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第三部 ニューヨーク

一


二〇〇八年九月十七日、楠は、ケネディ空港からタクシーに乗った。


運転手は、ラジオをつけたままにしていた。


早口の男の声が、同じ数字を何度も繰り返していた。銀行の名前。保険会社の名前。政府が、いくら出すか。


運転手が、バックミラー越しに楠を見た。


「金融の人?」


「そうです」


「悪い週に来たね」


運転手は、ラジオの音を、少しだけ小さくした。


窓の外に、マンハッタンの影が、夕方の靄の向こうに見えてきた。


翌朝、ホテルから会社まで、歩いてみた。


七番街の、大きなビルの前を通った。


ビルの前に、テレビの中継車が三台停まっていた。歩道に、カメラを担いだ男たちが並んでいた。


ビルの回転扉から、段ボールを抱えた人たちが出てきた。


一人ずつ、出てきた。


段ボールの中に、写真立てや、マグカップや、丸めた上着が入っていた。


誰も、カメラのほうを見なかった。


背広を着た若い男が、段ボールを歩道に置いて、しゃがみこんだ。膝の上で、両手を組んで、しばらく動かなかった。


楠は、立ち止まらなかった。


立ち止まって見ることが、してはいけないことのような気がした。


会社は、そこから二十分ほど西へ歩いた、ハドソン川に近いビルにあった。


大きな銀行の、証券部門の建物だった。


楠が行くのは、その十四階の、奥の一角だった。


ガラスの扉の向こうに、机が六つあった。


窓際の机に、男が一人、座っていた。


四十代の半ばくらいだった。髪が短く、ジーンズに、襟のついた綿のシャツを着ていた。


「楠?」


「そうです」


「ダグだ」


ダグは、立ち上がらずに、手を差し出した。


「ナイジェルから、聞いてる。順番の男だって」


チームは、ダグを入れて五人だった。


ダグは、昔、物理学者だった。残りの四人のうち、三人も、物理か数学の出身だった。


客はいなかった。


会社の金を、自分たちで売り買いして、稼ぐ。稼げなければ、チームごと消える。


「今週、上の階で、何人辞めさせられたと思う」


ダグが言った。


楠は、答えなかった。


「俺たちは、残った。先週、稼いだからだ」


ダグは、画面を指で叩いた。


「相場が荒れると、俺たちは、稼ぐ」


最初の週、ダグは、楠を、川の向こうに連れていった。


ニュージャージーの、平たい土地だった。倉庫のような建物が、道路沿いに並んでいた。


窓のない、灰色の建物の前で、車が止まった。


入口で、写真付きの札を見せ、指の形を機械に読ませた。扉を二つ通った。


中は、寒かった。


背の高い、黒い棚が、何列も並んでいた。棚の中で、機械が、低い音で唸っていた。何千もの小さな緑の灯が、不規則に点いたり消えたりしていた。


「この建物のどこかに、取引所の機械がある」


ダグが、声を張り上げた。唸り声で、普通の声では聞こえなかった。


「俺たちの機械は、その、できるだけ近くに置く」


「近くに」


「距離は、時間だ」


ダグは、棚の裏から、黄色い細いケーブルを一本、指で持ち上げた。


「このケーブルが一メートル長いと、それだけ、遅れる」


楠は、ケーブルを見た。


「どのくらい、遅れるんですか」


「五ナノ秒」


ダグは、ケーブルを離した。


「十億分の五秒だ」


帰りの車の中で、楠は、窓の外の、平たい土地を見ていた。


十八年前の十月、銀座の、暗い赤い壁の店で、香港から来た男に聞かれたことを思い出していた。


注文を出してから、取引所に着くまで、どのくらい。


一秒くらいです、と楠は答えた。


一分、早く知っていたら、何ができる。


男は、そう聞いた。


楠は、答えを知っていた。知っていて、声に出さなかった。


ここでは、一分ではなかった。一秒でもなかった。


百万分の一秒を、奪い合っていた。


そして、ここにいる全員が、答えを知っていた。


十月、相場は、毎日のように、底が抜けた。


画面の数字が、朝から晩まで、赤かった。


ダグのチームは、毎日のように、稼いだ。


楠の書いた繋ぎを通って、注文が、取引所の機械の隣から、取引所の機械へ、流れていった。


一件の注文が、楠の仕組みを通り抜けるのに、何百万分の一秒かしか、かからなかった。


楠は、ときどき、七番街のビルの前の、しゃがみこんだ若い男のことを考えた。


段ボールを、歩道に置いていた。


楠の機械は、何も感じなかった。


楠は、以前ほど、それを羨ましいとは思わなくなっていた。


部屋は、ハドソン川から二本入った通りの、古いアパートの五階だった。


エレベーターがなかった。


十一月の終わり、最初の雪が降った朝、楠は、灰色の毛糸の襟巻きを巻いて、階段を降りた。


十二月の半ば、郵便受けに、絵葉書が一枚入っていた。


雪をかぶった、古い広場の写真だった。石畳の上に、塔が一本立っていた。


裏に、短い英語が書いてあった。


雪です。母は、少しよくなりました。 古い手紙を、一通、直しています。十八世紀の、商人の手紙。借金の催促です。 A.


その下に、クラクフの住所が、小さく書いてあった。


楠は、絵葉書を、しばらく見ていた。


それから、近くの店で、同じ大きさの絵葉書を一枚、買った。


ハドソン川の、冬の写真だった。


雪です。こちらも。 借金の催促は、何年も残るんですね。 楠


書いてから、最後の一行を、しばらく見ていた。


消さなかった。


二〇〇八年九月十八日 ニューヨーク。段ボールを抱えた人たち


距離は、時間。一メートルで、十億分の五秒


一分早く知っていたら、何ができるか。ここでは、全員が答えを知っている


十二月十六日 アガから、絵葉書。同じ大きさの絵葉書を返した


二〇〇九年の三月、相場は、ようやく底を打った。


その月の終わりに、楠の会社のアドレスに、一通のメールが届いた。


差出人の名前を見て、楠は、少しだけ手を止めた。


堂島だった。


久しぶり。ナイジェルから、そっちの住所を聞いた。 来年、そっちに行く。仕事で。 紹介したい人がいる。 あんたも、よく知ってる人だよ。


楠は、そのメールを、しばらく見ていた。


返事を書く前に、ノートを開いた。


最後のページに、アメリカの住所が、挟まっていた。


鉛筆の字が、もう、ほとんど読めないくらい薄くなっていた。


二


二〇一〇年五月六日、木曜の午後、楠は、画面の前で、昼食のサンドイッチを半分食べたところだった。


相場は、朝から落ち着かなかった。


ヨーロッパの、どこかの国の借金の話で、ずっと、少しずつ下がっていた。


二時四十分を過ぎたころ、画面の数字の動きが、変わった。


下がり方が、速くなった。


ダグが、椅子から背中を離した。


楠は、板を見ていた。


買いたい人の値段と数が、左に並んでいるはずだった。


左の列が、上から、一つずつ、消えていった。


消えた値段の下に、もっと安い値段が現れた。それも、すぐに消えた。


誰かが売ったのではなかった。


誰も、買わなくなったのだった。


板に並んでいた注文が、一斉に、取り消されていた。人ではなかった。機械が、危ないと判断して、自分の注文を、自分で引いていた。


一つの機械が引くと、隣の機械が、それを見て、また引いた。


板が、外側から、空になっていった。


「止めろ」


ダグが言った。


チームの若い男が、キーを叩いた。


楠の画面から、自分たちの注文が、消えた。


自分たちも、引いた機械の一つになった。


画面の端で、ある大きな会社の株の値段が、一セントになった。


誰かが、声を出して笑った。笑ったあとで、黙った。


一セントで、売買が成立していた。板の一番下に、誰かが置き忘れていた、あり得ない値段の注文だった。そこまで、何もなかった。


五分後、値段は、戻り始めた。


十五分後には、ほとんど元の場所に戻っていた。


何もなかったような画面を、チームの全員が、黙って見ていた。


「今の、何だった」


若い男が言った。


誰も、答えなかった。


楠は、ナイジェルの言葉を思い出していた。


一人がやった。誰も見ていなかった。二つ揃うと、潰れる。


今日は、一人ではなかった。


全員が、見ていた。


見ていたから、全員が、同時に引いた。


その夜、アパートの五階の部屋で、楠は、ノートを開いた。


二〇一〇年五月六日 板が、外側から空になった


少し考えて、書き足した。


板は、人がいるように見えて、いなかった


ページを、三年前まで戻した。


二〇〇七年八月 板の並べ方と引き方を、ゲートウェイに任せられないか


楠は、二つの行を、しばらく見比べていた。


今日、板の上の注文を引いたのは、一件ずつ判断する、たくさんのアルゴだった。


引き方が揃っていなかった。だから、板は、ばらばらに崩れた。


楠は、ページを閉じなかった。


六月の半ば、堂島から、店の名前が送られてきた。


ミッドタウンの、東の外れの、すき焼きの店だった。


向こうの真似をしてる店。味は、まあまあ。


水曜の夜だった。


店は、ビルの二階にあった。木の格子戸と、紺の暖簾と、仲居の着物が、少しだけ、どれも違う場所から持ってきたように見えた。


個室の襖を開けると、堂島がいた。


白髪が、増えていた。日に焼けた顔の皺が、深くなっていた。


「変わらないね、あんた」


「堂島さんも」


「嘘つけ」


堂島は、笑った。


それから、隣の席を、顎で指した。


男が一人、座っていた。


三十を少し過ぎたくらいに見えた。細い縁の眼鏡をかけて、紺のシャツを着ていた。


男は、立ち上がった。


背が、楠より、少し高かった。


「楠さん」


声を聞いて、楠は、分かった。


十四年前の成田の、出発ロビーの柱の前で、同じ高さから、同じ声を聞いた。


「……航くん」


航は、深く頭を下げた。


十四年前に、奥寺に下げたのと、同じ深さだった。


仲居が、鉄鍋に牛脂を引いた。


脂の溶ける音と、割り下の匂い。


楠は、二十年前の、ホテルの地下の個室を思い出した。


航も、同じことを思い出しているのが、分かった。


航は、鍋を見たまま、しばらく、何も言わなかった。


「肉、薄いな」


堂島が言った。


「向こうのほうが、薄かったです」


航が言った。


三人とも、少しだけ笑った。


航は、あのあと、大学で物理を学び、大学院に進み、そのまま、こちらの金融の会社に入った、と話した。


クオンツと呼ばれる仕事だった。数式で、売り買いの判断を書く。


「去年、ファンドが一つ、畳まれました。僕がいたところ」


「今は」


「探してます」


堂島が、横から言った。


「だから、あんたに会わせたかった」


鍋が、二度目の肉になったころ、航が、鞄から何かを出した。


灰色の、ポケットコンピューターだった。


液晶は、何も映していなかった。


「まだ、持ってるの」


「持ってます」


航は、それを、テーブルの端に、そっと置いた。


「電池が、もう、売ってないんです。同じ形のが」


楠は、灰色の機械を見ていた。


奥寺の、背広の内ポケットを思い出した。


「奥寺さんは」


航は、首を横に振った。


「父の葬式のあと、一度だけ、手紙が来ました。それきりです」


「何て」


航は、少し考えた。


「ご自分の分は、ご自分で、と」


楠は、黙っていた。


堂島が、何か言いかけて、やめた。


「九九年の秋に、手紙を書いた」


楠が言った。


「読みました」


航は、ポケットコンピューターの角を、指でなぞった。


「返事を、書けなかったんです。父のことを書かないで、何を書けばいいか、分からなくて」


「うん」


「葬式に、間に合わなかったんです」


航の声は、平らだった。


「着いたら、もう、焼いたあとでした。心臓だったと、言われました」


「言われた」


楠は、繰り返してから、繰り返したことを悔やんだ。


航は、楠を見た。


眼鏡の奥の目が、少しだけ、細くなった。


十八年前に、すき焼き屋で、「先生じゃないです」と言った楠を見たときと、同じ目だった。


「はい。言われました」


勘定は、堂島が払おうとした。


楠は、先に、自分の分を、テーブルに置いた。


航は、それを、黙って見ていた。


堂島が、苦笑した。


「坊ちゃん、この人、二十年、誰にも奢られてないんだよ」


「十五年です」


楠が言った。


航が、少しだけ笑った。


それから、財布を出して、自分の分を、楠の札の隣に置いた。


堂島は、自分の分だけを払った。


三人分の札が、伝票の上に、並んだ。


店の前で、堂島は、タクシーを止めた。


「俺は、明日の朝、発つ」


「日本ですか」


「いや」


堂島は、タクシーの扉に手をかけた。


「地中海の、小さい島。税金が安くて、天気がいい。来年あたり、そっちに拠点を移すかもしれない」


楠は、何も言わなかった。


「飛び込むほうだからね」


堂島は、それだけ言って、タクシーに乗った。


航と二人で、五番街のほうへ歩いた。


六月の夜は、まだ明るかった。


「楠さんの、今のチーム」


航が言った。


「速さの仕事ですよね」


「そう」


「僕、速さは、分からないんです。数式は書けるけど、それが、どうやって取引所に着くのか」


「着く前が、大事」


楠は、自分で言ってから、少し黙った。


航が、立ち止まった。


「覚えてます」


「何を」


「着く前なら、こっちの勝手」


楠は、航を見た。


航は、少し照れたように、眼鏡を指で押し上げた。


「十四のときに、楠さんが言ったんです」


翌週、楠は、ダグに、航の話をした。


ダグは、航が書いた論文を二本、読んだ。


三日後、ダグは、航と会った。


一時間の予定が、三時間になった。


面談の部屋から出てきたダグは、楠の机の横で、立ち止まった。


「いい。欲しい」


「そうですか」


「お前の、知り合いか」


楠は、少し考えた。


「父親の、知り合いです」


二〇一〇年六月十六日 航くん。三十二歳。電池は、もう売っていない


奥寺さん。ご自分の分は、ご自分で


心臓だったと、言われた


楠は、最後の行を、しばらく見ていた。


航の言った言葉を、そのまま書いた。


言われた、のところで、ペンが、少し止まった。


六月二十四日 航くんを、ダグに紹介した


楠は、ノートを閉じた。


窓の外で、ハドソン川の上を、ヘリが一機、低く通り過ぎた。


三


七月、議会で、長い名前の法律が通った。


何千ページもある法律だった。


フロアのテレビは、その法律で、銀行の何が変わるかを、何日も話していた。


楠のチームで、その法律を読んだ者はいなかった。


ダグだけが、一度、昼食のあとで、要約の資料を画面に出していた。


「俺たちに関係あるのは、どこだ」


誰も答えなかった。


何千ページの中の、どこかに、取り消すつもりで出す注文を禁じる、という一行があった。


その一行を、チームの誰も、まだ読んでいなかった。


航がチームに来て、二か月が経った。


航は、静かだった。


朝、誰よりも早く来て、窓際の机で、数式を書いた。昼は、机で、パンを一つ食べた。夜は、誰よりも遅くまで残った。


ダグは、航の書いた数式を読むと、ときどき、声を出して笑った。


「こいつは、どこで、こんな考え方を覚えたんだ」


航は、答えなかった。


九月の終わりの夜、フロアには、楠と航しか残っていなかった。


窓の外で、ハドソン川の向こうの街の灯が、水に映っていた。


航が、椅子を回して、楠のほうを向いた。


「楠さん。五月の、あの日」


「うん」


「うちの注文、止めるまで、どのくらいかかりました」


「ダグが止めろと言ってから、二秒くらい」


「そのあいだ、板の上に、うちの注文が残ってた」


「残ってた」


航は、眼鏡を外して、目の間を指で押さえた。


「僕のモデルは、板の真ん中から外側まで、何十本も値段を並べます。売りも、買いも」


「うん」


「急変したとき、どれから引くべきか、モデルは知ってる。でも、モデルが一件ずつ判断して、一件ずつ取り消しを送ってたら、間に合わない」


楠は、黙っていた。


ノートの一行が、頭の中にあった。


三年前の、ロンドンの八月の一行だった。


「判断を、一段、下ろせばいい」


楠が言った。


航が、眼鏡をかけ直した。


「アルゴが、一件ずつ決めるんじゃない。並べる注文の組を、まとめてゲートウェイに渡す。どれを先に出すか、どれを先に引くか、その重みも一緒に」


「重み」


「板の真ん中に近いほうから、先に出す。急変したら、危ないほうから、先に引く。その順番を、ゲートウェイが持っている」


航は、黙って聞いていた。


「アルゴは、考える。ゲートウェイは、考えない。決められた順番で、並べて、引くだけ」


「アルゴが判断を送ってくるのを、待たなくていい」


「待たなくていい」


「取引所の、隣で」


「取引所の、隣で」


航は、長いあいだ、窓の外を見ていた。


それから、楠のほうを向いた。


「判断を、一段、下ろすんですね」


楠が言ったのと、同じ言葉だった。


航は、それを、自分の言葉のように言った。


「着く前なら、こっちの勝手」


航の声は、少しだけ、震えていた。


楠は、それが嬉しかった。


自分の考えを、こんなに早く分かってくれる人間は、これまで、一人もいなかった。


翌朝、二人で、ダグに話した。


ダグは、途中で、話を止めた。


「どのくらいで、できる」


楠は、航を見た。


「三週間」


航が言った。


ダグは、少し考えた。


「やれ」


三週間、楠と航は、ほとんど会社にいた。


航が、重みを決める仕組みを書いた。板の真ん中からの距離と、その値段で約定したときの危なさを、一本ずつ数にする。


楠が、ゲートウェイを書いた。重みの順に、注文に番号を振る。番号の順に、取引所へ流す。急変を見たら、逆の順に、引く。


夜中の二時に、航が、机の上に宅配のピザの箱を置いた。


「楠さん、食べてください」


楠は、財布を出した。


航は、首を横に振った。


「僕が、楠さんの分を払ったんじゃありません。チームの経費です。ダグが、払ってます」


楠は、少し考えた。


「ダグに、奢られることになる」


「会社にです」


楠は、財布をしまった。


ピザは、冷めていて、硬かった。


楠は、二切れ食べた。


十日目の夜、一つ、問題が出た。


ゲートウェイが、引くときに、取り消しを一度に流しすぎた。取引所の機械が、それを嫌って、こちらの回線を、しばらく黙らせた。


楠は、回線が黙るのを、画面の記録で見た。


何秒待つか。何回呼び直すか。


二十年前に、三冊のファイルで覚えた手順だった。


「流す間隔を、少しだけ空ける」


楠は言った。


「どのくらい」


「取引所が嫌がらない、ぎりぎり」


楠は、取引所の仕様書と、その夜の記録を、二時間かけて見比べた。


取引所は、一本の回線から一秒間に受け付ける電文の数に、上限を決めていた。上限を超えると、しばらく、回線を黙らせる。


一度に全部を引くのではなく、値段の段ごとに、少しずつ引く。一つの段を引いたら、次の段を引くまで、待つ。


その待つ長さを、一つ決めた。


千分の一秒を単位にした、二桁の数字だった。


十億分の五秒を奪い合う建物の中で、わざと待つための数字だった。


ゲートウェイの時計は、千分の一秒で数えていた。設定の欄には、数字だけを書く。単位は、書く欄がなかった。


楠は、設定の欄に、三十七、とだけ書き込んだ。


それから、ノートにも、書いた。


二〇一〇年十月十四日 流す間隔。三十七ミリ秒


ノートには、単位を書き添えた。


理由は、なかった。


書いておかないと、何が起きたか分からなくなる。それだけだった。


三週間目の金曜、ゲートウェイは、本番の回線に繋がった。


航のモデルが、板の真ん中から外側まで、何十本も値段を並べた。


ゲートウェイが、重みの順に、それを流した。


取引所の板の上に、航のモデルの注文が、並んだ。


真ん中に近いほうから、順番に。


楠は、画面の記録を見ていた。


値段の段が一つずつ、同じ間隔で、並んでいった。記録の時刻の差を、千分の一秒の単位で、楠は読んだ。


三十七。三十七。三十七。


航が、楠の隣に立っていた。


何も言わなかった。


楠も、何も言わなかった。


窓の外で、ハドソン川の上の空が、夕方の色になっていた。


楠は、この三週間を、ニューヨークで一番楽しかった時間として、長いあいだ覚えていることになる。


そのとき、それを、まだ知らなかった。


十一月の終わりの木曜、航の部屋に、夕食に呼ばれた。


感謝祭だった。


「家族のいない人を、呼ぶ日なんです」


航が言った。


「航くんの家族は」


「僕も、いないので」


航は、少し笑った。


「一緒に住んでる人の、日です」


航の部屋は、川の向こうの、クイーンズの古い住宅街にあった。


地下鉄を降りると、ギリシャ語の看板が、並んでいた。パン屋と、肉屋と、果物屋と、小さな教会。


通りの角のパン屋から、蜂蜜と胡麻の匂いがした。


楠は、角の酒屋で、ワインを一本買った。


店の主人に、同じ値段の瓶を二本、並べて見せられて、少し迷った。


高いほうではなく、安いほうでもなく、真ん中のを選んだ。


航の部屋の扉を開けたのは、女性だった。


黒い髪を、肩まで垂らしていた。背は、楠より少し低かった。


目が大きく、笑うと、目尻に、細い皺が寄った。


「エレニです」


英語だった。この街の英語だった。


楠は、ワインを差し出した。


エレニは、受け取って、ラベルを見た。


「お客さんは、手ぶらでいいのに」


「そういうわけには」


「日本の人は、みんな、そうなの?」


エレニは、航のほうを振り返った。


台所で、航が、鍋の蓋を開けていた。


「この人は、特に」


航が言った。


テーブルの上に、皿が並んでいた。


焼いた白いチーズ。葡萄の葉で米を巻いたもの。細長い肉の腸詰め。檸檬と香草の匂いがした。


「島の料理」


エレニが言った。


「両親の島。私は、ここで生まれたけど」


「島」


「キプロス。地中海の、一番東の」


楠は、堂島のタクシーの前の言葉を思い出した。


税金が安くて、天気がいい。


エレニは、楠の皿に、チーズを二切れ載せた。


「両親は、去年、向こうに帰ったの。父が、ずっと帰りたがってたから。リマソールで、小さな店を開いた。港の近く」


「何の店ですか」


「コーヒーと、お菓子。父は、四十年、こっちで働いて、全部、向こうの銀行に貯めてたの」


エレニは、少し笑った。


「こっちの銀行は、信用してないって」


食事の途中で、エレニが、楠を見た。


「あなたは、彼の何ですか」


航が、フォークを止めた。


楠は、少し考えた。


ダグに聞かれたときと、同じ答えしか、思いつかなかった。


「父親の、知り合いです」


「お父さんの」


エレニは、航を見た。


「お父さんの話、彼はしないの」


航は、何も言わなかった。


楠は、テーブルの上の、湯気の立つ皿を見ていた。


二十年前の、ホテルの地下の個室の、鉄鍋の湯気を思い出した。


会長は、自分の肉には、ほとんど箸をつけなかった。


「いい方でした」


楠は言った。


「すき焼きを、ご馳走になりました」


エレニは、しばらく、楠を見ていた。


それから、航のほうに向き直った。


「今度、私にも、話して」


航は、エレニを見た。


「うん」


帰りの地下鉄の駅まで、航が送ってきた。


十一月の夜の風が、ギリシャ語の看板を、かたかたと鳴らしていた。


「来年、結婚しようと思ってます」


航が言った。


「そう」


「エレニが、いずれ、島に帰りたいって」


「航くんは」


航は、少し黙った。


「僕は、どこでも」


それから、付け足した。


「どこにも、帰るところがないので」


地下鉄の入口の、明るい灯りの下で、航は、立ち止まった。


「楠さん。あのゲートウェイ」


「うん」


「ありがとうございました」


航は、深く頭を下げた。


楠は、何と答えればいいか、分からなかった。


「チームの仕事だよ」


航は、顔を上げた。


「楠さんの、考えです」


二〇一〇年十一月二十五日 航くんの部屋。エレニ。島の料理


あなたは、彼の何ですか。父親の、知り合いです


エレニのお父さん。リマソール。港の近く。全部、向こうの銀行に


楠は、ノートを閉じる前に、ページを、六週間前に戻した。


流す間隔。三十七ミリ秒


自分の字だった。


楠は、その数字を、しばらく見ていた。


何も感じなかった。


そのときは、まだ。


四


二〇一一年の二月、楠は、ゲートウェイの記録を、毎朝、最初に見るようになっていた。


一晩で、何十万件の注文が、重みの順に並び、重みの逆の順に引かれていた。


回線は、一度も黙らなかった。


三十七。三十七。三十七。


楠は、それを見るのが好きだった。


ある朝、楠は、記録の中に、一つのことに気づいた。


板の外側に並べた注文が、ほとんど約定していなかった。


真ん中に近い注文は、約定していた。外側の注文は、並んで、しばらくして、引かれていた。


相場が動く前に、ゲートウェイが、危ないほうから引いていた。


楠は、少し満足した。


引くべきものを、引くべき順に、引いている。


安全装置が、よく効いていた。


「よく効いてますね」


隣の席のマットが言った。


チームで一番若い、数学の出身の男だった。楠の画面を、肩越しに覗いていた。


「外側、全然、食われてない」


「うん」


楠は、答えた。


マットは、自分の机に戻った。


楠は、画面を、一枚、前に戻した。


外側の注文が並んだ直後の、板の記録だった。


反対側の板が、一斉に、一歩、下がっていた。


楠は、その日の記録を、最初から見直した。


次の日の記録も、見直した。


外側に、厚く注文が並ぶ。


しばらくすると、板の上の、他の参加者の注文が、動く。こちらの厚みに押されるように、値段を、一歩、譲る。


他の参加者の中には、機械もいた。板の厚みを読んで、相場がどちらに動くかを判断する機械だった。


その機械は、こちらの外側の厚みを見て、判断していた。


外側の厚みは、約定しない。


板が動く前に、ゲートウェイが、正しい順番で、引くからだった。


楠は、「効いてる」と、声に出さずに繰り返した。


同じ言葉だった。


意味が、変わっていた。


楠は、航のモデルの記録を開いた。


外側に並べる注文の数が、三か月前より、増えていた。


少しずつ。週ごとに。


航が、重みの数を調整していた。


外側を、厚くするほうへ。


三月の初め、楠は、もう一つの形に、気づいた。


板の、真ん中だった。


買いの一番いい値段の、一つだけ上に、ときどき、大きめの買い注文が、ふっと現れた。


板の一番上の値段が、一つ、上がる。


それを見た機械が、動いた。


自分の買い値を、つられて一つ上げる機械。現れた買いに、売りをぶつけに行く機械。


ぶつけに行った機械の注文が、取引所に着いたとき、その買いは、もう、なかった。


現れてから消えるまで、千分の一秒の単位で数えられるほどの、短い時間だった。


消えた買いの跡に、つられて上がった、ほかの機械の買い値だけが、残っていた。


その、上がった買い値に、航のモデルの、小さな売りが、当たっていた。


楠は、記録を、何日分も見た。


大きめの買いは、ときどき、約定していた。消える前に、誰かが売りを当てて、そのまま約定した。


約定すれば、それで終わりだった。損にはならない値段だった。値を出す仕事の、普通の約定として、帳簿に載った。


約定しなければ、消えた。


どちらでも、よかった。


楠は、ゲートウェイの記録を開いた。


その大きめの買いは、いつも、重みの一番上にいた。


板の真ん中に一番近い注文として、一番先に流れていた。反対側が動いた瞬間には、危ないほうから引くという順番で、一番先に引かれていた。


楠が書いた順番だった。


昼、マットが、サンドイッチを食べながら言った。


「最近、みんな、やってるらしいですよ。一番上に一つだけ出して、すぐ引くやつ」


「みんな」


「シカゴでも、こっちでも。速いところは、だいたい。当たっても、引けても、どっちでもいいやつ」


マットは、笑った。


「当てに行くと、もういない。幽霊みたいだって、向こうの連中は言ってます」


楠は、答えなかった。


夜、フロアに、楠と航しか残らなかった。


楠は、椅子を回した。


「外側、ほとんど約定してませんね」


航は、画面から目を上げなかった。


「安全装置が、よく効いてる」


楠は、航の横顔を見ていた。


何日か前の朝、楠が、自分の画面の前で思ったのと、同じ言葉だった。


航が、それを本気で言っているのか。分かっていて、言っているのか。


楠には、分からなかった。


「一番上に、ときどき、大きい買いが出てるね」


航の指が、一瞬、止まった。


「値を、出してるだけです」


「すぐ、消える」


「危なくなったら、ゲートウェイが引くので」


「約定しないことが、多い」


「約定しても、いいんです」


航は、またキーを叩き始めた。


「引けても、いい。どっちに転んでも、損はしない値段にしてあります」


楠は、航の横顔を見ていた。


どっちに転んでも、損はしない。


それは、値を出す仕事の、正しい設計だった。


そして、見せるためだけの注文の、正しい設計でもあった。


「外側も、厚くしてるね」


「リスクを取れる幅が、広がったので」


航は、キーを叩いた。


「ゲートウェイが、ちゃんと引いてくれるから、外側に置ける。楠さんの、おかげです」


楠は、何も言わなかった。


その夜、アパートの五階の部屋で、楠は、ノートを開いた。


二〇一一年三月十日 外側は、約定しない。板が傾く


一番上に、一つだけ、大きく出して、すぐ引く。約定しても良し、引けても良し。重みの一番上


楠は、その行を見ていた。


それから、机の上のパソコンで、去年の七月の法律の、要約の資料を開いた。


何千ページの中の、一行を、探した。


取り消すつもりで、出す注文。


つもり、という言葉が、そこにあった。


ゲートウェイは、何のつもりも持っていなかった。決められた順番で、並べて、引くだけだった。つもりを持っているのは、航のモデルか、航の頭の中だった。


どこからが、つもりなのか。規則は、まだ、何も具体的に決めていなかった。どう取り締まるのかも、誰も知らなかった。


楠は、資料を閉じた。


つもりは、ゲートウェイの中にはない


そう書いて、少し、安心した。


安心したことに、気づいた。


消さなかった。


三月、日本の東北で、大きな地震があった。


ニューヨークの夜中に、楠は、テレビで、黒い水が畑の上を這っていくのを見た。


実家に電話をかけた。


今度は、通じた。


「こっちは、揺れてへん」


父の声だった。八十近くなって、少し、ゆっくりになっていた。


「テレビ、見てる」


「見とる」


父は、しばらく黙っていた。


「港が、また、なんもなくなっとる」


十六年前の、岸壁の上の声と、同じだった。


夏になっても、楠は、誰にも言わなかった。


ダグにも。会社の、規則を見張る部署にも。


航にも、もう一度聞くことはしなかった。


ゲートウェイは、毎晩、三十七の間隔で、並べて、引いた。


チームは、稼いでいた。


八月、アメリカの国債の格付けが、一段、下がった。


相場が荒れた。


チームは、また、稼いだ。


同じ月、会社の上のほうから、通達が来た。


銀行の中で、自分の金で売り買いするチームは、来年のうちに、畳む。去年の法律のせいだった。


ダグは、通達を読んで、声を出して笑った。


「何千ページのうちの、どの一行に、殺されたんだろうな」


楠は、答えなかった。


一月の末、チームは、解散した。


ダグは、シカゴの小さな会社に移った。マットは、西海岸の、インターネットの会社に移った。


ゲートウェイのコードは、会社の倉庫の、誰も開けない場所に、しまわれた。


楠は、最後の日に、ゲートウェイの記録を、一度だけ開いた。


三十七。三十七。三十七。


それから、閉じた。


終わった、と思った。


誰も、何も、問題にしなかった。問題になる前に、なくなった。


楠は、安心した。


航は、チームの解散の前から、エレニと、結婚の準備をしていた。


式は、四月の土曜、クイーンズの、ギリシャの教会で行われた。


金色の天井の下で、司祭が、長い祈りを唱えた。二人の頭の上に、白い花の冠が載せられた。冠と冠は、白い紐で結ばれていた。


楠は、後ろのほうの席に座っていた。


隣に、堂島がいた。


島から、飛んできたのだった。前より、さらに日に焼けていた。


「坊ちゃん、いい顔してるな」


堂島が、小さな声で言った。


「会長にも、見せたかった」


楠は、答えなかった。


式のあとの食事の席で、航が、楠のところに来た。


「来週、島に行きます」


「うん」


「エレニのお父さんの店の、二階に住みます。仕事も、向こうで見つかったので」


「どういう仕事」


「小さな会社です。取引の」


航は、少し笑った。


「速さの仕事です」


楠は、航の顔を見た。


航の目は、何も言っていなかった。


「堂島さんの、紹介?」


楠は、聞いた。


聞いてから、聞かなければよかったと思った。


航は、しばらく黙っていた。


「島は、小さいので。みんな、誰かの紹介です」


エレニが、白い衣装のまま、楠のところへ来た。


「来てくれて、ありがとう」


「おめでとうございます」


楠は、封筒を差し出した。


祝いの金だった。この街で、こういう席に包むくらいの額を、同僚に聞いて、そのとおりに入れた。


エレニは、受け取って、少し笑った。


「今度は、手ぶらじゃないのね」


「今日は、お客ではないので」


エレニは、首を傾けた。


「じゃあ、何」


楠は、少し考えた。


「父親の、知り合いです」


エレニは、声を出して笑った。


それから、楠の手を、両手で握った。


「島に、来てね。いつか」


アパートの五階の部屋で、楠は、段ボールを三つ詰めた。


十四年前に東京からロンドンへ、四年前にロンドンからここへ、持ってきたのと、同じ数だった。


東京に、帰ることにしていた。


証券会社の、売買を見張る部署だった。取引所に流れる注文の中から、おかしなものを探す仕事だった。


ダグは、それを聞いて、眉を上げた。


「もったいない。お前は、並べる側の人間だ」


「見る側に、行きます」


「なぜ」


楠は、少し考えた。


ナイジェルの言葉を思い出していた。


一人がやった。誰も見ていなかった。


「誰かが、見ていないといけないので」


ダグは、しばらく楠を見ていた。


「お前が見るのか」


「はい」


ダグは、肩をすくめた。


二〇一二年四月二十一日 航くんとエレニ。白い花の冠。紐で結ばれていた


島は、小さいので。みんな、誰かの紹介です


五月二日 東京へ。見る側に行く


楠は、ノートを、少し前に戻した。


つもりは、ゲートウェイの中にはない


自分の字だった。


一年前に、それを書いて、安心した。


楠は、その行を、長いあいだ見ていた。


それから、封筒を、ノートの最後のページに挟んだ。


二十二年前の四月から、一度も開けていない封筒だった。


(第三部 了)

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