第二話 夫だけが知らなかった
リディアから届いた封筒には、香りがなかった。
アーレン公爵家の便箋。見慣れた厚手の紙なのに、封蝋はヴァルト家の野薔薇だった。朝の光へかざすと、赤い蝋の中に細い茎まで浮かんでいる。
婚姻の更新をせず、本日をもって公爵邸を退いたこと。しばらく母方の家で過ごすこと。急な知らせを詫びる必要はないと考えていること。
三行目まで読んで、私は昨夜の晩餐を思い返した。
あの席で、変わったことは何も起きなかった。
それこそが、リディアのしてきた仕事だったのだろう。
私の席には、小さな菫を挟んだカードが置かれていた。料理長が献立を説明する前から、胡桃の菓子が私の前に出ないことを知っている。二年前、夫が任地から持ち帰った胡桃油で私が発疹を起こした。それを覚えていたのは、家族と主治医のほかにはリディアだけだった。
「今年も菫なのね」
私がカードを持ち上げると、リディアは向かいの席で笑った。
「ローエン卿がお戻りになったら、麦穂へ変えます。ご夫妻のご予定を一枚にまとめられますから」
「夫の帰国は秋よ。まだ王宮にも正式には伝えていないのに」
「昨年のお手紙に、北の港で二度目の夏を越す予定はないとございました」
その一文は、私自身の記憶から抜け落ちている。
父が生きていた頃、手紙の末尾に季節の予定を長々と書く癖があった。リディアは返事を寄こすたび、そこに書いた小さな約束を次の季節へ運んだ。
父の命日には白い花が届いた。夫が赴任した月には、私一人でも気詰まりにならない席へ招かれた。帰国の日程が遅れた年は、事情を知らない者が縁談の冗談を口にしないよう客が選ばれていた。
私はそれを、公爵家の行き届いた配慮として受け取っている。
昨夜も、古い商人と王宮の若い書記官が向かい合わない席順だった。二人は橋の通行税をめぐり、前の会合で声を荒らげたばかりだ。間に老伯爵を置いたことで、同じ議題を笑いながら話している。
食卓は広く、燭台も料理もいつもと変わらず豪華だった。
上座だけが空席だった。
アルノルトは食前酒の途中で王宮へ呼ばれた。リディアは夫の不在を詫びず、誰にも待つ時間を与えない。魚料理を早め、冷えた酒を下げ、温かい果実酒を運ばせる。
喪章をつけた彼女が、客のために灯りを一つずつ足していく。
私は母君の死を知っていた。葬儀にも参列した。領地の小さな礼拝堂で、リディアは弔問客の名を自分で確かめ、老いた領民のために椅子を増やしていた。
夫が来ないことについて、言い訳は一つもない。
公爵には国の仕事がある。そう考えるのは簡単だった。私の夫も外交官で、家を空けることが多い。務めを責めれば、女が公務を理解しないと言われる。
だから昨夜の私は、喪章を見ながら母君の話をしなかった。
リディアがいつもどおりに微笑んでいたから。
「ローエン夫人」
低い声に呼ばれ、顔を上げた。
二つ隣にいたセルン伯爵が、私ではなく、給仕の持つ皿を見ている。赤褐色の髪を持つ彼は国境都市の市長になってからも、王都の食卓で浮くほど飾り気がない。
「公爵夫人は、まだ魚を召し上がっていないのですか」
リディアの皿には、乾き始めた香草が残っていた。
「主催者は忙しいものですわ」
私が答えると、セルン伯爵はグラスを置いた。
「二年前に伺ったときも、同じ魚が冷えていました」
言葉に責める調子はない。確かめた事実を、そのまま卓上へ置いただけだった。
二年前の献立まで覚えているのかと驚いた。同時に、私は目の前の皿すら見ていなかったことへ気づく。
リディアは給仕へ合図し、冷えた皿を下げさせた。
「もう果実菓子の時間です。どうぞ、温かいうちに」
丸い陶製の保温蓋が外され、焼いた洋梨の甘い香りが広がった。蜂蜜と香辛料を含んだ湯気に、客たちの声がほどけていく。
「これはリディアのお好みだったかしら」
私は、彼女のために話題を戻したつもりだった。
リディアは洋梨を取り分けながら、少し考えた。
「分かりません。温かいうちにいただいたことがございませんので」
軽い答えに聞こえる。周囲も微笑み、会話は橋の話へ戻った。
セルン伯爵だけが、リディアの皿へ目を向けたまま何も言わない。
昨夜の私には、それ以上踏み込む勇気がなかった。
今朝届いた知らせを読み終え、私は自分の押し花カードを机から探した。菫の裏には、細かな文字が二行ある。
胡桃油を含む菓子不可。亡父の命日は初霜月の十二日。
父が亡くなって四年になる。リディアは毎年、同じ日に白い花を一輪届けた。公爵家の名入りではあったが、花の種類は父が庭で育てていたものと同じだった。
その名を、アルノルトは知っていただろうか。
私は外套を取り、馬車を出させた。
王都の南門に近いヴァルト家の小邸で、リディアは旅支度を終えていた。公爵夫人として訪ねたときより部屋は狭い。窓辺に革鞄があり、押し花カードが詰まっている。
左袖には昨夜と同じ黒いリボン。
「急に押しかけてごめんなさい」
「エリーゼなら、いつでも」
彼女は私を初めて敬称なしで呼んだ。
勧められた椅子へ座り、持参したカードを膝に置く。菫が乾いて薄くなっていた。
「これは、あなたが持っているべきものね」
「いいえ。エリーゼが持っていてください。あなたのために書いたものですから」
公爵家へ返す記録ではない。その言葉で、昨日まで見えなかった境界が一つ現れた。
私はカードの文字を親指でなぞった。
「父の命日に花を選んだのも、あなた?」
「お好きだった花を、以前お聞きしました」
「アーレン公爵は」
名前を出した途端、彼女の手が止まることはなかった。革鞄の紐を結び、金具を確かめている。
「公爵家の名義で届いた花の種類を、あの方がご存じだったかという意味よ」
「お伝えしておりません」
責めるための答えではない。必要がなかったから伝えなかったという声音。
私は自分が受け取ってきたものを、ようやく一人の手へ戻して考えた。父の花。夫の帰国を待つ席。胡桃を避けた菓子。口論の相手と距離を置いた椅子。
どれも高価ではない。けれど一つずつ、人の事情を覚えていなければ選べない。
「私たちは公爵家に招かれていたのではなく、あなたに覚えていてもらったのですね。」
リディアは返事をせず、窓の外へ目を向けた。出立の馬車が門前へ入ってくる。
私は喪章を見た。
「母君の葬儀のあと、公爵から弔いの言葉はあったの」
「会合が無事に終わったと伺いました」
それだけで答えになった。
葬儀には領民も、王妃の使者も、遠く任地にいる私の夫からの書状も届いた。セルン伯爵はラウエンの市章を押した短い弔電を送っていたという。
リディアは、その全てへ自分で礼を返した。
一つの家に暮らし、同じ契約へ六度署名した人だけが、彼女の喪に言葉を置かなかった。
弔問を知らなかったのは、夫だけだった。




