第五話 忘れてもよい約束
旧関税会館の改修は、床板を剥がすところから始まった。
図面では丈夫に見えた中央食堂も、長く倉庫に使われていたため、窓際の梁に湿気が残っている。私は朝から施設管理官と歩き、客の動線、厨房の排水、二つの出口へ続く廊下の幅を確かめて回る。
昼の鐘が鳴ったとき、職人が持ってきた木片へ印をつけていた。
「ヴァルト様。製粉組合の方がお見えです」
受付係の言葉で、手から木片が落ちた。
小麦粉を納める製粉組合とは、午前の三の鐘に打合せをする約束だった。今は昼を過ぎている。組合長は一時間待ち、次の仕事へ戻ったという。代わりに残った若い書記が、見本の袋だけを届けてくれた。
私は手帳を開く。
日付も時刻も書いてある。赤い線も引いた。それなのに、朝の確認で見落とした。
「すぐ組合へ馬車を出してください。私が伺います。待たせた時間の分は、こちらの都合に合わせていただかなくて結構です。見積もりも先方の条件で」
「その必要はありません」
背後からマティアスの声がした。
彼は濡れた外套を受付係へ預け、製粉組合から届いた紙を私へ差し出す。打合せは五日後へ変更。小麦の見本は会館の厨房で試してほしい、とある。
「セルン伯爵が話をつけてくださったのですか」
「市役所へ組合長が寄りました。今日は息子の誕生日なので、早く帰る理由ができて助かったと言っていました」
「それでも、私が約束を忘れた事実は変わりません」
胸の奥で、次に起こることが決まっていく。信用を失う。任された仕事が減る。別の候補者が呼ばれる。だから失う前に、余計な条件を差し出さなければならない。
「五日後までに粉の保存庫を見直します。試作の費用は私の給与から引いてください。必要なら共同運営者の権限も」
「ヴァルト様」
呼ばれても、言葉が止まらない。
「内覧会の名簿も今夜までに仕上げます。遅れた分は休暇を返上して」
「安心して忘れられたのなら、それでいい。」
責められなかったことより、その言葉の意味が分からなかった。
「安心して、とは」
「この会館には、あなた以外にも予定を覚える者がいます。受付係は来訪者を記録する。私は市役所との日程を確認する。組合にも変更を申し出る権利がある。誰か一人が忘れれば壊れる仕事にしないための契約です」
マティアスは手帳を取り上げず、私の隣に立って同じ頁を見る。
「失敗の報告は必要です。埋め合わせも話し合います。ですが、罰を先に決めないでください」
「罰ではありません。責任です」
「責任は、次に同じことを起こさない仕組みを作ることです。あなたが一晩眠らないことではない」
窓の外で雨脚が強くなる。剥がした床の上へ仮に渡した板を、職人たちが片づけ始めた。ここでは、誰かが濡れた木を見落としても、次の者が声をかける。
公爵邸では私が最後の一人だった。
「私が確認しなければ、誰も気づきませんでした」
「以前の家では、そうだったのでしょう」
彼は否定しなかった。
応接用に残した小部屋へ移ると、受付係が二人分の茶を置いた。マティアスは自分の杯へは触れず、話すかどうかを待っている。
「セルン伯爵は、忘れられたことを不快に思わないのですか」
「相手と約束によります。今日は困りませんでした。製粉組合にも別の日がある。ですから、不快になる理由がありません」
「大切な約束なら」
「悲しみます。悲しいと伝えます。それで相手が私に従う義務まで生まれるとは考えません」
簡単に言えることではないはずだ。彼は左手の指輪を外した跡へ親指を重ねた。
亡妻の話を聞いたのは、初めてだった。
「妻が病んだ最後の年、私はよいと思うものをすべて揃えました。都の医師、南の療養地、食べやすい料理。彼女は静かな自宅にいたいと言ったのに、私は諦めてはいけないと説得した」
声は穏やかなままである。
「後になって、彼女が私を安心させるために馬車へ乗ったと知りました。善意なら相手の拒否を越えてよいと、私は思い込んでいた」
「奥様は、お怒りでしたか」
「怒る力を残していませんでした。だから許されたとは考えないようにしています」
私を慰めるための美談にはしない。亡くした人の沈黙を、都合のよい答えにも変えない。
「今も、正しい距離が分からないことがあります。今日も私が組合と話したせいで、あなたの仕事へ踏み込みすぎたかもしれない」
「助かりました。ただ、次からは先に知らせてください。私も謝りたいのです」
「承知しました」
彼はそれ以上、自分の後悔を私の事情へ重ねなかった。
私は冷めかけた茶を一口飲む。
「忘れられないことばかりで、疲れていました」
言葉にした途端、指先から力が抜けた。
客の好物を忘れれば、次の訪問はない。子の誕生を忘れれば、贈り物が遅れる。対立を忘れれば、卓上で争いが始まる。母の命日も、自分の更新日も、アルノルトが帰らない時刻も、私は覚えていた。
「忘れたくないものまで、嫌いになりそうでした」
「では、会館の手帳は二冊にしましょう。あなたのものと、皆で見るものに」
マティアスは解決した顔をせず、提案だけを置いた。
その日の夕方、エリーゼが会館を訪ねてきた。
雨上がりの裾を払い、工事中の食堂を眺めてから、小宅まで一緒に歩く。彼女は道中では王都の噂を話し、玄関へ着いてから表情を改めた。
「リディア。アルノルト様から、あなたに会う手助けをしてほしいと頼まれました」
私は鍵を差したまま動きを止める。
「お引き受けになったのですか」
「いいえ」
エリーゼは迷わなかった。
「理由を聞いても」
「彼は、あなたが私の話なら聞くと思っているからです。けれど私が親しいことを、あなたへ通じる鍵として使わせたくありません」
公爵家の晩餐へ来た人々の中で、エリーゼは私の好みを尋ねた数少ない人だった。それでも彼女は、自分なら私を動かせるとは言わない。
「アルノルト様には、何と」
「会いたいなら、断られることも含めて本人へ願うべきだと申しました。私から伝えるのは、頼まれた事実までです」
「私が戻らないと、決めているからですか」
「それを決めるのはあなたです」
彼女は私の手へ触れず、玄関の一段下で待った。
「あなたが戻る理由を、私が作ることはできません。」
胸の中に、誰かを失望させた痛みは生まれなかった。
私は扉を開け、エリーゼを夕食へ招いた。料理は簡単な豆の煮込みで、客用の献立ではない。彼女は喜びも同情も大きく示さず、自分の分の皿を運んだ。
食卓で、五日後の製粉組合との予定を二人に話す。エリーゼが笑い、次は忘れないでしょうねと言った。私も笑えた。
約束は守るためにある。忘れれば埋め合わせ、相手が望まなければ終わる。それ以外の形を、七年間の私は持っていなかった。
忘れてもよい約束があることを、私はまだ知らなかった。




