、怖さなのか、分からないくらいに」
全部言った。
言えることは全部言った。
セラは膝を抱え、顔を伏せた。
言い終えた後の空虚感が、胸の中に広がっている。
◇
アルドが口を開いた。
「信じるよ」
セラは顔を上げた。
「……信じるんですか。前世の話を。普通は、おかしいと思うでしょう」
「セラの反応が嘘じゃないのは分かってた。市場で顔が白くなった時も、ギルドで拳を握った時も、あれは身体が覚えてる恐怖だった。頭で作れる反応じゃない」
アルドは茶を一口飲んだ。
「剣を握ったことがない人間は、剣を向けられても”怖い”と思うだけだ。でも、剣で斬られたことがある人間は、剣を見ただけで傷が痛む。セラの反応は後者だった」
的確だった。
アルドは人の反応を見る目が鋭い。
「前世がどうとか、理屈の部分は俺には分からない。でも、セラが本気で怖がってて、本気で怒ってて、それがあの勇者パーティに向いてるのは本当だろ」
「はい」
「なら、それで十分だ。理屈は後でいい。セラが感じていることが嘘じゃないなら、原因が前世だろうと今世だろうと、対処の仕方は変わらない」
セラの目が熱くなった。
泣くつもりはなかったのに、視界が滲む。
前世の話を、初めて誰かに言った。
受け止められた。
否定されなかった。
“おかしい”とも、“気のせいだ”とも言われなかった。
それがどれほど重いか、セラ自身がまだ把握しきれていなかった。
ただ、胸の中で何かが緩んだ。
ずっと締め上げていた紐が、一本だけ解けた感覚。
◇
アルドが続けた。
「リーネのこと。セラは、自分と重ねてるんだな」
「はい。同じ席に座って、同じ扱いを受けている。このままだと、同じ結末になる」
「結末って……」
「最後に捨てられます。使えなくなった時に。……あるいは、使い潰される形で」
言葉にすると、残酷さが際立つ。
だが事実だ。前世の経験が、それを証明している。
アルドの顔が険しくなった。
穏やかな表情の下に、怒りが見えた。
セラへの怒りではない。ユリウスへの怒りだ。
「助けたいか」
「助けたいです。でも……怖い」
「何が怖い」
「関わったら、前世の自分に引き戻される。あの頃の痛みが全部戻ってくる。今の自分が保てなくなるかもしれない」
正直な恐怖だった。
リーネを助けることは、前世と向き合うことだ。
ユリウスと対峙し、あの時の怒りと悲しみを全部引き受けることだ。
あの暗い空間の記憶を、目を開けたまま見つめ直すことだ。
今の自分に、それができるのか。
ソロの二年間で積み上げた強さは、前世の痛みに耐えられるのか。
今のパーティで得た居場所は、前世の記憶に壊されないのか。
アルドは立ち上がり、セラの正面に立った。
月明かりを背にして、影が長い。
「一人でやるなら怖いだろう。でも、四人でやるなら話が違う」
セラは見上げた。
「俺とレインとアネスがいる。セラが崩れそうになったら、支える。引き戻す。前に言っただろ、“置いてかない”って」
あの夜の言葉。
夜襲の後に交わした約束。
雪の街道で。火の前で。
「あれ、今も有効だからな。有効期限なしだ」
セラは唇を噛んだ。
涙が一筋、頬を伝った。
風に冷やされて、頬が冷たい。
「……ずるい」
「何が」
「そういう言い方されたら、断れない」
アルドは小さく笑った。
笑顔は珍しい。普段は穏やかだが、笑うことは少ない。
「断らなくていい。明日から考えよう。今日は寝ろ」
セラは茶を飲み干し、立ち上がった。
足元がふらつく。泣いたせいで力が抜けている。
風が強くなり、外套の裾が煽られる。
扉に向かいながら、一度だけ振り返った。
「アルドさん」
「ん」
「ありがとうございます。……言えて、よかった」
アルドは片手を上げた。
言葉はなかったが、その手のひらが、月明かりの中で開かれていた。
拳ではなく、開いた手。
受け取る形の手。
それで十分だった。




