第三十九話 同じ過ちの匂い
ギルドは騒然としていた。
受付嬢が確認隊の編成を急いでいるが、カレイドに滞在中のAランク以上のパーティはセラたちしかいない。
Bランクの冒険者が数人名乗り出たが、上位種が相手では力不足だ。
上位種の甲虫は殻が異常に硬く、Bランクの武器では表面に傷をつけるのがやっとだ。
受付嬢が困惑した顔で帳面を捲っている。
確認隊の手続き。王命討伐隊の管轄への介入許可。
手続きを踏んでいたら、日が暮れる。
アルドが受付嬢に言った。
「うちが行く」
「しかし、勇者パーティの依頼範囲です。正式な要請がない限り――」
「人命救助に範囲は関係ない。ギルド規約第十七条、“パーティメンバーまたは一般人の生命に差し迫った危険がある場合、管轄の区分に関わらず最寄りの冒険者が救助に当たることができる”。そう書いてあるだろう」
受付嬢は目を見開いた。
規約の条文を正確に引用する冒険者は珍しい。
アルドは王族の教育を受けた人間だ。
法規の扱いは、身体に染みついている。
受付嬢は一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「緊急救助依頼として処理します。報告は後日で構いません。……どうか、お気をつけて」
最後の一言に、彼女の本音が滲んでいた。
規約に縛られながらも、一人の人間として心配している。
四人は走った。
◇
森の入口で、セラは装備を最終確認した。
触媒の小瓶、五本。全て蓋が緩んでいないか確認する。
包帯。短剣。腰のベルトの留め具。
一つずつ指で触れて確認する。ソロ時代の癖だ。
戦闘前に装備を確認する時間は、同時に呼吸を整える時間でもある。
魔力の残量は九割。哨戒で使った分を差し引いても、上位種二体なら十分に戦える。
問題は魔力ではなく、心だった。
レインが弓を張りながら聞く。
弦を引き、張力を確かめ、矢筒の位置を調整する。
その一連の動作をしながら、声だけをセラに向ける。
「セラ。落ち着いてるか?」
「……落ち着いてます」
嘘だ。心臓が暴れている。指先が冷たい。
「嘘でもいい。落ち着いてるって言い続けろ。言葉が先に立てば、身体が追いつく。俺はいつもそうしてる」
レインなりの気遣いだった。
軽い口調だが、中身は真剣だ。
セラは頷き、一つ深く息を吸った。
鼻から吸い、口から吐く。三回繰り返す。
心拍が少しだけ落ちる。少しだけ。
アネスが横から言う。
「セラ。今日は私が後ろにつく。普段通りでいい。判断は任せる」
「判断……私に?」
「魔力感知はセラが一番正確。先導はセラの方がいい」
アネスの判断は正しかった。
森の中では、魔力感知が最も重要な情報源になる。
セラが先導し、敵の位置と味方の安全を同時に読む。
役割を与えられると、感情が収まる。
やるべきことがあると、恐怖が後ろに下がる。
前世でもそうだった。戦闘中は怖くなかった。怖いのは、戦闘の前と後だ。
アルドが全員を見回した。
「行くぞ。いつも通りだ。いつも通りにやれば、大丈夫だ」
いつも通り。
その言葉が、四人を繋ぐ。
森に入った。
◇
木々の間を縫い、西側へ向かう。
セラが魔力感知で先導し、レインが上方を警戒し、アルドが前衛、アネスが後方。
いつもの隊形だ。
いつもの動き方で、いつもの信頼で動く。
ただ一つだけ違うのは、セラの胸の奥に、前世の記憶が火のように燃えていることだった。
その火は足を速くもし、判断を鈍くもする。
どちらに転ぶかは、セラ自身の制御にかかっている。
西側に近づくと、戦闘の痕跡が増えた。
焼け焦げた木。幹が炭化し、黒い煤が周囲に散っている。
砕けた岩。何かが叩きつけられたか、爆発で割れたか。
地面に残る爪の跡。深く、長い。大型の個体のものだ。
甲虫型の魔物の死骸が三体。いずれも上位種。
殻は厚く、刃物で斬ったような傷が入っている。
アルドが死骸を確認する。
膝をつき、切り口を指で撫でる。
「切り口が鋭い。迷いがない。聖剣の仕事だな。ここまでは勇者パーティが処理してる」
「三体か。まだ余裕がある段階だったんだろうな」レインが言う。
「問題はこの先だ」
その先で、道が分かれていた。
右は森の深部へ。木が密集し、地面が下っている。暗い。
左は小さな谷に下る地形。岩壁が切り立ち、川の跡のような窪みがある。
セラは魔力感知を集中させた。
深部の方向に、強い魔力反応が三つ。
ユリウス、カイル、ディーノだろう。戦闘中だ。
魔力の波動が激しく揺れている。余裕がなくなってきている証拠だ。
谷の方向に、弱い魔力反応が一つ。
小さく、不安定に明滅している。魔力が尽きかけている。
そして、魔物の反応が二つ。大きい。上位種だ。
「谷の方に一人。魔力が弱い。魔物が二体。上位種」
セラの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
感情を全部削ぎ落とした、情報だけの声。
アネスが言った”冷静に行って”が、今、機能している。
アルドが即断した。
「二手に分かれる。セラとアネスが谷へ。俺とレインが深部の様子を確認する。深入りはしない。状況を見て判断する」
「了解」
四つの声が重なった。
迷う時間はなかった。
◇
セラは谷へ向かって走った。
足が勝手に動く。頭より先に、身体が走っている。
斜面を駆け下りる。
木の根を飛び越え、岩を蹴り、落ち葉を散らす。
アネスが後ろからついてくる。足音が近い。離されていない。
谷の底が見えた。
岩壁に囲まれた狭い空間。
川の跡が干上がり、石と砂利が敷き詰められている。
天然の行き止まりだ。逃げ場がない。
そこにいたのは、リーネだった。
背中を岩壁に押し付け、杖を前に突き出している。
顔は青白く、唇が紫色に変わりかけている。息が荒い。
杖の先端が震えている。魔力が尽きかけているのだ。
杖の先に弱い光が明滅している。最後の防御魔法を維持しようとしているが、もう限界が近い。
その前に、甲虫型の上位種が二体。
一体はリーネを正面から睨んでいる。殻が黒く、角が二本ある。
もう一体が横から回り込もうとしていた。体長は人の背丈ほどある。
挟み撃ち。
リーネの足は動いていない。
左足首が不自然な角度で曲がっている。怪我だ。逃げられなかったのだ。
恐怖で固まっているのではなく、物理的に動けない。
セラは斜面の途中で足を止め、状況を見た。
冷静に。アネスが言った通りだ。感情で動くな。
二体の位置。リーネとの距離。谷の地形。岩壁の高さ。足元の砂利。
甲虫の殻の厚さ。弱点は複眼と腹の裏側。
魔力の残量。使える属性。風向き。
三秒で組み立てた。
「アネス、左の個体をお願いします。リーネさんとの間に入って、距離を取らせてください。正面からぶつからなくていい。注意を引くだけで十分です」
「了解」
アネスが左へ走る。
回復魔法の光が手に灯った。緑色の光が甲虫の複眼に映り、反射的に頭が向く。
光に反応する習性を利用した誘導。アネスは戦闘向きではないが、こういう判断は早い。
セラは右の個体に向けて、氷の槍を放った。
狙いは目。
前世で散々やった攻撃だ。甲虫型の弱点は複眼。殻は硬いが、目だけは柔らかい。
氷の槍は細く、鋭く、速い。貫通力に特化した形状。
氷の槍が右の複眼に突き刺さり、甲虫が悲鳴を上げた。
甲高い金切り声。頭を振り、暴れる。足が地面を掻き、砂利が飛ぶ。
その隙に、セラは斜面を一気に駆け下り、リーネの前に降り立った。
リーネが目を見開く。
恐怖で見開いた目が、セラの顔を捉える。
「だ、誰……」
「後で。今は下がって」
セラの声は自分でも驚くほど冷たかった。
冷たいのではない。余計なものを全部削った声だ。
感情も、配慮も、前世の記憶も、全部削いで、今必要な情報だけを残した声。
右の甲虫が、視力を失った右目を庇いながら突進してくる。
セラは土壁を立てた。谷の底の砂利と土を一気に固め、壁にする。
高さは胸まで。厚さは拳三つ分。
甲虫の突進が壁に衝突した。
轟音。壁が割れる。だが一瞬の時間を稼げれば十分だ。
火球を二つ、甲虫の腹の下に叩き込む。
殻の裏側は薄い。上からでは通らない熱が、下からなら通る。
前世の知識だ。嫌というほど戦った相手だ。
甲虫がのけぞり、六本の足が空を掻いた。
腹の隙間から煙が上がる。
そこにもう一発。今度は氷。腹の傷口を凍結させ、内部から凍らせる。
熱と冷の急激な変化が、殻の内側に亀裂を走らせる。
甲虫の動きが止まった。足が痙攣し、やがて静かになる。
左側では、アネスが甲虫を樹木の間に誘導していた。
谷の端にある細い隙間。木の根が複雑に絡み合った場所。
巨体では方向転換ができない。狭い場所では体の大きさが不利になる。
動きが鈍ったところに、セラが遠距離から氷の矢を三本送り込む。
一本目が左の複眼。二本目が顎の付け根。三本目が腹の裏。
三本同時ではなく、半拍ずつずらして放つ。
一本目で怯み、二本目で体勢が崩れ、三本目が急所に届く。
二体目が倒れた。
木の根の間に挟まるように、動かなくなった。
静寂が戻る。
谷の底に、二体の死骸と、三人の息遣いだけが残った。
◇
リーネは岩壁にもたれたまま、座り込んでいた。
杖を握る手が震えている。目は見開いたまま、焦点が定まっていない。
左足首が腫れている。捻挫か、軽い骨折か。
靴の上からでも分かるほどに膨らんでいて、皮膚が赤紫に変色し始めている。
アネスがすぐに駆け寄り、足首を診た。
靴を脱がせ、靴下を下ろし、腫れた部分を指で慎重に触る。
「捻挫。骨は折れてない。靭帯が伸びてるから痛いだろうけど、治療すれば歩けるようになる。……じっとしてて」
リーネは呆然としたまま頷く。
まだ状況を理解しきれていない顔だ。
死の淵にいたことが、まだ実感になっていない。
それからセラを見上げた。
栗色の瞳に、涙が溜まっている。
こぼれそうで、こぼれない。必死に堪えている。
「あの……助けてくれたの、は……」
「通りがかっただけ。依頼の範囲で」
冷たく聞こえたかもしれない。
でも、それ以上の言葉が出なかった。
温かい言葉をかけたら、自分が先に崩れそうだった。
リーネの栗色の瞳が、涙で滲んだ。
堪えきれなくなったのだろう。一筋、頬を伝う。
「みんな、奥に行っちゃって……。ユリウスさんが”ここで待ってろ”って……。安全だからって言われて……。でも魔物が来て……杖で防いだけど、足を滑らせて……」
声が途切れ途切れになる。
唇が震え、息が詰まる。
セラの胸が軋んだ。
“ここで待ってろ”。
それは”ここで囮になれ”と同義だ。
安全な場所に残されたのではない。危険な場所に置き去りにされたのだ。
“安全だから”という言葉で、リーネは納得させられた。
前世のセラも同じだった。
“お前が引きつけている間に”という言葉の裏にあるものに気づかなかった。
気づいた時には、もう遅かった。
違う。怒るな。冷静でいろ。
今は怒る時間じゃない。
セラは膝をつき、リーネと目線を合わせた。
砂利の上に膝が当たり、硬い感触が痛みと一緒に意識を引き締める。
「怪我は治る。アネスが診てくれてる。今は安全です。大丈夫」
“大丈夫”。
あの日、小川のそばでリーネが自分に言い聞かせていた言葉。
今度はセラが言う。
嘘かもしれない。でも、今この瞬間だけは本当だ。
甲虫は二体とも倒した。この谷に、もう脅威はない。
リーネの目から涙がこぼれた。
声を殺して泣いている。
肩が小さく震え、手のひらで口を押さえ、嗚咽を噛み殺している。
声を出して泣けない。
前世のセラもそうだった。
声を出したら”弱い”と言われる。泣いたら”使えない”と言われる。
だから声を殺す。涙を飲む。震えを止める。
声を殺して泣く姿が、前世の自分と重なって、セラは目を逸らせなかった。
逸らしたら、この子が見えなくなる。
前世の自分を見てくれなかった全ての人間と同じになる。
だからセラは見ていた。
リーネが泣き止むまで、膝をついたまま、見ていた。




