第三話 私の名で開く扉
誰にも呼ばれない朝は、音が少なすぎた。
ラウエンの小宅には、廊下を走る給仕も、朝食の確認を待つ料理長もいない。開けた窓から荷車の音が入り、遠くで船着き場の鐘が鳴る。
私は寝室の扉の前で立ち止まった。
次に何をすればよいのか、決まっていない。
公爵邸では起床前から一日の順番があった。朝食の席で届いた手紙を分け、訪問客の家族に病人がいないか確かめ、昼までに晩餐の席を仮置きする。私自身の予定は、その間へ入るだけだった。
今朝、卓上にあるのは一人分のパンと薄い乳酪。母方の家を守ってきた老女中が、私の好みを知らないと謝った。
知らないのは、私も同じだった。
塩味と甘味のどちらがよいか尋ねられ、答えまでに時間がかかる。結局、両方を少しずつ用意してもらった。皿の上に二つの選択肢が並ぶだけで、落ち着かない。
けれど、どちらも残してよい。
そう考えてから口にした甘い乳酪は、思ったより軽かった。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、朝食を終えたあとである。
訪問は前日に届いた手紙で承知していた。差出人はラウエン市長、マティアス・セルン伯爵。用件の欄には、旧関税会館の運営について、とだけ書かれている。
応接間へ入ってきた彼は、赤褐色の髪に風をつけていた。王都の晩餐で見る礼装より、濃灰色の上着のほうがよく似合う。
「ヴァルト様。お時間をいただき、ありがとうございます」
公爵夫人と呼ばれなかったことに、肩書きを失った寂しさはなかった。出生名が、使われずに保管されていた自分の物のように聞こえる。
「こちらこそ。市長ご自身がお越しになるとは思いませんでした」
「私が用意した条件です。説明を人へ任せると、都合の悪いところまで整えて伝えられる恐れがあります」
マティアスは革の書類入れから、三つの封筒を出した。
一つ目には、文化会館の共同運営契約。任期は一年。給与は市の上級官吏と同額で、職務費とは分けて支給される。三か月ごとに双方が見直しを申し入れられ、私は一月前の通知で解約できる。
二つ目は住居候補だった。会館に近い市所有の家、伯爵家の離れ、母の小宅を修繕して使う場合の業者一覧。
三つ目には、文化会館を利用する予定の商人組合、職人組合、隣国領事館から寄せられた要望が入っている。
どれも別の紙だった。
「これは救済ではなく、仕事の依頼です。断っても、住まいの紹介は取り消しません。」
彼は言葉を急がず、私が一つ目の契約書を読み終えるまで窓の外を見ていた。
「私がこの仕事を断った場合、共同運営はどうなさいますか」
「候補者を二人に絞っています。商人組合の調整役と、王都で式典を担当していた元典礼補佐です」
私しかいないとは言わない。
必要だと言いながら、代わりも用意してある。その事実は冷たくなく、むしろ息がしやすかった。断れば施設が潰れるという重さを、私の返事へ載せないための準備なのだ。
契約書の余白へ質問を書き込む。会館職員の採用権。食費と装花費の決裁上限。利用者から預かる個人情報の管理。病欠した場合の代行者。
マティアスは一つずつ答え、決まっていない項目には未定と記した。
「公爵家でなさっていたことを、そのまま移していただくつもりはありません」
「同じ晩餐を開く施設ではないのですか」
「公爵家の卓は、招かれた者が公爵の信用を借りる場所でした。ここでは、互いに信用していない者にも座ってもらう」
彼が卓上へ古い建物の図面を広げる。
旧関税会館は川沿いにあり、正面玄関のほかに荷運び用の大扉が二つあった。片方は王国内の商人、もう片方は隣国から来た商人が使っていたため、内部の廊下まで左右に分かれている。
「壁を抜き、中央に一つの食堂を作ります。けれど、入口は二つ残す」
「帰りたいとき、相手の前を通らず帰れるように?」
「はい。逃げ道があるほうが、同じ卓へ着きやすい」
図面の中央に、長卓を置く空間がある。公爵邸より狭い。燭台を減らし、料理を豪華にしすぎなければ、話す相手の顔が見える距離になる。
「なぜ私に」
問いながら、褒め言葉を待つ癖が自分に残っていると知った。従順だった、評判がよかった、公爵夫人として申し分なかった。そんな答えなら断ろうと思う。
マティアスは図面上の二つの入口へ指を置いた。
「二年前、橋の工事をめぐって争っていた二人を、あなたは離れた席へ置きました。食後には同じ地図を見ていた」
「あの二人は老伯爵が間に入ってくださったからです」
「老伯爵の亡妻が片方の商人の伯母であることを、あなたが覚えていたから頼めた」
押し花カードの一枚が頭に浮かぶ。麦穂の下に記した、小さな姻戚関係。
「あなたは客を集めるのではなく、争わず帰れる卓を作る。」
長いあいだ、社交は妻の役目だと考えていた。得意だから任され、失敗しないから増えていく。報酬を受ける種類の仕事だとは、誰も言わなかった。
目の前の契約書には、その仕事の名前と金額がある。
「本日、返事をしなくてもよろしいですか」
「期限は十日後です。質問は書面でも受けます」
「では、建物を見てから決めます」
「ご案内は私でも、施設管理官でも。どちらになさいますか」
また二つ、選択肢が置かれる。
私は少し考え、施設管理官の説明を先に聞き、最後に市長へ質問する方法を選んだ。彼の用意した夢に引かれて決めるのではなく、床の傷みや厨房の排水まで確かめたい。
マティアスは満足そうに笑うこともなく、手帳へ日程を書いた。
住居については、小宅を修繕して使うと決める。屋根と暖炉の見積もりだけ、紹介された業者へ依頼する。伯爵家の離れは選ばない。
「承知しました。離れの鍵は持ってきておりませんから、返していただく手間もありません」
その返答に、ようやく笑みがこぼれた。
彼が帰ったあと、応接間の卓上へ押し花カードを広げた。公爵家から持ち出したのは、私個人へ預けられた記憶だけである。新しい仕事に、そのまま使うことはできない。本人の同意を得て、必要な項目だけ書き直す必要がある。
空のカードを一枚取った。
左上に自分の名を書く。
リディア・ヴァルト。
花はまだ挟まない。食べ物の好みも、休みたい日も、座りたくない相手も分からない。未定と書く空欄が幾つも残る。
それでも、誰かのカードの裏ではない。
十日後の返事を待つ必要はなかった。建物を見た翌日、修繕費と職員体制について三つの条件を加え、共同運営契約へ署名した。
最初の仕事は、改修前の会館を近隣の人々に見てもらう内覧会である。
招待する相手を考え、私は新しい便箋を机へ置いた。宛名を一つ書き、野薔薇の封蝋を用意する。
受取人は、リディア・ヴァルト。
私は初めて、自分のための招待状を書いた。




