第二部 ロンドン
一
ヒースローから乗った地下鉄は、いつまでも地上を走っていた。
窓の外に、同じ形の煉瓦の家が、同じ形の煙突を載せて、どこまでも並んでいた。
午後の三時を過ぎると、空が灰色から、もっと濃い灰色に変わった。
四時には、暗くなった。
楠は、膝の上の鞄を、両手で押さえていた。
中に、ノートと、封筒が入っていた。
部屋は、エンジェルという駅の近くだった。
会社が用意した、家具付きの二部屋だった。窓枠が古く、閉めても、細い風が入ってきた。
大家は、階下に住む、年をとった女性だった。
「日本から?」
「東京から」
「寒いでしょう」
「東京より、暗いです」
大家は、少し笑った。
「一月になれば、もっと暗くなるわ。三月になれば、嘘みたいに明るくなる」
楠は、最初の夜、段ボールを一つも開けなかった。
ノートだけを出して、机の上に置いた。
一九九七年十二月十五日 ロンドン。四時に暗くなる
封筒は、鞄に入れたまま、洋服箪笥の一番上の棚に置いた。
会社は、リバプール・ストリートの駅から、歩いて五分のところにあった。
ガラスの建物の、七階だった。
エレベーターの扉が開くと、ナイジェルが立っていた。
「二か月、遅い」
最初の言葉が、それだった。
「何がですか」
「十月に、取引所が機械になった」
ナイジェルは、楠を、フロアの奥の画面の前に連れていった。
画面の真ん中に、数字が二列に並んでいた。
左に、買いたい人の値段と数。右に、売りたい人の値段と数。真ん中に近いほど、二つの値段は近づいていた。
「板だ」
ナイジェルが言った。
「前は、マーケットメーカーが電話で値段を出していた。今は、全部、ここに並ぶ」
楠は、画面を見ていた。
数字が、ときどき、一つだけ入れ替わった。誰かが注文を出し、誰かが取り消した。そのたびに、列が、少しずつ形を変えた。
東京では、こういう画面を見たことがなかった。
「誰でも、見えるんですか」
「誰でも、同じものが見える」
ナイジェルは、画面の真ん中を指で叩いた。
「同じものが見えるなら、違いは一つしかない」
「順番」
ナイジェルは、少しだけ笑った。
「覚えてたか」
フロアは、東京より静かだった。
叫ぶ人は、いなかった。電話も、ほとんど鳴らなかった。
代わりに、キーボードの音がしていた。
楠は、七年前の四月を思い出した。
株を売っているのは、人の声だった。
ここでは、もう、声ではなかった。
最初に渡された仕事は、一枚の紙だった。
年金基金からの注文だった。ある銘柄を、二百万株売る。今日一日で。値段を、できるだけ下げずに。
「一度に出したら」
ナイジェルが聞いた。
「板の買いを、全部食べます。値段が落ちる」
「だから」
「小さく分けて、一日かけて、少しずつ出す」
「どのくらいずつ」
楠は、少し考えた。
「その銘柄が、普段、一日のどの時間に、どれだけ売買されているか。それに合わせて」
ナイジェルは、腕を組んだ。
「それを、機械にやらせる。人が、一日じゅう画面の前に座っていなくていいように」
「客は、それでいいんですか」
「客は、結果の値段しか見ない」
ナイジェルは、紙を楠の机に置いた。
「どう並べたかは、誰も見ない。俺たち以外は」
木曜の夜、会社の近くのパブに、フロアの何人かで行った。
金曜は、みんな家に帰る。パブは木曜だ、とナイジェルが言った。
煙草の煙と、ビールの匂いと、低い天井だった。床が、少しだけ、べたついていた。
最初に、スコットランドから来たトレーダーのユアンが、カウンターへ行った。
戻ってきたとき、両手に四つ、グラスを持っていた。
一つを、楠の前に置いた。
「ラウンドだ。次は誰かが買う。その次は、また誰かが」
楠は、グラスを見ていた。
東京の喫煙室で、堂島が、ライターを三度鳴らした音を思い出した。
楠は、財布を出した。
ユアンのグラスの分の硬貨を、テーブルの上に置いた。
「これは、自分で」
ユアンは、眉を上げた。
「そういうもんじゃないんだよ、ここでは」
「知ってます」
楠は、立ち上がった。
カウンターへ行って、四つ、グラスを買った。
戻ってきて、テーブルに並べた。
「次は、僕です」
ユアンは、笑った。
「じゃあ、その次は」
「その次は、帰ります」
楠は、自分のグラスを一つだけ飲んで、上着を取った。
翌週の木曜も、同じだった。
楠は、最初のラウンドを自分で買った。自分のグラスを一つだけ飲んだ。誰かが二つ目のラウンドを買いに立つ前に、帰った。
三週目に、ユアンが言った。
「あいつは、奢るけど、奢られないんだな」
ナイジェルが、グラスを置いた。
「放っておけ」
ユアンは、ナイジェルを見た。
「理由は」
「知らない」
ナイジェルは、それだけ言って、また飲んだ。
楠は、店の扉を押して、外に出た。
冷たい空気が、顔に当たった。通りの向こうで、赤いバスが、濡れた道路に光を落として通り過ぎた。
ナイジェルが理由を聞かないことを、楠は、ありがたいと思った。
年が明けて、一月の最初の日曜、楠は、洋服箪笥の上の棚から鞄を下ろした。
ノートの最後のページを開いた。
二つの住所が、挟まっていた。
楠は、アメリカのほうを取り出した。
鉛筆の文字が、少し薄くなっていた。
便箋を一枚、机に置いた。
何を書けばいいのか、しばらく分からなかった。
結局、短く書いた。
航くん
ロンドンに来ました。住所を書いておきます。
並べ替えより速い方法は、並べる前に、分けておくことです。どう分けるかは、並べるものによります。
楠
封筒に宛名を書いて、切手を貼った。
それから、香港のほうの名刺を、指で押さえて、しばらく見ていた。
名刺を、ノートの最後のページに戻した。
一九九八年一月四日 航くんに、手紙を書いた
楠は、その下に、書き足した。
ロンドンでは、どう並べたかを、誰も見ない。俺たち以外は
ナイジェルの言葉だった。
書いてから、その言葉が、少しだけ怖くなった。
どうしてかは、分からなかった。
消さなかった。
二
航からの返事は、三月に届いた。
薄い青の航空便の封筒だった。宛名の文字が、楠の知っている鉛筆の字より、少し大きくなっていた。
楠さん
手紙、ありがとうございました。
分けておく方法、試しました。数字の一番下の桁で十の箱に分けて、次の桁でまた分ける。並べ替えをしないのに、並ぶので驚きました。
こちらは、雪が多いです。物理の授業は、思っていたより数学です。
父からは、手紙が来ません。奥寺さんからは、来ます。
航
楠は、最後の二行を、しばらく見ていた。
それから、手紙を、ノートの最後のページに挟んだ。
航の手紙は、年に二度くらい届いた。
楠も、年に二度くらい返した。
航は、授業のことを書いた。雪のことを書いた。寮の同じ階の、ロシアから来た学生が、机の上でチェスの盤を片づけないことを書いた。
楠は、ロンドンの暗さのことを書いた。三月になると、嘘みたいに明るくなることを書いた。
仕事のことは、二人とも、ほとんど書かなかった。
父親のことも、航は、最初の手紙のあと、書かなくなった。
一九九九年の秋から、航の手紙が来なくなった。
楠は、一度だけ、短い手紙を書いた。
返事は、来なかった。
楠は、二度目は書かなかった。
来ない理由を、聞くことになる気がした。
仕事は、少しずつ形を変えていった。
一日かけて少しずつ出す注文は、客の注文の半分を超えた。機械に分けさせ、機械に出させ、人は結果の値段を見るだけになった。
フロアから、キーボードの音さえ減っていった。
画面の前で、人は、腕を組んで座っていた。
二〇〇〇年の春、インターネットの会社の株が、どこまでも上がって、それから、どこまでも下がった。
楠の仕組みは、上がるときも、下がるときも、同じ順番で、同じように注文を並べた。
機械は、何も感じなかった。
楠は、それを、少しだけ羨ましいと思った。
二〇〇一年の九月、火曜の午後、フロアのテレビに、ニューヨークのビルが映った。
ビルから、黒い煙が上がっていた。
最初は、誰も声を出さなかった。
二機目が映ったとき、誰かが、椅子から立ち上がった。
ニューヨークの取引所は、その日、開かなかった。
楠の画面には、ニューヨーク向けの注文が、いくつか残っていた。行き先のない注文だった。回線の向こう側が、黙っていた。
何秒待つか。何回呼び直すか。
楠は、手順どおりに、注文を一件ずつ取り消した。
取り消し終わったとき、窓の外は、まだ明るかった。
ナイジェルが、楠の机の横に立っていた。
「全部、戻したか」
「全部」
ナイジェルは、しばらく、テレビを見ていた。
「向こうには、戻せないものが、たくさんある」
二〇〇二年の三月、堂島がロンドンに来た。
会社には、もういなかった。
「辞めたよ。三年前に」
リバプール・ストリートの駅の前で、堂島は言った。
コートの襟を立てていた。前より痩せて、前より日に焼けていた。
「今、何をしてるんですか」
「潰れた会社の、貸付を買ってる。安く買って、高く売る」
「飛び込んだんですね」
堂島は、声を出して笑った。
「やっと」
木曜の夜、会社から少し離れた、古いパブに入った。
天井の梁が低くて、堂島は、入口で一度、頭をぶつけそうになった。
「俺が買う」
堂島が、カウンターへ行こうとした。
「自分の分は、自分で」
楠は、先にカウンターへ行った。
自分のビールと、堂島のビールを買って、席に戻った。
堂島は、グラスを受け取って、楠の顔を見ていた。
「奢るのは、いいのか」
「いいんです」
「奢られるのは」
「だめです」
堂島は、しばらく黙っていた。
「奥寺さんみたいだな」
楠は、答えなかった。
一杯目の半分を飲んだところで、堂島が言った。
「会長、死んだよ」
楠は、グラスを置いた。
「いつですか」
「九九年の秋。大阪の病院で」
航の手紙が、来なくなった季節だった。
「病気ですか」
「心臓だって、聞いた」
堂島は、グラスの縁を指でなぞった。
「聞いた、だけだけどね」
「航くんは」
「葬式には、間に合わなかったらしい。アメリカから、飛んできたけど」
楠は、九九年の秋に書いた、短い手紙のことを考えた。
返事が来なかった手紙だった。
「奥寺さんは」
「葬式のあと、見なくなった」
「どこへ」
堂島は、肩をすくめた。
「覚えておかないといけないことが、多い人だったからな」
店の奥で、誰かがダーツを投げていた。矢が板に刺さる、乾いた音がした。
堂島は、二杯目を買いに立たなかった。
楠が立たないことを、分かっているようだった。
「もう一つ、あるんだ」
堂島は、声を低くした。
「会長に、最初に金を出してた人、覚えてる?」
「会ったことは、ありません」
「そうか。あんたは、会ってないか」
堂島は、少し考えた。
「金を貸すのが仕事の人だった。表の銀行じゃない」
「はい」
「会長が傾いて、その人も、日本にいられなくなった。香港に行った」
楠は、グラスを持たなかった。
「去年、死んだって」
堂島は、窓の外を見た。濡れた石畳に、店の明かりが落ちていた。
「ベッドが、きれいだったらしい」
楠は、何も言わなかった。
堂島も、それ以上、言わなかった。
しばらくして、堂島は、急に明るい声を出した。
「で、ロンドンの潰れた会社は、どこが安い?」
楠は、答えなかった。
堂島は、それを気にせずに、自分の仕事の話を続けた。
地下鉄の駅の入口で、堂島と別れた。
「また来るよ」
「はい」
堂島は、階段を二段降りて、振り返った。
「あんた、変わらないね」
「そうですか」
「変わらないのは、悪くない」
堂島は、それだけ言って、階段を降りていった。
エンジェルの部屋に帰って、楠は、洋服箪笥の上の棚から鞄を下ろした。
ノートの最後のページを開いた。
香港の名刺と、アメリカの住所と、航の手紙が、何通か挟まっていた。
楠は、ノートを前のほうへめくった。
一九九五年 香港 失血 シーツは白かった
七年前の、自分の字だった。
楠は、新しいページに書いた。
二〇〇二年三月十四日 会長。一九九九年の秋。心臓と、聞いた
金を貸していた人。香港。シーツは白かった
堂島は、シーツとは言わなかった。
ベッドが、きれいだった、と言った。
楠は、七年前と、同じ言葉を書いた。
自分の言葉を、自分で書き写した。
鞄の底に、封筒があった。
角が、十二年分、丸くなっていた。
楠は、封筒を手に取った。
糊は、まだ、剥がされていなかった。
返す相手は、もう、いなかった。
奥寺の声を思い出した。
今、これが会長に戻れば、会長は、楠さんが離れていったと思われます。
楠は、会長から離れなかった。
離れなかったのに、一度も、会いに行かなかった。
封筒を、鞄の底に戻した。
窓の外で、夜の雨が、古い窓枠を細く鳴らしていた。
三
二〇〇四年の秋、楠は、美術館の小さな展示室にいた。
古い海図の展示だった。
新聞の片隅に、一行だけ載っていた。十九世紀の、東洋の港の測量図。その中に、兵庫の港が一枚、含まれていた。
平日の昼休みに、会社を抜けてきた。
展示室は、薄暗かった。紙を傷めないように、明かりを落としているのだと、入口の説明に書いてあった。
兵庫の港は、奥の壁の、ガラスの下にあった。
楠の知っている形ではなかった。
埋め立ても、突堤も、まだなかった。海岸の線が、ゆるく曲がって、山のほうへ寄っていた。水深を示す小さな数字が、海の上に、細かく並んでいた。
父が、毎朝歩いていった岸壁は、この地図では、まだ海だった。
楠は、長いあいだ、その前に立っていた。
「日本の方ですか」
後ろから、声がした。
振り向くと、白い上着を着た女性が立っていた。
髪を後ろで一つにまとめて、首から、美術館の職員証を下げていた。
「そうです」
「よかった」
女性は、少しだけ笑った。英語に、角のある、知らない国の響きがあった。
「この十二時半から、この部屋で、修復の話をします。もし時間があったら」
「修復」
「この地図を直したのは、私です」
話を聞きに来たのは、十人ほどだった。年をとった夫婦と、学生らしい若者と、スケッチブックを抱えた女性。
白い上着の女性は、アグニェシュカと名乗った。
「長いので、アガと呼んでください」
アガは、ガラスの横に立って、兵庫の港の地図を指した。
「この地図は、百三十年、折り畳まれて、箱の中にありました。折り目で、紙が裂けていました。右下には、水の染みがありました」
楠は、地図の右下を見た。
言われなければ、分からなかった。
「裂けたところは、裏から、薄い紙で継ぎました」
アガは、小さな紙の見本を、指先で持ち上げた。
光に透けるほど、薄かった。
「日本の紙です。繊維が長くて、薄くても、強い。私たちの仕事では、世界中で、これを使います」
楠は、その薄い紙を見ていた。
子どものころ、実家の障子に貼られていた紙と、同じ白さだった。
「修復には、一つ、決まりがあります」
アガは、見本の紙を、指先から下ろした。
「加えたものは、後で、外せるようにしておく」
年をとった夫婦の、夫のほうが、手を挙げた。
「なぜですか。直したのなら、そのままでいいでしょう」
「百年後の修復士が、私より、いい方法を知っているかもしれないからです」
アガは、地図のほうを見た。
「私の直し方が、間違っているかもしれない。だから、私が加えたものは、全部、水で外せる糊で貼ってあります。紙は、私のものではないので」
話が終わって、人が出ていった。
楠は、残っていた。
「質問ですか」
アガが聞いた。
「水の染みは」
「はい」
「消さなかったんですか」
アガは、少し、驚いた顔をした。
それから、地図の右下を、もう一度見た。
「消せます。でも、消しませんでした」
「なぜですか」
「この地図に、何が起きたかの、記録だからです」
楠は、黙っていた。
「染みを消したら、この紙が水に濡れたことは、誰にも分からなくなる。いつ、どこで、どうして濡れたのか。私には、分かりません。でも、濡れたことは、本当です」
アガは、楠を見た。
「だから、残しておきます。由来は、分からないまま」
楠は、しばらく、何も言えなかった。
「……同じことを、仕事でしています」
「修復ですか」
「いいえ」
楠は、少し考えた。
「障害の記録です。機械が止まったときに、何が起きたかを、先に書く。なぜかは、後で考える」
アガは、首を少し傾けた。
「似ていますね」
アガは、地図の左上を指した。
そこに、墨で書かれた、小さな文字の列があった。
「これ、読めますか。日本語だと思うのですが、誰も読めなくて」
楠は、ガラスに顔を近づけた。
崩した字だった。全部は読めなかった。
「……測った人の、名前だと思います。それと、日付。明治の、はじめのころ」
アガは、白い上着のポケットから、小さな手帳を出した。
「もう一度、ゆっくり」
楠は、読める字だけを、一つずつ読んだ。
アガは、それを、アルファベットで書き取った。
書き終わって、手帳を閉じた。
「ありがとうございます。三か月、分からなかったんです」
「全部は、読めていません」
「読めたところまでで、十分です」
アガは、少し笑った。
「読めないところは、読めないまま、残しておきます」
一週間後の水曜、楠は、美術館の近くの小さな店で、アガと食事をした。
誘ったのは、アガのほうだった。
「地図のお礼です」
窓際の、狭いテーブルだった。店は、ポーランドの料理を出していた。
「この春から、急に、こういう店が増えたの」
アガは、窓の外を見た。
「私たちの国が、この春に、ヨーロッパに入ったから。仕事を探して、たくさん来た」
「アガさんも」
「私は、戻ってきたの」
「戻って」
アガは、スープの皿を、少し脇へ寄せた。
「九〇年代の終わりに、二年、ここにいたの。奨学金で。ロンドンの美術大学に、紙の修復を学ぶ課程があって」
「そのあとは」
「クラクフに帰った。大学の図書館で、古い本を直してた。六年」
アガは、窓の外を見た。
「ここで習ったことを、向こうで使った。でも、向こうでは、日本の紙が、なかなか手に入らなかった。糊も、道具も」
「それで」
「国がヨーロッパに入って、ここで働けるようになった。イギリスは、すぐに働かせてくれた、数少ない国の一つだったの。昔の先生が、美術館に推してくれた」
アガは、少し笑った。
「英語は、二年でずいぶん覚えた。講義も、ここで覚えた。でも、発音は、クラクフに置いてきたまま」
楠も、少し笑った。
「僕も、七年いて、まだ、神戸に置いてきたままです」
「神戸」
「あの地図の、港です」
アガは、フォークを持つ手を止めて、楠を見た。
「だから、あの地図の前に、あんなに長く立ってたのね」
食事の終わりに、給仕が、伝票を一枚、テーブルの真ん中に置いた。
アガが、手を伸ばした。
「今日は、お礼だから」
楠は、先に、伝票を引いた。
「二つに、分けてもらえますか」
給仕が、少し怪訝な顔をして、伝票を持っていった。
アガは、楠を見ていた。
「ポーランドでは、男が払うのよ」
「日本でも、たいていは」
「じゃあ、なぜ」
楠は、少し考えた。
窓の外を、濡れた自転車が、一台、通り過ぎた。
「昔、払ってもらいすぎたので」
アガは、それ以上、聞かなかった。
給仕が、二枚になった伝票を持ってきた。
アガは、自分の分を払った。
楠も、自分の分を払った。
店を出ると、細い雨が降っていた。
アガは、傘を持っていなかった。楠も、持っていなかった。
二人で、地下鉄の駅まで、濡れながら歩いた。
駅の入口の、明るい灯りの下で、アガが言った。
「さっきの、払ってもらいすぎた、というの」
「はい」
「聞かないことにしました」
「ありがとうございます」
「修復士は、紙の染みの由来を、すぐには聞かないの」
アガは、濡れた前髪を、指で払った。
「いつか、話したくなったら」
楠は、答えなかった。
アガは、それでいいというように、小さく頷いて、階段を降りていった。
エンジェルの部屋で、楠は、ノートを開いた。
二〇〇四年十月二十日 アガ。紙の修復士。クラクフ
少し考えて、書き足した。
加えたものは、後で外せるようにしておく
染みは、消さない。由来は、分からないまま
楠は、自分のノートを、最初のページから、ゆっくりめくった。
一九九〇年の四月から、十四年分の字が並んでいた。
何も、消していなかった。
線を引いて消そうとして、やめた行が、一つあった。
鞄の底には、糊の剥がされていない封筒が、まだ入っていた。
楠は、ノートを閉じた。
窓の外の雨は、朝まで止まなかった。
四
アガの誕生日は、二月だった。
最初の年、楠は、クラクフの古い街並みを撮った写真集を贈った。
アガは、包みを開けて、長いあいだ頁をめくっていた。
「どうして、この本を」
「前に、古い街だと言っていたので」
アガは、本を閉じて、胸に抱えた。
五月の楠の誕生日に、アガは、灰色の毛糸の襟巻きをくれた。
楠は、翌週、アガに、紙の修復の古い技法書を贈った。古本屋で見つけた、十九世紀のものだった。
アガは、技法書の表紙を撫でてから、楠を見た。
「これ、いくらだった」
「どうしてですか」
「襟巻きと、同じくらいでしょう」
楠は、答えなかった。
アガは、少し笑った。笑ったあとで、少しだけ、黙った。
二人は、同じ部屋には住まなかった。
アガは、北のほうの、ポーランドから来た人が多い通りに、部屋を借りていた。楠は、エンジェルの部屋のままだった。
水曜の夜に会って、食事をして、割り勘で払った。
週末には、アガの部屋に行くこともあった。
アガの机の上には、いつも、何かの紙が載っていた。古い手紙。破れた楽譜。表紙の取れた祈祷書。
楠は、アガが、ピンセットで紙の繊維を一本ずつ揃えるのを、黙って見ていた。
一本の繊維を揃えるのに、十分かかることもあった。
「急がないんですね」
「急いだら、戻せないことをしてしまう」
アガは、顔を上げずに言った。
二〇〇五年の七月、木曜の朝、フロアのテレビに、地下鉄の駅が映った。
最初は、電気の事故だと言っていた。
それから、バスの屋根が、吹き飛んでいる映像が出た。
楠は、アガの電話にかけた。
呼び出し音は、鳴らなかった。受話器の奥で、短い音が、同じ間隔で繰り返されるだけだった。
十年前の一月と、同じ音だった。
楠は、十分おきに、かけ直した。
同じ音だった。
アガが毎朝乗る路線が、どれだったか、楠は、正確には知らなかった。
知らなかったことに、そのとき、初めて気づいた。
午後の三時過ぎ、会社の電話が鳴った。
「生きてる」
アガの声だった。
「今日は、歩いて行ったの。天気がよかったから」
楠は、受話器を持ったまま、机に手をついた。
十年前と、同じ姿勢だった。
「どの線に、乗ってるんですか。毎朝」
アガは、少し黙った。
「今まで、聞かなかったのね」
「はい」
「聞いてくれて、よかった」
その夜、楠は、ノートに、アガの路線の名前を書いた。
駅の名前と、乗り換えの駅と、だいたいの時刻。
書いてから、それが、障害の記録の書き方と同じだと気づいた。
どの回線が、どこを通って、どこに着くか。
楠は、消さなかった。
二〇〇七年の夏、仕事の形が、また変わり始めた。
取引所は、一つではなくなった。
同じ株が、いくつもの場所の板に、同時に並ぶようになった。新しい取引の場が、次々にできていた。秋には、それを後押しする規則が、欧州全体で始まることになっていた。
板が、一つから、いくつにもなる。
注文を、どの板に、どの順番で出すか。どの板から、どの順番で引くか。
それを決めているのは、今は、客のアルゴだった。アルゴが一件ずつ判断して、一件ずつ送ってくる。ゲートウェイは、来た順に、並べて流すだけだった。
楠は、自分の画面を見ていた。
注文が、アルゴから届いて、ゲートウェイを通って、板に着くまで。そのあいだに、ほんのわずかな時間があった。
着く前なら、こっちの勝手。
十五年前に、すき焼き屋で、十四歳の少年に言った言葉だった。
楠は、ノートを開いた。
二〇〇七年八月 板の並べ方と引き方を、ゲートウェイに任せられないか
書いてから、しばらく見ていた。
誰にも見せなかった。
九月、ロンドンの北の小さな銀行の前に、人の列ができた。
テレビは、その列を、朝から晩まで映していた。
預金を引き出そうとする人たちだった。老人が多かった。折り畳みの椅子を持ってきている人もいた。
アガの部屋で、二人で、その映像を見た。
アガは、しばらく、何も言わなかった。
「子どものころ、見たわ」
「何をですか」
「列。肉屋の前に。朝の四時から、並んでた」
アガは、テレビを消さなかった。
「並んでいる人たちは、自分の番が来る前に、なくなると思ってる。だから並ぶ。並ぶから、なくなる」
楠は、画面の列を見ていた。
順番だった。
先に着いたほうが、先に受け取る。
「あなたの仕事みたいね」
アガが言った。
楠は、答えなかった。
二〇〇八年の春、アガの母が、クラクフで倒れた。
アガは、二週間、帰っていた。
戻ってきたアガは、少し痩せていた。
「姉が、ずっと看てる。私は、ここにいていいのか、分からない」
楠は、アガの部屋の、机の上の紙を見ていた。
古い手紙が、半分だけ、繊維を揃えられたまま、置いてあった。
六月、ナイジェルが、楠を、会社の近くのパブに呼んだ。
水曜だった。
ナイジェルは、自分のビールと、楠のビールを買ってきた。
楠が財布を出す前に、ナイジェルが言った。
「今日だけは、受け取れ」
楠は、ナイジェルを見た。
「辞める。年末で」
「そうですか」
「最後の一杯くらいは、俺に買わせろ」
楠は、しばらく、グラスを見ていた。
十年、この人のビールを、一度も受け取らなかった。
楠は、財布から硬貨を出して、ナイジェルのグラスの横に置いた。
ナイジェルは、硬貨を見て、声を出して笑った。
「最後まで、か」
「すみません」
「謝るな」
ナイジェルは、硬貨を、自分のポケットに入れた。
「それでいい。お前は、そういうやつだ」
二人は、グラスを持ち上げた。
飲んだビールは、いつもと同じ味がした。
「ニューヨークに、速さだけで食べている連中がいる」
ナイジェルは、グラスを置いた。
「会社の中の、小さなチームだ。自分の金で、自分で売り買いする。客はいない」
「プロップ」
「そうだ。そこが、人を探してる。取引所との繋ぎを、一番速く書ける人間を」
ナイジェルは、楠を見た。
「お前の、順番の話をしたら、会いたいと言ってきた」
楠は、答えなかった。
「九月からだ。考えておけ」
七月の終わりの夕方、楠とアガは、テムズの南岸を歩いた。
川の上を、風が渡っていた。夏なのに、少し冷たかった。
アガが、先に言った。
「クラクフに、帰ろうと思う」
「お母さんの」
「母の。それから、私の」
アガは、川を見ていた。
「あなたは、ニューヨークね」
楠は、まだ、誰にも言っていなかった。
「ナイジェルから、聞いたの。この前、美術館に来たのよ。あなたの話をしに」
楠は、黙っていた。
アガは、立ち止まった。
「一緒に来て、とは言わない。あなたが来ないのは、分かってるから」
「なぜですか」
アガは、楠を見た。
「あなたは、誰にも借りを作らない」
「……ええ」
「だから、誰もあなたを引き止められないのね」
テムズの上を、風が渡っていった。
「私も含めて」
楠は、何も答えられなかった。
借りを作らないことは、自分を守る線だった。
四年近く、その線の内側に、アガを入れたことは、一度もなかった。
入れなかったのは、アガではなかった。
自分だった。
アガの部屋に戻ると、アガは、机の上の古い手紙を、箱にしまい始めた。
楠は、鞄から、ノートを出した。
最後のページから、封筒を取り出した。
十八年前の四月から、一度も開けていない封筒だった。
「話したく、なった?」
アガが、手を止めた。
「全部は、話せません」
「全部じゃなくていい」
楠は、封筒を、机の上に置いた。
「昔、ある人から、もらいました。開けていません」
アガは、封筒の口を見た。
修復士の目だった。
「糊は、まだ生きてるわね。十年以上前のでしょう」
「十八年です」
アガは、しばらく、封筒を見ていた。
「開けたら、戻せない」
「はい」
「だから、開けないのね」
「たぶん」
アガは、封筒を、指先で、楠のほうへ押し戻した。
「修復士としては、正しいわ」
楠は、アガの顔を見た。
アガは、続きを言わなかった。
アガは、楠のノートを手に取った。
最初のページから、ゆっくりめくった。
日本語は読めないはずだった。それでも、字の並び方を、一枚ずつ見ていた。
「書いたものを、消さないのね」
「消すと、何が起きたか分からなくなる」
「私たちは、加えたものを、外せるようにしておく」
「似てますね」
四年前に、美術館の展示室で、同じことを言った気がした。
アガは、首を横に振った。
「似てない」
ノートを閉じて、楠に返した。
「あなたは、足すだけ」
アガは、八月の終わりに、クラクフへ帰った。
ヒースローまで、楠は送っていった。
出発ロビーで、アガは、楠の首に、灰色の毛糸の襟巻きを巻いた。
三年前に、アガがくれたものだった。楠は、その朝、部屋を出るときに、何も考えずに首に巻いてきた。
「夏よ」
「ヒースローは、寒いので」
アガは、笑った。
笑ったあとで、少しだけ、黙った。
出国の審査のほうへ歩いていくアガの背中は、振り返らなかった。
十二年前の成田で、航が、同じように歩いていったのを、楠は思い出した。
エンジェルの部屋で、楠は、段ボールを三つ詰めた。
十一年前に、東京から持ってきたのと、同じ数だった。
最後に、ノートを開いた。
二〇〇八年八月二十八日 アガ、クラクフへ
その下に、書いた。
あなたは、誰にも借りを作らない。だから、誰もあなたを引き止められない
アガの言葉だった。
少し考えて、もう一行、書き足した。
私も含めて
楠は、ノートを閉じた。
封筒を、ノートの最後のページに挟んだ。
香港の名刺と、アメリカの住所と、航の手紙の隣だった。
(第二部 了)




