第四十一話 勇者の帰還
翌朝。
セラは夜明け前に目を覚ました。
眠れたのは二時間ほどだ。
目を閉じるたびにリーネの泣き顔が浮かんだ。
声を殺して泣く姿。岩壁にもたれた背中。震える杖の先端。
その奥に、前世の自分が重なった。
魔王城の暗い空間。倒れた自分。遠ざかる足音。
天井の闇。
何度寝返りを打っても、記憶が剥がれなかった。
二時間眠れたのは、身体が限界に達したからだ。
窓の外はまだ暗い。
港の灯りが水面に細く揺れている。
漁船が出る前の静けさ。波の音だけが規則的に聞こえる。
隣の寝台で、アネスが寝息を立てている。
穏やかな呼吸。セラの不眠に気づいているかもしれないが、起こさない。
それがアネスの距離感だ。
セラは音を立てずに起き上がり、顔を洗い、髪を結んだ。
鏡の中の自分は、目の下に隈がある。頬が少しこけている。
二日前より痩せた気がする。食事を摂れていないせいだ。
◇
食堂に降りると、アルドがもうテーブルにいた。
蝋燭が一本、テーブルの端に灯っている。
その明かりの中で、アルドは地図を広げていた。
昨日の戦闘痕の位置を書き込み、勇者パーティの進路と自分たちの哨戒範囲を重ねている。
「早いな」
「……眠れなくて」
「俺もだ」
アルドの目にも、疲労の色がある。
だが手元は正確だ。地図の書き込みに乱れがない。
眠れなかった時間を、仕事に使っている。
アルドは茶を差し出した。
宿の食堂に置いてある保温壺から注いだものだ。湯気が細く立つ。
セラは両手で受け取り、温かさを指先に染み込ませた。
「リーネの様子は?」
「さっきアネスが見に行った。足首の腫れは引いてきてる。今日中に歩けるようになるって」
「そうか」
短い会話。
だがその裏に、お互いの心配と疲労と、言葉にならない感情がある。
アルドもまた、昨日の出来事を消化しきれていないのだ。
セラは茶を一口飲んだ。
温かい液体が、空っぽの胃に落ちる。少しだけ、生きている実感が戻る。
◇
短い会話の間に、表の通りが騒がしくなった。
馬蹄の音。人の声。ざわめきが波のように広がる。
宿の窓ガラスが微かに振動した。大人数の足音だ。
アルドが窓の外を見た。
蝋燭の明かりに照らされた横顔が、一瞬だけ硬くなった。
「……戻ってきたな」
セラも窓に寄った。
宿の前の通りを、三人の男が歩いていた。
先頭にユリウス。
聖剣を腰に、外套に返り血がこびりついている。
血は乾いて黒ずみ、外套の裾に泥が跳ねている。
だが歩き方は堂々としていた。背筋が伸び、顎が上がっている。
勝者の歩き方だ。
左にカイル。
赤い鎧の肩当てが一つ欠けている。右の頬に擦り傷があり、血が乾いている。
だが足取りに揺らぎはない。巨体を揺すりながら、前を向いて歩いている。
右にディーノ。
フードを被ったまま。指輪の一つが砕けて、指に巻き付いた金属の残骸が光っている。
口元だけが見えていて、薄い笑みを浮かべている。
三人。
疲労はあるが、全員が自分の足で歩いている。
一晩中戦って、上位種の巣を潰して、朝日とともに帰ってきた。
実力は本物だ。それだけは認めなければならない。
通りに人が出始めた。
早起きの商人や、港に向かう漁師が足を止め、三人を見る。
すぐに声が上がった。
「勇者様だ!」
「やっぱり勝ったんだ! すげえ!」
「三人で全部やったのか!」
「さすが聖剣の勇者だ!」
三人。
誰もリーネの名前を出さない。
四人目がいたことすら、群衆は気にしていない。
四人パーティだったことを知っている人間は、ギルドの関係者以外にはいないのだろう。
世間にとって、勇者パーティとは”三人の英雄”だ。
四人目は最初からいない。透明人間。数に含まれない存在。
前世のセラも、そうだった。
勇者パーティの功績は、常にユリウスとカイルとディーノのものだった。
セラの名前が記録に残ることは、ほとんどなかった。
存在しない四人目。いてもいなくても変わらない枠。
セラは茶を握ったまま、指先が白くなるほど力を込めた。
陶器が軋む音が、小さく鳴った。
◇
一時間後、ギルドに勇者パーティの帰還報告が入った。
セラたちは朝食を取った後、ギルドへ向かった。
自分たちの哨戒報告を提出する必要がある。
ギルドのロビーは朝から混んでいた。
勇者パーティの帰還の知らせが広まり、冒険者や商人が情報を求めて集まっている。
掲示板の前に人だかりができていた。
帰還報告の要約が貼り出されている。
上位種六体を殲滅。巣の中核を破壊。森の脅威は大幅に低下。
周辺の村への被害は最小限。街道の安全は回復。
報告書にはユリウス、カイル、ディーノの三名が記されていた。
リーネの名前は、備考欄に一行だけ。
“魔導士リーネは戦闘中に負傷し、離脱。別パーティにより救助済み”
離脱。
“置き去りにされた”ではなく、“離脱”。
“危険な場所に一人残された”ではなく、“負傷し、離脱”。
言葉の選び方で、事実が歪む。
主語が消える。行為者が消える。
“誰が離脱させたのか”が書かれていない。
リーネが自分の意思で離脱したかのように読める。
前世でもそうだった。
セラの死は、公式記録にどう書かれたのだろう。
“殿の魔導士が囮任務中に戦死”か。
あるいは、“戦闘中に負傷し、離脱後に死亡”か。
どちらにしても、“ユリウスが囮に使った”とは書かれないだろう。
セラは報告書の写しを見つめ、静かに息を吐いた。
レインが横から覗き込み、眉を顰めた。
「離脱、ね。随分きれいな言い方だ。“置き去り”って書けばいいのに」
アネスは何も言わなかったが、報告書から目を逸らした。
読みたくない、というより、読むと怒りが出る、という顔だった。
アルドは腕を組んだまま、窓の外を見ている。
何を考えているのか、表情からは読めない。
ギルドの受付嬢が困った顔で近づいてきた。
昨日の緊急救助を処理してくれた、そばかすの受付嬢だ。
「あの、アルドさん。勇者パーティから、リーネさんの引き渡しの連絡がありました。宿に戻り次第、合流するようにとのことです」
引き渡し。
人を物のように扱う言葉が、また一つ。
引き渡し。引き取り。拾う。
全て、リーネを”物”として扱う動詞だ。
セラは立ち上がった。
「リーネさんのところへ行きます」
アネスが頷く。
「私も行く。足首の最終確認がまだだから」
◇
ギルドの休憩室に入ると、リーネは起き上がって窓の外を見ていた。
寝台の上に座り、足を床に下ろしている。
包帯が巻かれた足首が、少しだけ腫れている。
だが昨日より遥かに良い。アネスの治療が効いている。
通りの歓声が、窓越しに聞こえている。
“勇者様だ”。“すごい”。“三人で”。
リーネはその声を聞きながら、膝の上の手を見つめていた。
表情は凪いでいた。怒りでも悲しみでもない。
感情の全てが引いた後の、乾いた静けさ。
セラが入ると、リーネは振り返り、少し慌てた顔をした。
「あ、昨日の……セラさん。ありがとうございました。本当に」
「怪我の具合は?」
「歩けるようになりました。アネスさんのおかげです」
リーネは立ち上がり、足首に体重をかけてみせた。
少し顔をしかめたが、歩ける。
アネスが膝をつき、足首の包帯を確認する。
指先で腫れ具合を触り、関節の可動域を確かめる。
「腫れはほぼ引いてる。無理しなければ大丈夫。ただ、今日の戦闘は控えた方がいい。急に走ったり、強い衝撃を受けたりすると、靭帯が再度伸びる」
リーネは頷いた。
それから、窓の外に目を戻す。
歓声が、まだ続いている。
“勇者パーティ”。“英雄”。“聖剣”。
「ユリウスさんたち、帰ってきたみたいですね」
声が小さかった。
歓声を聞いている横顔に、喜びはない。安堵もない。
自分のパーティが勝ったのに、何の感情も浮かんでいない。
あるのは、諦めに似た静かさだった。
“自分がいなくても勝てた”。
その事実を、リーネは今、噛み締めている。
「……戻らないといけないんです。迷惑かけたから」
また、この言葉。
置いていかれた側が、自分を責めている。
“迷惑をかけた”のはリーネではなく、リーネを置いていった三人だ。
だがリーネにはその発想がない。
“自分が弱いから置いていかれた”。“自分が足を引っ張ったから”。
セラは口を開きかけて、止めた。
ここで”戻らなくていい”と言うのは簡単だ。
でもそれは、リーネの意思を無視することになる。
リーネが自分で決めなければ、意味がない。
誰かに言われて動くのは、“ユリウスに言われて囮になる”のと構造が同じだ。
代わりに、セラは別のことを聞いた。
「リーネさん。一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「あのパーティに入ったのは、自分で選んだんですか」
リーネの瞳が揺れた。
質問の意味を理解するのに、一拍かかったようだった。
「……選ばれたんです。魔法学院の特待枠で。先生が推薦してくれて……。勇者パーティに魔導士の空きがあるって話が来て、私が適任だって……。断れませんでした」
断れなかった。
前世のセラも同じだった。
国から任命され、勇者パーティに配属された。
師匠が喜び、同期が羨み、家族が誇った。
“光栄なことだ”と言われた。
断る選択肢は、最初から存在しなかった。
選ばされた。
自分の意思ではなく、周囲の期待で席に座った。
だからこそ、自分の意思で席を立つことができない。
「もう一つ。今、あのパーティにいて……楽しいですか」
リーネの目が見開かれた。
誰にも聞かれたことのない質問だったのだろう。
“つらくないか”は聞かれたことがあるかもしれない。
でも”楽しいか”は、誰も聞かなかったのだ。
長い沈黙。
窓の外の歓声が、沈黙を埋めている。
リーネは首を横に振った。
「……楽しくは、ないです」
その一言が、セラの胸に深く刺さった。
楽しくない。
前世のセラも、楽しくなかった。
勇者パーティの旅は、義務と恐怖と孤立の連続だった。
楽しいと思った瞬間が、一度もなかった。
今のパーティは違う。
アルドの茶。レインの軽口。アネスの静かな手。
野営の火。見張りの引き継ぎ。地図を囲む相談。
楽しい。今の旅は、楽しい。
その差が、リーネを見ると痛いほど分かる。




