第四十話 帰ってこない三人
アネスがリーネの足首を治療している間に、セラは周囲の警戒を続けた。
谷の底は静かだった。
二体の甲虫の死骸が横たわり、その間を風が通り抜ける。
死骸から甘酸っぱい匂いが漂い始めている。体液が漏れているのだ。
セラは谷の縁に立ち、魔力感知を広げた。
周囲に魔物の反応はない。
だが深部の方角から、断続的に魔力の振動が伝わってくる。
ユリウスたちの戦闘は、まだ続いているらしい。
波動の間隔が広がっている。疲労が見える。
しばらくして、斜面の上からアルドとレインが降りてきた。
二人とも無傷だが、表情が硬い。
アルドの目が鋭く、レインの口元が引き結ばれている。
普段の軽口がない。それだけで、状況の深刻さが分かる。
アルドが言った。
「深部は近づけなかった。途中で上位種が二体出てきた。俺とレインで処理したが、その奥にまだいる。少なくとも五体以上」
「五体以上?」レインが苛立ちを隠さずに言う。「“中程度”ってなんだよ。全然中程度じゃないだろ」
アルドは続ける。
「勇者パーティの三人は戦闘中だが、こっちに気づいてない。……というか、気にしてない。周囲の状況を確認する余裕がないのか、あるいは確認する気がないのか」
「リーネさんのことも?」
「見た限り、探しに来る気配はなかった。三人で深部に向かっている。振り返りもしてない」
セラの拳が握られた。
探しに来ない。
四人目を谷に残して、探しに来ない。
魔物に囲まれているかもしれない。怪我をしているかもしれない。
それでも、探しに来ない。
前世と同じだ。
セラを囮に残して、振り返りもしなかった。
足音が遠ざかる音。闇の中で一人。
“あいつは引きつけてくれてるから大丈夫だ”と、ユリウスは言ったのだろうか。
それとも、何も言わなかったのか。
どちらでも同じだ。
振り返らなかった事実は変わらない。
アネスがリーネの足首に包帯を巻き終え、立ち上がった。
治癒魔法の淡い光が消え、足首の腫れが少し引いている。
「応急処置は終わった。歩けるようにはなるけど、今日は無理。担いで森を出る必要がある」
リーネが慌てて言う。
まだ涙の跡が頬に残っている。
「あ、あの、私……パーティに戻らないと。ユリウスさんたちが、まだ戦ってるなら……」
「戻る?」レインが眉を上げた。声に怒りが滲んでいる。「お前を置いてった連中のところに?」
リーネが口をつぐんだ。
レインの言い方はきつかった。
だが事実だった。
置いていかれた場所に戻る理由が、リーネにはない。
レインは普段、他人に対してここまできつい言い方はしない。
怒っているのだ。リーネの扱いに。
レインは弓使いだ。後衛の気持ちが分かる。
後衛を置き去りにする前衛への怒りが、声に出ている。
だがリーネは小さな声で言った。
両手を膝の上で握り締め、視線を落として。
「でも……私がいないと、支援が足りなくて……。ユリウスさんたちの消耗が、早くなっちゃうから……。迷惑を、かけるから……」
セラの胸が痛んだ。
この子は、置いていかれた側なのに、自分を責めている。
“いないと迷惑”ではない。“いても迷惑扱いされていた”のに、まだ自分の不在を心配している。
前世のセラもそうだった。
捨てられた後でさえ、“自分がいれば勝てたのに”と考えた。
“自分が足りなかったから、囮にされたんだ”と。
被害者が加害者の心配をする。被害者が自分を責める。
それが、壊れ方の一つだ。
一番残酷な壊れ方。
自分で自分を否定し続けるから、誰かが止めない限り終わらない。
セラはリーネの前にしゃがんだ。
膝をつき、目線を合わせる。
リーネの栗色の瞳は、まだ涙で濡れていた。
でも泣いてはいない。泣き止んだのではなく、泣く力が尽きたのだ。
「今のあなたの仕事は、足を治すことです。パーティのことは、元気になってから考えてください」
冷たくも温かくもない、事実だけの声。
アネスがセラにそうしてくれたように。
感情を乗せない。同情も怒りも込めない。
ただ、今やるべきことだけを伝える。
リーネは少し驚いた顔をした。
誰かに”今は休め”と言われたことがないのかもしれない。
勇者パーティの中では、休むことは”サボり”だったのだろう。
それから小さく頷いた。
「……はい」
その”はい”は、今日一番小さく、今日一番正直な声だった。
◇
リーネを担いで森を出た。
アルドが背負った。
リーネは最初「重いです、すみません」と謝ったが、アルドは「軽い」とだけ返した。
嘘だ。装備込みで軽いわけがない。でも、その嘘は優しかった。
セラが後方を警戒し、レインが先導し、アネスがリーネの体調を見る。
いつもの隊形を、一人増やした形で維持する。
森の中を歩く間、リーネはアルドの背中で黙っていた。
時折、小さな声で「すみません」「ありがとうございます」と繰り返す。
そのたびにアルドが「いい」と短く返す。
森の外に出ると、空が暗くなり始めていた。
冬の夕暮れは早い。西の空が赤紫に染まり、東はもう紺色だ。
最初の星が一つ、低い位置に光っている。
冷たい風がリーネの髪を揺らした。
アルドの背中から顔を出したリーネが、空を見上げた。
その目に映っているのは、夕焼けなのか、安堵なのか。
◇
カレイドのギルドに戻ると、受付嬢が駆け寄ってきた。
「リーネさん! よかった……。無事で……」
受付嬢の声が震えていた。本気で心配していたのだ。
「勇者パーティからは何の連絡もなくて」
何の連絡もない。
その言葉に、セラは一瞬だけ目を閉じた。
怒りが喉の奥まで上がってくる。
飲み込む。ここで感情を出しても、何も解決しない。
リーネはギルドの休憩室に運ばれ、アネスが最後の手当てをした。
足首を固定し、冷却の魔法をかけ、包帯を巻き直す。
明日には歩けるようになるだろう。
リーネは寝台に横たわり、アネスの手当てを受けながら、天井を見つめていた。
何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見えた。
空虚な目。感情が全部出尽くした後の、静かな目。
レインが窓の外を見ながら呟く。
腕を組み、壁にもたれて。
「あの三人、まだ森の中か」
アルドが答える。
「たぶん。上位種を全部片づけるまで出てこないだろう。そういうタイプだ。勝つまで帰らない」
「リーネのことは?」
「……帰ってきてから話すしかない」
その”帰ってきてから”が、セラには引っかかった。
帰ってきて、何を話すのか。
“なぜ置いていった”と問い詰めるのか。
“合理的判断だった”と返されて、終わるのか。
“安全だと思った場所に残しただけだ”と言い訳されて、終わるのか。
前世では、そうだった。
囮にされた後、仮に生き延びていたとしても、ユリウスは”合理的だった”と言っただろう。
“お前が引きつけてくれたおかげで勝てた。感謝してる”と、笑顔で言っただろう。
そして次もまた、同じことをしただろう。
◇
セラは休憩室の扉の外に立ち、中のリーネの寝息を聞いた。
泣き疲れて眠ったらしい。
規則的な呼吸が、薄い扉越しに聞こえる。
時折、寝息が乱れる。悪い夢を見ているのかもしれない。
この子を、どうする。
関わらないと決めていた。
前世の人間に、今世で関わる理由はないと。
線を引いて、越えなければいい。
自分の人生は自分で守る。他人の人生に手を出す余裕はない。
でも、もう関わってしまった。
助けてしまった。名前を知ってしまった。涙を見てしまった。
声を殺して泣く横顔を、膝をついて見てしまった。
線はとっくに越えている。
今さら引き返しても、見たものは消えない。
セラは壁にもたれ、天井を見上げた。
ギルドの天井は木造で、梁が太い。蝋燭の灯りが揺れて、影が踊っている。
今世の自分は、前世と同じ過ちを見過ごすのか。
“自分には関係ない”と目を逸らし、リーネが壊れていくのを見ているのか。
前世で自分を見てくれなかった人間と同じことを、今度は自分がするのか。
それとも、何かを変えるのか。
答えはまだ出ない。
でも、目を逸らすことだけは、もうできなくなっていた。
扉の向こうで、リーネが寝返りを打つ音がした。
小さな音。生きている音。
セラは目を閉じ、深く息を吐いた。
前世の自分は、死んだ。
今世の自分は、生きている。
生きているなら、選べる。
選べるなら、目を逸らさない選択もできる。
そう思えたのは、たぶん、この四人の旅があったからだ。




