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第四部 東京

一


二〇一二年の五月、楠は、日本橋の川沿いの、古いビルの九階にいた。


中堅の証券会社だった。


窓から、首都高速の高架と、その下の、濁った川が見えた。


審査部の部屋は、フロアの一番奥にあった。


机が八つ。窓際に、部長の机が一つ。


画面には、取引所に流れた注文の記録が、一日分ずつ、並んでいた。


部長の高梨は、五十代の半ばの女性だった。


昔、取引所で、売買を見張る仕事をしていた。


最初の日、高梨は、楠の履歴書を、机の上で閉じた。


「並べる側から、見る側に来る人は、珍しい」


「そうですか」


「たいてい、逆です。見る側で覚えて、並べる側に行く。そのほうが、給料がいいので」


高梨は、楠を見た。


「なぜ」


楠は、少し考えた。


「誰かが、見ていないといけないので」


高梨は、しばらく黙っていた。


「見ていても、止められないことが、多いですよ」


仕事は、地味だった。


会社を通って取引所に流れた注文を、毎日、機械で調べる。


約定する前に、すぐ取り消される注文が多すぎないか。同じ口座どうしで、売って買っていないか。引け際に、値段を吊り上げていないか。


決められた形に当てはまる注文を、機械が、拾い出す。


拾い出されたものを、人が、一件ずつ見る。


一日に、何百件も、拾い出された。


ほとんどは、何でもなかった。


楠の隣の机は、西野という若い男だった。


大学を出て、三年目だった。


「楠さん、これ、どう思います」


西野は、よく、画面を楠のほうへ傾けた。


拾い出された注文の記録だった。一秒のうちに、何十件も出して、何十件も取り消している。


「アルゴですよね。海外の、速いやつ」


「たぶん」


「取消率が、高すぎるって、機械が言ってるんですけど」


「速いアルゴは、みんな、そうなる」


「じゃあ、問題なし」


西野は、画面の欄に、印をつけた。


楠は、その印を、しばらく見ていた。


五月の、ニューヨークの、板が外側から空になった日のことを考えた。


会社には、海外の小さな証券会社に、取引所への繋ぎを貸す仕事があった。


海外の会社は、自分では取引所の会員になれない。だから、この会社の回線を借りて、東京の取引所に注文を出す。


その注文も、審査部が見ていた。


借りている会社は、十いくつあった。


ロンドン。シンガポール。香港。シカゴ。


楠は、その一覧を、最初の週に一度だけ見た。


知っている名前は、なかった。


七月、楠は、神戸に帰った。


父は、港の近くの、介護の施設にいた。


去年の暮れに、家の中で転んで、足を折った。それから、姉が、この施設を探してきた。


窓から、港のクレーンが見えた。


十七年前に、首を折ったように斜めに止まっていたクレーンは、もうなかった。新しいクレーンが、同じ場所に、まっすぐ立っていた。


父は、窓際の椅子に座って、港を見ていた。


「来たんか」


「うん」


「仕事、変えたんか」


姉から、聞いていたのだった。


「変えた。見る仕事に」


「見る」


「会社を通る注文の中から、おかしいのを探す」


父は、港を見たままだった。


しばらくして、父は言った。


「全部は、見られへんやろ」


「見られへん。何百万件もある」


「荷物も、そうや」


父は、椅子の肘掛けに、手を置いた。


骨ばった、大きな手だった。


「荷物は、全部は開けられん」


楠は、父の横顔を見た。


中学生のころに、一度だけ、聞いた言葉だった。


「ほな、どうするん」


楠は、あのときと同じことを聞いた。


父は、少しだけ笑った。


「重さと、書類と、港の順番を見る」


窓の外で、クレーンが、ゆっくり、コンテナを一つ持ち上げた。


「合わんもんだけ、開ける」


帰りの新幹線で、楠は、ノートを開いた。


二〇一二年七月十四日 父。荷物は、全部は開けられん。重さと、書類と、港の順番を見る。合わんもんだけ、開ける


楠は、その行を、しばらく見ていた。


注文の中身は、見えない。


誰が、何のつもりで出したのかは、見えない。


見えるのは、重さと、書類と、順番だけだった。


楠は、ページを、二年前まで戻した。


流す間隔。三十七ミリ秒


重さと、書類と、順番。


楠は、ノートを閉じた。


窓の外を、夏の田んぼが、同じ速さで流れていった。


秋、繋ぎを借りる海外の会社の一覧に、新しい名前が一つ、加わった。


地中海の島の、小さな会社だった。


西野が、その書類を、楠の机に置いていった。


「新しいお客さんです。審査の対象に、追加しておいてください」


楠は、書類の表紙を見た。


ハルキオン・マーケッツ。リマソール。


楠は、表紙を開かなかった。


開かなかったことを、あとで、何度も考えることになる。


そのときは、ただ、別の書類の山の上に、それを載せた。


リマソールという町は、世界に一つしかなかった。


港の近くに、コーヒーとお菓子の店がある町だった。


楠は、その日の審査の画面に、戻った。


二


二〇一三年の三月、テレビに、地中海の島が映った。


銀行が、閉まっていた。


土曜の朝、欧州の大臣たちが、島の銀行の預金に手をつけると決めた。島の銀行は、国より大きくなっていた。国の外から、金が集まりすぎていた。


月曜になっても、銀行は開かなかった。


ATMの前に、人の列ができていた。


一日に、引き出せる額が決められていた。列の先頭の老人が、機械の画面を、長いあいだ見つめていた。


西野が、昼の弁当を食べながら、言った。


「ロシアの金持ちの金が、いっぱい入ってたって。だから、しょうがないって、ネットで」


楠は、答えなかった。


画面の列の、老人の手を見ていた。


アガの言葉を、思い出していた。


並ぶから、なくなる。


その夜、楠は、航に、短いメールを書いた。


一年ぶりだった。


島のニュースを見ています。皆さん、大丈夫ですか。 楠


返事は、二日後に来た。


大丈夫です。店は、開けています。 エレニの父の銀行は、閉まったほうでした。四十年分の、半分以上がなくなりました。 航


楠は、その短い文を、何度も読んだ。


二つ目の銀行の名前は、ニュースで何度も聞いていた。島で二番目に大きい銀行だった。一定の額を超えた預金は、戻らないことになっていた。


四十年、この街で働いて、全部、向こうの銀行に貯めた。


こっちの銀行は、信用してないって。


感謝祭の夜の、エレニの笑い声を、楠は思い出した。


返事は、書かなかった。


何を書けばいいのか、分からなかった。


四月四日の午後、日本の中央銀行が、大きな発表をした。


市場に流す金を、二年で、倍にする。


画面の数字が、跳ね上がった。


フロアの誰かが、声を上げた。二十年前の、大手町のフロアの叫び声を、楠は、一瞬、思い出した。


株価は、その日から、毎日のように上がった。


審査の画面に、拾い出される注文が、増えた。


西野が、忙しそうに、印をつけていた。


四月の終わり、西野が、画面を楠のほうへ傾けた。


「この島の会社、最近、すごく増えてます」


ハルキオン・マーケッツ。


「三月までは、ほとんど何もしてなかったのに。四月から、急に」


楠は、画面を見た。


一日の注文の数が、三月の、十倍になっていた。


「取消率、高いです。でも、速いアルゴは、みんなそうだって、楠さん」


「うん」


「問題なし、で、いいですか」


楠は、少し間を置いた。


「しばらく、印は、つけないでおいて」


西野は、少し不思議そうな顔をした。


「分かりました」


楠は、その夜から、ハルキオンの注文を、一日分ずつ、自分で見た。


注文は、板の真ん中から、外側まで、何十本も並んでいた。


売りも、買いも。


外側の注文は、ほとんど約定していなかった。


それから、もう一つの形があった。


買いの一番いい値段の、一つだけ上に、大きめの買いが、ふっと現れる。板の一番上が、一つ、上がる。


ほかの参加者の買い値が、つられて、一つ上がる。


現れた買いは、すぐに消える。


消えた跡の、上がった買い値に、ハルキオンの小さな売りが、当たる。


売りの一番いい値段の、一つだけ下でも、同じことが、向きを逆にして、起きていた。


大きめの注文は、ときどき、約定していた。約定しても、損にはならない値段だった。


約定しても良し。引けても良し。


楠は、見覚えのある形だと思った。


思っただけだった。


同じ形の注文を出す会社は、世界中に、いくらでもあった。二年前のニューヨークで、マットが、みんなやっている、と言っていた。


楠は、自分にそう言い聞かせた。


言い聞かせたことを、ノートには、書かなかった。


五月二十三日、木曜。


朝から、株価は、高かった。


昼を過ぎて、少しして、画面の数字の動きが、変わった。


下がり方が、速くなった。


中国の、何かの数字が悪かった。アメリカの、何かの金利が上がった。理由は、あとから、いくつもついた。


楠は、ハルキオンの注文の記録を、画面の半分に出していた。


もう半分に、板を出していた。


板の買いの列が、外側から、崩れ始めた。


ハルキオンの注文が、引かれていった。


楠は、息を止めた。


引かれ方が、揃っていた。


危ないほうから。


一件ずつ。


同じ順番で。


楠は、画面の記録を、一行ずつ、拡大した。


会社のゲートウェイに、注文と取り消しが届いた時刻が、百万分の一秒の単位で、記録されていた。


最初に引かれたのは、一番上の、大きめの買いだった。


それから、真ん中から外側へ、値段の段ごとに、一段ずつ。


一段目と、二段目の間。


二段目と、三段目の間。


三段目と、四段目の間。


楠は、数字を、声に出さずに読んだ。


三十七。


三十七。


三十七。


周りで、誰かが、何かを叫んでいた。


株価は、その日のうちに、千円以上下がった。十三年ぶりの下げ幅だと、あとで、テレビが言った。


楠は、何も聞いていなかった。


三十七。


百万分の一秒で、三十七。


ニューヨークでは、千分の一秒で、三十七だった。


千倍、短い。


数字だけが、同じだった。


楠は、目を閉じた。


二年半前の夜のことを、思い出していた。


ゲートウェイの時計は、千分の一秒で数えていた。設定の欄には、数字だけを書く。単位を書く欄は、なかった。


楠は、欄に、三十七、とだけ書いた。


単位は、ノートにだけ、書き添えた。


誰かが、あのゲートウェイを、別の機械の上に、書き直したのだとしたら。


新しい機械の時計が、百万分の一秒で数えていたとしたら。


設定の欄の三十七を、そのまま、書き写したとしたら。


三十七ミリ秒は、三十七マイクロ秒になる。


東京の取引所が一本の回線に許している電文の数から考えれば、三十七マイクロ秒は、待つ意味のない長さだった。待つための数字が、待つ役目を、何も果たしていなかった。


役目を果たしていない数字は、誰かが考えて決めたものではない。


書き写されたものだった。


単位を知らないまま。


あるいは、単位を気にしないまま。


「楠さん」


西野が、楠の肩に触れた。


「大丈夫ですか。顔、真っ白ですよ」


楠は、西野を見た。


「……うん」


「すごい日でしたね。島の会社、また、すごい取消率で。機械が、真っ赤です」


西野は、自分の画面を、楠のほうへ傾けた。


「でも、これ、アルゴの挙動ですよね。急変したら、みんな引くし」


楠は、答えなかった。


西野の画面の、真っ赤な欄を見ていた。


機械は、取消率が高い、としか言っていなかった。


取り消しの順番と、その間隔は、機械の見るべき形の中に、入っていなかった。


誰も、そこを見る理由がなかった。


楠以外は。


その夜、日本橋の川沿いの道を、楠は、長いあいだ歩いた。


川面に、首都高速の灯が、揺れて映っていた。


部屋に帰って、ノートを開いた。


ページを、二年半前まで戻した。


二〇一〇年十月十四日 流す間隔。三十七ミリ秒


その少し後のページ。


二〇一一年三月十日 外側は、約定しない。板が傾く


一番上に、一つだけ、大きく出して、すぐ引く。約定しても良し、引けても良し。重みの一番上


つもりは、ゲートウェイの中にはない


楠は、新しいページに、書いた。


二〇一三年五月二十三日 ハルキオン。リマソール。取り消しの間隔、三十七マイクロ秒


数字だけが、運ばれてきた。単位は、置いてこられた


書いてから、その下に、もう一行書いた。


父。合わんもんだけ、開ける


楠は、会社の机の上の、書類の山を思い出した。


一番下に、半年前に西野が置いていった書類があるはずだった。


ハルキオン・マーケッツ。リマソール。


楠は、まだ、その表紙を開いていなかった。


三


翌朝、楠は、誰よりも早く会社に来た。


机の上の書類の山を、上から一冊ずつ、下ろした。


一番下に、薄い灰色の表紙のファイルがあった。


ハルキオン・マーケッツ。リマソール。


楠は、表紙を開いた。


最初の頁は、会社の登記の写しだった。


島の、商業登記の書式だった。設立は、二〇一二年の六月。


航とエレニが、島へ渡った翌月だった。


二頁目は、役員と、主な担当者の一覧だった。


代表者は、楠の知らないギリシャ系の名前だった。


その下に、技術の責任者の欄があった。


W. Sumi。


楠は、その一行を、長いあいだ見ていた。


驚かなかった。


驚かなかったことに、少し、驚いた。


三頁目は、株主の一覧だった。


株の全部を、一つの会社が持っていた。


英領の、カリブ海の島の会社だった。住所は、私書箱の番号だけだった。


その会社の株主の欄が、別紙になっていた。


楠は、別紙をめくった。


香港の会社だった。


設立は、一九九四年。


住所が、英語で、印刷されていた。


ビルの名前と、階の数字。


二十三階。


楠は、鞄から、ノートを出した。


最後のページを開いた。


封筒と、アメリカの住所と、航の手紙と、アガの絵葉書のあいだに、一枚の名刺が挟まっていた。


十八年前の四月に、芹沢が、楠の机に置いていった名刺だった。


角が、柔らかくなっていた。


楠は、名刺を、ファイルの別紙の横に並べた。


ビルの名前が、同じだった。


階の数字が、同じだった。


窓の外で、首都高速の上を、朝の最初のトラックが、何台か続けて通り過ぎた。


楠は、二つの紙を、並べたまま、しばらく動かなかった。


同じビルの、同じ階に、会社はいくつもある。


香港の古いビルには、書類の上だけの会社が、何百と入っている。


偶然かもしれない。


楠は、それを、分かっていた。


分かっていて、自分にそう言い聞かせようとしていることも、分かっていた。


六月のあいだ、楠は、ハルキオンの注文を、毎日、一日分ずつ見た。


一番上に、一つだけ、大きめの注文が現れる。


ほかの参加者の値段が、つられて、一つ動く。


大きめの注文は、消える。


消えた跡の、動いた値段に、ハルキオンの小さな注文が、反対側から当たる。


外側には、厚く並ぶ。反対側の板が、一歩、下がる。外側は、約定しない。


相場が動けば、ゲートウェイが、危ないほうから、三十七マイクロ秒の間隔で、引く。


ニューヨークで見たのと、同じだった。


違うのは、厚みと、回数だった。


二年前より、ずっと厚く、ずっと多かった。


楠は、一日分ずつ、記録を書き写した。


一番上に、大きめの注文が現れた時刻。ほかの参加者の値段が動いた時刻。大きめの注文が消えた時刻。反対側で、ハルキオンの小さな注文が約定した時刻。


百万分の一秒のところまで。


四つの時刻を、一組にして、並べた。


一日に、何百組もあった。


原因は、書かなかった。


何が起きたかだけを、書いた。


六月の終わりには、書き写した記録は、四十頁を超えていた。


七月の最初の月曜、高梨が、楠の机の横に立った。


「楠さん。島の会社のこと、西野君から聞きました」


楠は、顔を上げた。


「印を、つけないでおいてくれと、言われたそうですね」


「はい」


「何か、見ているんですか」


楠は、四十頁の記録を、高梨に渡した。


高梨は、立ったまま、最初の三頁を読んだ。


それから、椅子を引いてきて、楠の隣に座った。


残りの頁を、黙って読んだ。


読み終わって、高梨は、記録を閉じた。


「見せ玉ですね」


「そう見えます」


「見える、じゃない」


高梨は、記録の表紙を、指で叩いた。


「一番上に一つだけ出す、大きめの注文。これだけなら、言い逃れができる。ときどきは約定しているし、約定しても損をしない値段にしてある。値を出していただけだ、と言われたら、それまで」


「はい」


「でも、あなたは、四つの時刻を、一組にして並べた」


高梨は、記録を開いて、一つの組を指でなぞった。


「出す。ほかが動く。引く。反対側で、取る。何百組も、同じ順番で、同じ短さで」


高梨は、顔を上げた。


「見せた注文が約定したかどうかは、関係ない。見せた直後に、必ず、反対側で取っている。外側の厚みも、同じ向きに効いている。それが、つもりです」


楠は、黙っていた。


ニューヨークのアパートで、書いた一行を思い出していた。


つもりは、ゲートウェイの中にはない。


ゲートウェイの中には、なかった。


四つの時刻の、並び方の中にあった。


「どうして、この揃い方に、気づいたんですか」


高梨は、楠を見ていた。


「うちの機械は、取消率しか見ていない。順番と間隔を見る理由は、誰にもなかった」


楠は、少し考えた。


それから、答えた。


「このゲートウェイを、設計したのが、僕だからです」


高梨は、長いあいだ、何も言わなかった。


窓の外の川を、観光の小さな船が、ゆっくり通り過ぎていった。


「説明してください」


楠は、説明した。


ロンドンの、八月の一行。ニューヨークの、三週間。重みの順に並べ、危ないほうから引く。設定の欄に、単位を書かずに入れた、三十七。それが、ここでは千分の一秒ではなく、百万分の一秒で数えられていること。一番上に一つだけ出して引く形を、ニューヨークで、先に見ていたこと。外側が約定しないことに気づいたこと。誰にも言わなかったこと。チームが解散して、安心したこと。


技術の責任者の欄の名前のことも、話した。


香港の住所のことは、話さなかった。


名刺の話をすれば、二十三年分の話をしなければならなかった。


高梨は、聞き終わって、窓の外を見た。


「報告書を、書いてください。当局に出すものです」


「はい」


「島の会社は、止めます。当局にも、出します。向こうの国の当局にも、たぶん、話が行く」


高梨は、楠を見た。


「楠さんの名前は、書く必要はありません」


楠は、答えなかった。


「このロジックが、どこから来たか。それは、この報告の中身じゃない。今、何が起きているかを書けばいい」


「書かないと」


楠は言った。


「何が起きたか、分からなくなります」


高梨は、しばらく楠を見ていた。


「あなたの名前が出れば、あなたは、ここにいられなくなるかもしれない。ニューヨークの会社にも、話が行く」


「はい」


「それでも」


「書きます」


高梨は、目を閉じて、息を吐いた。


「……いつまでに、書けますか」


楠は、少し考えた。


「来週の、金曜に」


「遅い」


「来週の月曜から木曜まで、休みを、いただきたいんです」


高梨は、目を開けた。


「休み」


「四日だけ。夏休みを」


高梨は、楠の顔を、長いあいだ見ていた。


何かを聞こうとして、やめたように見えた。


「……金曜ですね」


「金曜に、出します」


「来週の、金曜。十九日」


高梨は、立ち上がった。


「それより一日でも遅れたら、私が書きます。あなたの名前も、私が書きます」


その夜、楠は、ノートを最初のページから、めくった。


一九九〇年の四月から、二十三年分の字が並んでいた。


株を売っているのは、人の声


土地も、紙にすれば


一分早く知っていたら、何ができるか


奥寺さん。入るのは簡単、出るのが難しい


着く前なら、こっちの勝手


一九九五年 香港 失血 シーツは白かった


封筒を、返せなかった。自分の分を、自分で払った


金を貸していた人。香港。シーツは白かった


板の並べ方と引き方を、ゲートウェイに任せられないか


あなたは、誰にも借りを作らない。だから、誰もあなたを引き止められない


流す間隔。三十七ミリ秒


外側は、約定しない。板が傾く


一番上に、一つだけ、大きく出して、すぐ引く。約定しても良し、引けても良し


つもりは、ゲートウェイの中にはない


楠は、そこで、めくる手を止めた。


報告書を出せば、ハルキオンは止まる。


止まれば、そこに流れていた金は、行き場を失う。


香港の二十三階から、カリブ海の私書箱を通って、リマソールに来た金だった。


その金の持ち主に、止まった理由を説明するのは、技術の責任者の欄に名前のある人間だった。


楠は、「シーツは白かった」の二行を、見ていた。


静かに出ていこうとした人は、そうなった。


芹沢も。金を貸していた人も。


そして、もしかしたら、会長も。


楠は、ノートを閉じなかった。


新しいページに、書いた。


二〇一三年七月八日 報告書は、十九日の金曜に出す


その下に、もう一行、書いた。


父。できんことを、できるふりすんのが、一番あかん


十八年前、避難所の体育館で、父が、毛布を畳みながら言った言葉だった。


楠にできることは、報告書を書くことだけだった。


書かないことは、できなかった。


書いたあとのことを、止めることも、できなかった。


できるのは、書く前に、何をするかだけだった。


翌朝、楠は、旅行会社に電話をかけた。


「キプロスの、ラルナカまで。来週の月曜に」


電話の向こうで、女性が、少し驚いたように、行き先を繰り返した。


「今、あちらは、大変なようですが」


「知っています」


楠は、答えた。


「帰りは、木曜で」


(第四部 了)

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