第一話 昨日までの妻
最後の晩餐で、私の皿だけが冷えていた。
白身魚に添えた香草は乾き、薄いソースの表面に膜が張っている。給仕が三度、取り替えましょうかと目で尋ねた。そのたびに私は小さく首を振った。
右隣のローエン夫人には胡桃を使わない。正面の老伯爵には塩を控える。議長補佐の席は、若い書記官と向かい合わせにしない。先月、報告書の語句をめぐって口論したばかりだからだ。
押し花を挟んだカードを膝の上で閉じる。菫は食事、薄荷は家族、麦穂は仕事上の注意。色を見れば、誰に何を出してはいけないか分かる。
八年前、母と作り始めた記録だった。
「奥様、お魚を」
給仕が声を落とした。
「このままで結構よ。先に温かいスープをローエン夫人へ。今日は風に当たっていらしたから」
夫人の肩からようやく力が抜けた。向かいでは老伯爵と書記官が、国境の橋にかける通行税について穏やかに意見を交わしている。皿の上に問題がなく、隣席に古い敵がいなければ、人は話を聞く余裕を持てる。
それでよかった。
七年間、そうしてきた。
長卓の上座だけが空席のまま。アルノルトは食前酒の途中で王宮から使いを受け、国際晩餐評議会の会合へ出た。明朝までに隣国側の出席者を確定させるという。
更新証書には今夜、二人の署名が必要だった。
客たちは空席を見ない礼儀を知っている。私も夫の不在を詫びず、食後酒を一刻早めた。予定どおりに終えることが、今夜の私にできる最後の仕事だった。
全員を馬車へ送り、玄関広間の扉が閉じる。
屋敷の時計は十一時を四半刻過ぎていた。
書斎には二通の書類が置かれている。国際晩餐の席次案と、私たちの婚姻更新証書。席次案には赤い書き込みが幾つもあり、更新証書は封筒から出したまま、私の署名欄だけが白い。
その横に、銀のペンがあった。
毎年同じペンを使った。最初の夏、母が祝いにくれたものだ。六度目までは、先に署名したアルノルトの名の下へ、自分の名を書いた。
今年は彼の署名もなかった。
忙しかったのだろう。署名そのものは短い。けれど、書類を開き、私の顔を見て、もう一年を望むかと問うには時間が要る。
七年前の初夜、彼は寝室へ入る前に同じ書斎で告げた。
政略のための婚姻だ。互いの領地と立場は守る。必要な費用も不足させない。感情だけは約束できない。
私は、いつか変わるかもしれないと思った。
約束できないことと、育たないことは同じではない。彼が仕事に誠実であるように、私が暮らしに誠実でいれば、二人の間にも名前のつくものが残るかもしれない。
だから六回、署名した。
一度目は、初めて同じ卓で朝食を取れたから。二度目は、熱を出した夜に医師を呼んでくれたから。三度目は、領民への冬支度を相談してくれたから。
理由は年々、小さくなった。
六度目は、前年にも署名したからだった。
黒いリボンを指でなぞる。三か月前から、喪章として左袖につけている。
母の葬儀の日、アルノルトは王都に残った。国際晩餐評議会の設立を決める会合があり、公爵である彼にしか果たせない責任だと手紙に書いてあった。
責める言葉は、返書へ載せていない。
棺へ入れる花を選び、領民から届いた弔問へ礼を返し、自分宛ての弔意まで公爵家の名で整えた。帰邸した夜、彼が教えてくれたのは会合の成功だけ。左袖の黒い布は、彼の視界に入らなかったらしい。
私の母の名は出なかった。
母が最後に私へ言った言葉は、押し花カードの箱の底へしまってある。
あなたが覚えている人の中に、あなた自身も入れなさい。
あのときは、客名を増やしすぎるなという忠告だと受け取った。今夜、空白の署名欄を見て、別の意味を知る。
私が望むかどうかを、私だけが覚えていなかった。
廊下の時計が半刻を打つ。
銀のペンを取り上げた。指先に馴染む重さ。蓋を外せば、先には新しいインクが満ちている。
証書の末尾には、婚姻法の条項が細字で記されていた。夏至日の終わりまでに双方の署名がない場合、翌日をもって身分、扶養、代表権は終了する。猶予も代理も認めない。
私は毎年読んでいる。
今年だけ読み落とす理由はなかった。
ペンを元の場所へ置いた。
寝室へ戻り、すでに選んであった二着の旅装を長椅子へ並べる。宝飾品は婚姻前からの物だけを小箱に収めた。公爵家の紋章がある品には手を触れない。私信と押し花カードは、母から譲られた革鞄へ入れる。
支度は一月前から済ませていた。
それでも、今夜まで署名する可能性は残していた。アルノルトが帰り、私の喪章に目を留める。母の名を一度だけ口にする。続けたいかと尋ねる。
そのどれかがあれば、私は七度目の理由を作っただろう。
夜半の鐘が鳴った。
鐘は十二回、等しい間隔で響く。最後の音が消えても、扉は開かなかった。
胸の内に大きな音はない。涙も出ない。窓辺の燭台を一つ消し、寝台へ入った。
朝、鳥の声で目を覚ます。
廊下の向こうから早い靴音が近づいた。扉を叩く音のあと、返事を待たずアルノルトが入ってくる。夜会服の上着を脱いだだけらしく、黒髪には夜露が残っていた。
手には更新証書がある。
「署名がない」
「はい」
「時間がなかったのか。今すればいい。法務官には私から説明する」
彼は机に証書を広げ、銀のペンまで持ってきていた。昨夜と同じ位置へ、まっすぐに置く。
「期限後の署名は認められません」
「特例を申請する。王家の晩餐を担う家の婚姻だ。正当な理由があれば」
「正当な理由はございません。私は書類を読み、署名しないと決めました」
アルノルトの手が止まる。
私の顔を見た。喪章には視線が落ちない。
「昨夜の不在を怒っているのか」
「昨夜だけのお話ではありません」
「ならば、何が不足していた」
答えを求める声というより、修正箇所を尋ねる声だった。費用か、部屋か、使用人の数か。契約書に書き足せる言葉を探している。
私は革鞄の留め具を確かめた。
「不足を埋める相談は、昨日までにしていただきたかったのです」
コンラートが開いた扉の外で立ち尽くしている。いつもなら私の予定表を持つ時間だ。今日は何も持っていない。
「奥様、馬車のご用意が整いました」
彼は言い終えてから、目を伏せた。
「失礼いたしました。リディア様」
名前が変わったわけではない。戻っただけだ。
アルノルトは証書から手を離さなかった。
「今日の午後には典礼官が来る。来月の晩餐について、招待客の確認が必要だ」
「ハイン典礼官には、契約終了の通知が王室法務院から届きます」
「それでは間に合わない。名簿は君が持っているのだろう」
革鞄の中で、押し花カードがかすかな音を立てた。これは公爵家の秘密ではない。私が人から預かり、私が忘れないために書いた記憶だ。
アルノルトは私を見ている。
けれど、見ているのは次の晩餐に必要な手順だった。
「愛情は契約に含まれない。だが、次の晩餐はこれまでどおり整えてくれ。」
七年前の言葉と、今朝の頼みが一つの文に収まっていた。
「承れません。契約は昨日で終了しております。」
声は乱れなかった。
アルノルトの紺の瞳に、初めて答えのない空白が生まれる。私はその意味を埋めなかった。
「リディア」
名前だけで呼ばれたのは、いつ以来だろう。客の席順を尋ねるときも、王宮からの返書を急がせるときも、彼は名前のあとに必ず用件を置いた。今朝は続きが出てこない。
私は待たず、革鞄を持ち上げた。留め具の内側に、母の筆跡を写した小さな紙がある。あなた自身も入れなさい。その言葉を読み返す必要はなかった。
彼の指が銀のペンへ触れる。書けなかった署名を、今から書かせる言葉を探しているのかもしれない。けれど、もう一度だけ待つことを、私は自分へ命じなかった。
窓の外で、出立を知らせる馬の蹄が石を打つ。朝の音は屋敷の中まで届き、止まった会話の代わりに時間を進めた。
銀のペンは彼の手元に残した。私が持っていく理由は、もうない。
コンラートから外套を受け取り、喪章の上まで襟を合わせる。玄関広間には朝の光が差し、床の大理石に開いた扉の形を作っていた。
七年前、この屋敷へ入ったときはアーレン公爵夫人だった。
今、敷居を越える私は、リディア・ヴァルト。
背後から命令は続かなかった。呼び止める声もない。
それで十分だった。
昨日までの妻に、今日の命令は届きません。




