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第一部 東京

一


一九九〇年の四月、大手町の外資系証券のフロアには、まだテレックスの音がしていた。


「機械の人ね」


総務の女性が、名札を渡しながら言った。


名札には、名前の下に、部署名が印字されていなかった。


「部署は、まだ決まってないそうです」


「決まってないんですか」


「来週、ロンドンから人が来るまで」


窓の外に、皇居の森が見えた。


桜は、もう散りかけていた。


フロアは、煙草の煙で薄く曇っていた。


机の上に、緑色の文字の端末が並んでいた。数字が、ときどき思い出したように書き換わった。


株価は、正月からずっと下がっていた。


誰もそれを口にしなかった。口にしないことで、下がっていないふりをしているように見えた。


株を売っているのは、人の声だった。


電話を三台抱えた営業が、叫びながらフロアを横切っていった。受話器の一つは、耳と肩のあいだに挟まっていた。


「売り、二十万。成り行き。いや、指値だ、指値」


男は、楠の机の前で立ち止まった。


「あんた、誰」


「今日からです。楠と言います」


「どこの」


「部署は、まだ」


男は、受話器を一つ置いた。


「ああ。機械の人か」


同じ言葉を、一日に二度聞いた。


「堂島だ」


男はそれだけ言うと、また叫びながら、窓のほうへ歩いていった。


楠の机は、フロアの一番奥、コピー機の隣にあった。


机の上には、何もなかった。電話もなかった。


引き出しを開けると、前にいた誰かの赤いボールペンが、一本転がっていた。


楠は、それを使わずに、引き出しを閉めた。


午後、システム部の課長が、分厚いファイルを三冊、机に置いていった。


「取引所の、接続の仕様書。読んどいて」


「全部ですか」


「来週までに。ロンドンの人が、どうせ聞くから」


課長は、それ以上説明しなかった。忙しそうだった。


楠は、ファイルを開いた。


電文の形式。項目の桁数。応答が返ってこなかったときの、再送の手順。


前の会社で四年間書いてきたものと、同じ種類の文書だった。回線の向こう側と、決まった手順で話をする。相手が黙ったら、何秒待って、何回呼び直すか。


違うのは、電文の中身が、株だということだけだった。


楠は、少しだけ安心した。


夕方、堂島がまた机の前に来た。


今度は、電話を持っていなかった。


「で、機械の人は、何をするの」


「注文を、回線で取引所に出す仕組みを作ります」


「今でも出てるよ。場立ちが、手で」


「全部の銘柄じゃありません。一部の銘柄は、もう機械で売買されています」


「知ってる。売れない株ばっかりだろ」


楠は、少し考えた。


「今は、そうです」


堂島は、楠の顔をしばらく見ていた。


「今は、ね」


それから、笑った。


「面白いな、あんた」


堂島の肩越しに、端末の数字が見えた。


その日の終わり、株価は、二千円近く下がっていた。


フロアの誰も、それを声に出さなかった。


中野の六畳一間のアパートに帰ったのは、九時過ぎだった。


段ボールが、まだ三つ、開けずに積んであった。


電話は、まだ引いていなかった。加入権の金が、次の給料まで払えなかった。


駅前の公衆電話から、神戸の実家にかけた。テレホンカードの度数が、一つずつ減っていった。


出たのは、母だった。


「どないやった」


「まだ、なんもしてへん」


「お父さん、代わるわ」


受話器の向こうで、テレビの音が小さくなった。


「……着いたんか」


「うん」


「株屋か」


一月に転職を知らせたときと、同じ言葉だった。


「株を売るんやない。売る仕組みを作るんや」


「同じこっちゃ」


父は、それ以上言わなかった。


度数が、残り三になった。


「ほな」


「ああ」


電話が切れた。


アパートまでの帰り道、楠は、子どものころの玄関を思い出していた。


夏と冬に、実家の玄関には箱が積まれた。


中元と歳暮だった。宛名は父だった。差出人は、港の荷主や、乙仲の会社だった。


箱は一晩だけ玄関にあって、翌日には消えた。


父が、全部送り返していた。


「もったいない」


中学生のころ、楠は一度だけ言った。


父は、靴を履きながら答えた。


「もろたら、開けられんようになる」


何を開けられなくなるのか、父は言わなかった。


楠も、聞かなかった。


段ボールの一つを開けると、一番上に、大学ノートが一冊入っていた。


前の会社で、障害が起きたときに、起きたことを書いておくためのノートだった。何時何分に、どの回線が、どう黙ったか。原因は、後で考える。


半分ほど、白いページが残っていた。


楠は、新しいページの一行目に、日付を書いた。


一九九〇年四月二日 株を売っているのは、人の声


書いてから、それが障害の記録ではないことに気づいた。


消そうとは、思わなかった。


一週間後、ロンドンから来るはずの人は、来なかった。


代わりに、テレックスが一枚届いた。着任は六月になる、とだけあった。


楠の机の上には、三冊のファイルと、自分のノートがあるだけだった。


金曜の夕方、堂島が机の横に立った。


「機械の先生」


呼び方が、一つ上がっていた。


「来週の木曜、空いてる?」


「空いてます。仕事がないので」


堂島は、声を出して笑った。


「飯、行こう。面白い人がいる」


「どういう人ですか」


「土地で、儲けた人」


堂島は、窓の外を顎で指した。皇居の森の向こうに、夕日が落ちかけていた。


「あの森の値段で、カリフォルニアが全部買えるって話、知ってる?」


「聞いたことはあります」


「その人は、それを本気にしてる」


堂島は、上着を肩にかけた。


「あんたの機械の話、たぶん気に入るよ」


楠は、その夜、ノートに二行目を書いた。


一九九〇年四月十三日 来週、土地で儲けた人に会う


書いてから、少し迷って、線を引いて消そうとして、やめた。


二


ホテルの地下へ降りるエスカレーターは、絨毯の匂いがした。


「緊張してる?」


堂島が聞いた。


「少し」


「しなくていいよ。あんたは、何も売らなくていいんだから」


「堂島さんは、何を売るんですか」


「ビル」


堂島は、ネクタイを締め直した。


「正確には、ビルを、紙にしたもの」


すき焼き屋の個室は、奥にあった。


襖を開けると、男が二人いた。


一人は床の間を背にして座っていた。五十代の終わりくらいに見えた。肩幅が広く、腕時計が、手首の太さに比べて小さく見えた。


もう一人は、下座の隅に、背筋を伸ばして座っていた。四十前後。黒っぽい背広で、ネクタイの色も暗かった。


「会長、こいつが、話した機械の先生です」


堂島が言った。


床の間の男が、楠を見た。


「先生か。若いな」


「楠と申します」


「どこの生まれや」


「神戸です」


男の顔が、少し緩んだ。


「わしは尼崎や。川一本や」


それが、鷲見会長だった。


隅の男は、名乗らなかった。会長も、紹介しなかった。


仲居が、鉄鍋に牛脂を引いた。


脂の溶ける音がして、割り下の甘い匂いが部屋に広がった。


肉は、薄く、赤と白が細かく混じっていた。楠が、これまで見たことのない種類の肉だった。


「食べ」


会長が言った。


楠は、溶き卵に肉をくぐらせた。


口に入れると、肉は、噛む前にほどけた。


「うまいか」


「はい」


「ほな、よかった」


会長は、自分の肉には、ほとんど箸をつけなかった。


話のほとんどは、会長と堂島のあいだで交わされた。


大阪のビルが三つ。東京のビルが二つ。それを一つにまとめて、紙にして、外国の投資家に売る。


会長は、紙という言葉が気に入らないようだった。


「紙いうたら、株や。株は、今、下がっとる」


「ええ」


「わしのは、土地や。土は減らへん」


「だから、紙にしても、値打ちは変わらないんです」


堂島は、何度も同じことを、少しずつ言葉を変えて説明した。


楠は、黙って聞いていた。


部屋の隅の男は、ずっと黙っていた。酒の徳利に、一度も手を伸ばさなかった。仲居が酒を勧めると、手のひらを小さく見せて断った。


襖の外で足音がするたびに、男の目だけが、そちらへ動いた。


鍋が、二度目の肉になったころ、会長が楠を見た。


「先生は、何しとるんや」


「注文を、回線で取引所に出す仕組みを作っています」


「回線」


「電話線みたいなものです」


「電話やったら、うちの営業もかけとる」


「人の代わりに、機械がかけます」


会長は、箸を置いた。


「機械で、株が売れるんか」


部屋が、少し静かになった。


堂島が、楠を見た。何を言ってもいい、という顔だった。


楠は、少し考えた。


「今は、売れない株だけです」


「売れん株を、機械が売るんか」


「人が売りたがらない株から、機械に回ってきます」


会長は、声を出して笑った。


「わしのビルと、同じやな」


それから、真顔になった。


「ほな、土地は、機械で売れるか」


「土地は、売れません」


「そやろ」


「でも、紙にすれば」


会長は、黙った。


堂島が、何か言いかけて、やめた。


「紙にすれば、いずれ、機械で売れると思います」


会長は、楠の顔をしばらく見ていた。


「紙にしたら、下がるかもしれんな。株みたいに」


「かもしれません」


楠は、正直に答えた。


隅の男が、初めて、楠のほうを見た。


手洗いに立つと、廊下の突き当たりに、隅の男がいた。


灰皿の前で、煙草を吸っていた。楠に気づくと、煙を横に逃がした。


「すいません」


「いえ」


楠は、手を洗って、廊下に戻った。


男はまだ、そこにいた。


「楠さんは、あまり飲まれないんですね」


「少しだけです」


「私は、飲まないことにしています」


「体ですか」


男は、少しだけ笑った。


「覚えておかないといけないことが、多いので」


それだけ言うと、男は煙草を消して、個室のほうへ戻っていった。


背中が、廊下の角で見えなくなるまで、足音はしなかった。


勘定は、会長が払った。


背広の内ポケットから封筒を出し、中から一万円札の束を取り出した。帯封がついていた。


仲居は、それを数えなかった。


エレベーターの前で、会長が楠を呼び止めた。


「先生、これ」


白い封筒だった。


「車代や」


「いえ、電車で帰りますので」


「ほな、電車代や」


楠は、堂島を見た。


堂島は、ほとんどわからないくらいに、顎を引いた。


楠は、封筒を受け取った。


薄かった。薄いのに、指に重さが残った。


「また来てや。機械の話、もっと聞きたい」


エレベーターの扉が閉まるまで、隅の男は、会長の半歩後ろに立っていた。


帰りのタクシーで、堂島は窓を少し開けた。


「会長、あんたのこと、気に入ったよ」


「そうですか」


「紙にしたら下がるかもしれない、なんて、誰も会長に言わない」


「言ったらいけなかったですか」


「いけなかったら、封筒はもらえてない」


堂島は、煙草に火をつけた。


「隅にいた人、誰ですか」


「奥寺さん」


堂島は、煙を窓の外に吐いた。


「昔、人を一人、逃がした。それで、何年か入ってた」


楠は、黙っていた。


「会長は、ああいう人を拾うんだよ。拾われた人は、会長のためなら、何でもする」


タクシーが、外堀通りを曲がった。


「あんたも、拾われたかもな」


堂島は、笑わずに言った。


中野のアパートで、楠は封筒を、机の引き出しに入れた。


開けなかった。


開けたら、中身の額が分かる。分かったら、それが自分の値段になる気がした。


引き出しを閉めてから、父の言葉を思い出した。


もろたら、開けられんようになる。


父が言っていたのは、荷物のことだった。


楠は、ノートを開いた。


一九九〇年四月十九日 土地も、紙にすれば


少し考えて、その下に書き足した。


奥寺さんは、飲まない。覚えておくことが多いから


封筒のことは、書かなかった。


三


ロンドンから来た男は、六月の終わりに着任した。


ナイジェルという名前だった。背が高く、髪が薄く、ネクタイを締めたことがないような首をしていた。


最初の日、ナイジェルは楠の机に来て、三冊のファイルを指で叩いた。


「読んだ?」


「読みました」


「再送の手順は?」


楠は、ファイルを開かずに答えた。応答が返らなかったとき、何秒待つか。何回呼び直すか。それでも黙っていたら、どの回線に切り替えるか。


ナイジェルは、途中から腕を組んで聞いていた。


「前の仕事は」


「電機メーカーで、通信制御を」


「株は」


「知りません」


「いい」


ナイジェルは、ファイルを一冊、自分の脇に抱えた。


「取引所は、誰が注文を出したかは気にしない。順番だけを気にする」


「順番」


「先に着いたほうが、先に並ぶ。それだけだ。だから、我々の仕事は、順番を間違えないことだ」


その日から、楠の机に電話が引かれた。


夏のあいだ、楠はほとんど毎晩、終電で帰った。


フロアに集まる注文を、一本の回線に並べる。並べる順番を、一件も間違えない。取引所が黙ったら、待つ。呼び直す。それでも黙ったら、記録する。


仕事は、楽しかった。


フロアの叫び声は、少しずつ小さくなっていった。叫ぶほどの注文が、来なくなっていた。


秋には、株価は、年の初めのほぼ半分になっていた。


十月の木曜、堂島が机の横に立った。


「今夜、銀座」


「会長ですか」


「会長と、お客さん」


「どういうお客さんですか」


堂島は、少しだけ間を置いた。


「会長が、頭を下げる人」


七丁目の、細いビルだった。


エレベーターは四人で満員になった。扉が開くと、すぐに店だった。


照明が低く、壁が暗い赤で、どこからかピアノの音がしていた。誰も弾いていなかった。


ママと呼ばれる女性が、堂島の腕に軽く触れた。


「堂島さん、久しぶり」


「会長は?」


「奥に。お客様と」


奥の席で、会長は、床の間の前にいたときとは違う座り方をしていた。


中央にいたのは、会長ではなかった。


五十前後の男だった。痩せていて、灰色の背広を着ていた。髪を丁寧に後ろへ撫でつけていた。


左手の小指に、緑の石の指輪があった。


会長は、その男のグラスが空くたびに、自分で酒を注いだ。


「こちら、香港からのお客さんや」


会長は、それだけ言った。


男は、楠に向かって、軽く頭を下げた。


「はじめまして」


日本語だった。少しだけ、言葉の角が丸かった。


名前は、誰も言わなかった。


奥寺は、席にいなかった。入口の近くの、壁際に立っていた。


楠の隣に、若い女性が座った。


「お名前は」


「楠です」


「何をなさってるの」


楠が答える前に、堂島が言った。


「機械の先生」


「先生なの」


「先生じゃありません」


女性は、笑って、楠のグラスに氷を足した。


「鹿児島から出てきたの。まだ三か月」


「僕は、半年です」


「じゃあ、先輩ね」


楠は、少しだけ笑った。


会長と香港の男は、ほとんど声を出さずに話していた。


堂島が、ときどき英語で割って入った。ビルの名前。利回り。紙にしたときの値段。


香港の男は、数字が出るたびに、小さく頷いた。表情は変わらなかった。


一度だけ、会長の声が大きくなった。


「銀行が、貸さへんのや。土地やったら、なんぼでも貸したのに」


誰も答えなかった。


その春から、銀行は土地に金を貸せなくなっていた。役所がそう決めた、と新聞に書いてあった。


香港の男は、会長のグラスに、初めて自分で酒を注いだ。


会長は、それを両手で受けた。


しばらくして、香港の男が、楠を見た。


「あなたは、機械の人」


英語だった。


「そうです」


「注文を出してから、取引所に着くまで、どのくらい」


楠は、少し驚いた。そんなことを聞いた人は、社内にもいなかった。


「今は、一秒くらいです」


「人が電話で出したら」


「分かりません。一分か、二分か」


男は、グラスの縁を、指輪をした指で、ゆっくりなぞった。


「一分、早く知っていたら、何ができる」


楠は、答えなかった。


答えを知らなかったのではなかった。答えを、声に出したくなかった。


男は、それ以上聞かなかった。


会長のほうへ向き直り、また、ほとんど声を出さずに話し始めた。


楠は、外の空気を吸いに、エレベーターで降りた。


ビルの前の通りは、狭かった。黒い車が、並んで停まっていた。運転手たちが、車の横で、煙草を吸っていた。


奥寺が、通りの端に立っていた。


楠に気づくと、小さく頭を下げた。


「酔われましたか」


「少し」


奥寺は、通りの先を見ていた。車が一台、角を曲がってくるのを待っているようだった。


「あの方は」


楠は、聞いた。


「会長の、お客様です」


それ以上の答えは、なかった。


しばらく、二人とも黙っていた。


どこかの店から、笑い声が漏れて、すぐに消えた。


「楠さんは、香港に行かれたことは」


「ありません」


「そうですか」


奥寺は、腕時計を見た。


「香港は、入るのは簡単です」


角を曲がった車が、ゆっくりこちらへ近づいてきた。


「出るのが、難しい」


車が、二人の前で停まった。


奥寺は、後部座席の扉を開けて、そのまま待った。誰も乗らない車の扉を、開けたまま待っていた。


楠は、何も聞かずに、エレベーターのほうへ戻った。


帰り際、ママが、堂島と楠をエレベーターまで送った。


勘定は、なかった。


誰も財布を出さなかった。紙も、金も、どこにも見えなかった。


すき焼き屋では、帯封のついた札束を見た。


銀座では、金は、見えなかった。


中野のアパートで、楠は、ノートを開いた。


一九九〇年十月十一日 香港の客。会長が、両手で酒を受けた


その下に、一行書いた。


一分早く知っていたら、何ができるか


それは、香港の男の問いだった。自分の答えは、書かなかった。


少し考えて、もう一行、書き足した。


奥寺さん。入るのは簡単、出るのが難しい


机の引き出しには、四月の封筒が、まだ開けずに入っていた。


四


一九九二年の夏、株価は、楠が入社した日の、三分の一近くまで下がっていた。


フロアから、電話を三台抱えて叫ぶ営業はいなくなっていた。


叫んでいた営業のうち、半分は辞めていた。残った半分は、電話を一台だけ持って、小さな声で話していた。


堂島は、残った半分だった。


「会長、覚えてる?」


八月の終わり、堂島が楠の机に来た。


「覚えてます」


「久しぶりに、すき焼き。あんたも来いって」


「僕に、何か」


「さあ」


堂島は、少し痩せていた。


「ビルの話は、どうなりました」


「三つは紙になった。二つは、ならなかった」


「ならなかった二つは」


堂島は、答えずに笑った。


同じホテルの、同じすき焼き屋だった。


同じ個室の、同じ床の間の前に、会長は座っていた。


腕時計は、同じだった。手首が、少し細くなったように見えた。


奥寺は、同じ下座の隅にいた。


違うのは、会長の隣に、少年がいることだった。


「息子や。航」


会長が言った。


「夏休みで、尼崎から出てきとる」


少年は、座ったまま、小さく頭を下げた。


中学生くらいに見えた。白い開襟シャツを着て、膝の上に、灰色の小さな機械を載せていた。


「航、こちら、機械の先生や」


少年が、顔を上げた。


「先生じゃないです」


楠が言うと、少年は、少しだけ目を細めた。


鍋が煮え始めると、大人たちは、また紙の話を始めた。


二つのビル。ならなかった紙。銀行の名前。香港の、という言葉が、一度だけ出て、すぐに消えた。


少年は、肉を三切れ食べると、箸を置いた。


膝の上の機械の蓋を開けた。


細長い液晶に、小さな文字が並んでいた。キーボードは、指先ほどの大きさだった。


ポケットコンピューターだった。


少年は、大人たちの話を一度も聞かずに、キーを叩き続けた。


会長が、手洗いに立った。


堂島が、それについて廊下へ出た。


個室には、楠と、少年と、奥寺が残った。


奥寺は、隅で、姿勢を崩さずに座っていた。


少年が、顔を上げずに言った。


「コンピューターで、何をしてるんですか」


楠は、少し驚いた。


大人は、誰もそれを聞かなかった。聞いたのは、会長と、銀座の香港の男だけだった。


「注文を、並べてる」


「並べる」


「たくさんの注文を、一本の線に並べて、取引所に送る」


「順番に」


「順番に」


少年は、キーを叩く手を止めた。


「どういう順番ですか」


「来た順」


「それだけですか」


「取引所は、先に着いたほうを、先に並べる。それだけ」


少年は、しばらく液晶を見ていた。


「じゃあ、速いほうが、勝つんですね」


「勝つかどうかは、分からない。先に並ぶだけ」


「順番は、あとから入れ替えられないんですか」


「取引所の中では、入れ替えられない」


少年は、顔を上げた。


「着く前なら?」


楠は、答えるまでに、少し時間がかかった。


「着く前なら、こっちの勝手」


少年は、ほんの少しだけ笑った。


「それ、何を作ってるの」


楠は、少年の膝の機械を指した。


「並べ替えです」


少年は、液晶を楠のほうへ傾けた。


数字が、十個、並んでいた。キーを押すと、数字が一つずつ入れ替わって、小さい順になっていった。


遅かった。


隣どうしを比べて、入れ替えて、また最初から比べる。十個の数字が並び終わるまで、液晶の上で、数字が何度も行ったり来たりした。


「百個だと、どのくらいかかる」


「三分くらい」


「千個だと」


少年は、黙った。


楠は、少年から、機械を受け取った。


指先ほどのキーで、十行ほど書き足した。途中で、二度、消して書き直した。


真ん中の数を一つ選んで、それより小さいものを左に、大きいものを右に分ける。分けたそれぞれを、また同じように分ける。


少年は、楠の指を、じっと見ていた。


楠が、機械を返した。


少年がキーを押した。


十個の数字が、瞬きするあいだに、並んだ。


少年は、しばらく、何も言わなかった。


「……もう一回、見せてください」


会長と堂島が戻ってきたとき、少年は、楠の隣に移っていた。


会長は、それを見て、少しだけ眉を上げた。


「なんや、懐いとるやないか」


少年は、答えなかった。液晶を見ていた。


会長は、座りながら言った。


「こいつは、いずれアメリカにやる」


誰に言ったのでもなかった。


「日本の土地は、もうあかん」


堂島が、何か言いかけて、やめた。


機械の電池が切れたのは、デザートの果物が出たころだった。


液晶が、ゆっくり薄くなって、消えた。


少年は、小さく息を吐いた。


奥寺が、隅から立ち上がった。


背広の内ポケットから、ボタンのような電池を二つ出して、少年の前に置いた。


少年は、何も言わずに電池を替えた。


奥寺は、何も言わずに隅へ戻った。


楠は、奥寺の内ポケットのことを考えた。


背広の内側に、少年の機械の電池を、いつも入れている男だった。


勘定は、今度も会長が払った。


帯封はなかった。札は、財布から出てきた。


エレベーターの前で、会長は、封筒を出さなかった。


代わりに、楠の肩を、軽く叩いた。


「先生。こいつに、たまに、機械のこと教えたってくれ」


楠は、少年を見た。


少年は、ポケットコンピューターを、胸に抱えていた。


「はい」


楠は答えた。


封筒より、重いものを受け取ったような気がした。


中野のアパートは、まだ同じだった。


電話は、一年前にようやく引いた。


楠は、ノートを開いた。


一九九二年八月二十七日 航くん。十四歳。並べ替え


その下に、書いた。


着く前なら、こっちの勝手


自分が言った言葉だった。書いてから、しばらく見ていた。


少し考えて、もう一行、書き足した。


奥寺さんは、内ポケットに電池を持っていた


机の引き出しには、二年前の封筒が、開けずに入っていた。


五


一九九五年一月十七日の朝、楠は、中野のアパートでテレビをつけた。


画面の上のほうに、白い煙が何本も立っていた。


どこの街か、しばらく分からなかった。


高速道路が、横倒しになっていた。


字幕に、神戸と出た。


実家に電話をかけた。


呼び出し音は、鳴らなかった。受話器の奥で、短い音が、同じ間隔で繰り返されるだけだった。


十分おきに、かけ直した。


同じ音だった。


楠は、その音を知っていた。回線の向こう側が黙ったときの音だった。何秒待つか。何回呼び直すか。それでも黙っていたら、どうするか。


仕事では、手順が決まっていた。


会社には、行った。


フロアのテレビは、朝からずっと、同じ映像を流していた。


ナイジェルが、楠の机に来た。


「家族は」


「分かりません。電話が通じない」


ナイジェルは、しばらく黙っていた。


「行け」


「今日の、夜間の切り替えが」


「俺がやる。手順は、君が書いた」


夕方、大阪の姉から、会社に電話が入った。


「生きてる。二人とも」


姉の声は、かすれていた。


「どこに」


「学校の体育館。お父さんが、公衆電話から、うちにかけてきた。十円玉、並んで」


楠は、受話器を持ったまま、机に手をついた。


「家は」


「半分、潰れた」


二日後、楠は、新幹線で大阪まで行った。


そこから先は、電車が動いているところまで乗って、あとは国道を歩いた。


同じ方向へ歩く人が、たくさんいた。水の入ったポリタンクや、毛布や、紙おむつを抱えていた。誰も、ほとんど話さなかった。


反対側から歩いてくる人もいた。そちらの人たちは、何も持っていなかった。


空気が、焦げた匂いと、埃の匂いがした。


東京にいたら、一生嗅がなかった匂いだった。


小学校の体育館は、人と毛布で、床が見えなかった。


母が、先に楠を見つけた。


手を振ろうとして、途中でやめて、口を押さえた。


父は、いなかった。


「港や」


母が言った。


「毎朝、港まで歩いていくんや。止めても、聞かへん」


港は、楠の知っている形をしていなかった。


岸壁が、海のほうへ傾いていた。コンクリートの割れ目から、灰色の水が滲んでいた。


クレーンが一基、首を折ったように、斜めに止まっていた。


父は、岸壁の手前の、瓦礫の上に立っていた。


定年で税関を辞めて、二年が経っていた。背中が、楠の覚えているより、小さかった。


楠は、隣に立った。


父は、振り向かなかった。


「来たんか」


「うん」


しばらく、二人で海を見ていた。


船は、一隻もいなかった。


「検めるもんが、なんもない」


父が言った。


楠は、何と答えればいいか分からなかった。


父が検めていたのは、港に入ってくる荷物だった。荷物がなければ、検めるものはない。


それだけの意味だと、楠は思った。


父の声は、それだけの意味には、聞こえなかった。


東京に戻ったのは、一週間後だった。


体育館を出るとき、父は、楠に言った。


「仕事、戻り」


「もう少しおる」


「おっても、なんもできへん」


父は、毛布の端を、きちんと四角に畳み直していた。


「できんことを、できるふりすんのが、一番あかん」


二月の終わりの月曜、フロアのテレビに、見たことのない建物が映っていた。


ロンドンの、古い銀行だった。


二百年以上続いた銀行が、週末のうちに潰れていた。


シンガポールにいた、一人のトレーダーが、日本の株価の先物を、ひとりで買い続けていた。震災のあと、株価が下がった。損は、誰にも言わずに、隠された口座に積み上がっていた。


フロアの誰もが、同じ映像を見ていた。


ナイジェルだけが、テレビを見ていなかった。


自分の机で、画面の数字を、指でなぞっていた。


「知ってる銀行ですか」


楠が聞いた。


「最初の仕事は、あそこだった」


ナイジェルは、指を止めた。


「一人で、潰せるんですか」


「一人では、潰せない」


ナイジェルは、椅子の背にもたれた。


「一人が、やった。誰も、見ていなかった。二つ揃うと、潰れる」


楠は、自分の机に戻った。


画面には、回線の上を流れていく注文の記録が並んでいた。


全部、楠の仕組みを通っていた。


誰が、これを見ているのだろう、と楠は思った。


四月、芹沢が辞めると聞いた。


芹沢は、外資の営業の中で、名前の知れた人だった。よその証券会社のディーラーも、芹沢の名前は知っていた。


叫ばない営業だった。電話は一台しか持たなかった。ガラス張りの小さな部屋で、低い声で話し、それでいて、会社で一番大きな注文を取ってきた。


楠は、芹沢と話したことが、ほとんどなかった。


「独立するんだって。香港で」


喫煙室で、堂島が言った。


「香港で、何を」


「金を、預かる仕事」


堂島は、煙を天井に吐いた。


「会長の金も、何割か、預けるらしい」


楠は、黙っていた。


「俺も、誘われた」


「行くんですか」


堂島は、しばらく答えなかった。


「俺は、飛び込むほうだからね」


それから、灰皿で煙草を消した。


「でも、今回は、なんか、やめとく」


芹沢が会社を去る日、楠の机に、芹沢が来た。


楠は、立ち上がった。


「機械の人だね」


芹沢の声は、電話で聞くのと同じくらい、低かった。


「楠です」


「会長から、聞いてる。航くんに、並べ替えを教えたって」


楠は、少し驚いた。


「香港でも、いずれ機械が要る」


芹沢は、楠の机の上の端末を見ていた。


「来るか」


フロアの向こうで、誰かの電話が鳴って、すぐに止まった。


楠は、奥寺の声を思い出した。


入るのは、簡単です。


「行きません」


芹沢は、少しだけ笑った。


気を悪くした様子はなかった。断られることにも、慣れている人の笑い方だった。


「そうか。気が変わったら」


芹沢は、名刺を一枚、楠の机に置いた。


香港の住所が、英語で印刷されていた。


その夜、楠は、ノートを開いた。


一月からのページを、読み返した。


一九九五年一月十七日 神戸


その日は、それしか書いていなかった。


一月二十一日 父。検めるもんが、なんもない


父。できんことを、できるふりすんのが、一番あかん


二月二十七日 一人がやった。誰も見ていなかった


楠は、新しい行に書いた。


四月二十八日 芹沢さん。香港。行かないと言った


名刺は、机の引き出しに入れた。


五年前の封筒の、隣だった。


六


十二月の月曜、喫煙室には、堂島しかいなかった。


楠は、煙草を吸わなかった。喫煙室に入るのは、堂島に話があるときだけだった。


その日は、話があるのは、堂島のほうだった。


「芹沢さん、死んだって」


楠は、扉を閉めた。


「いつですか」


「先週。香港のホテルで」


堂島は、煙草に火をつけようとして、ライターを二度、空振りさせた。


「失血死だって」


「事故ですか」


堂島は、三度目で火をつけた。


煙を吸って、長いあいだ、吐かなかった。


「ベッドに、血の跡がなかったらしい」


換気扇が、低い音で回っていた。


楠は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


理解してから、理解しなかったことにしたくなった。


「誰から、聞いたんですか」


「会長のほうから」


「新聞には」


「出てない」


堂島は、灰皿に灰を落とした。


「出ないよ、たぶん」


しばらく、二人とも黙っていた。


廊下の向こうで、誰かが笑った。年末の、どこかの忘年会の話をしていた。


「俺、誘われてたんだよな」


堂島が言った。


「断ったじゃないですか」


「なんで断ったのか、自分でも分からない」


堂島は、煙草を半分も吸わずに消した。


「飛び込むほうなのにね」


その夜、楠は、机の引き出しを開けた。


名刺と、封筒が並んでいた。


名刺には、香港の住所が英語で印刷されていた。ビルの名前と、階の数字。


楠は、名刺を手に取って、しばらく見ていた。


捨てようかと思った。


捨てなかった。住所は、起きたことの一部だった。


名刺を、ノートの最後のページに挟んだ。


それから、封筒を取り出した。


五年前の四月から、一度も開けていなかった。


角が、少し丸くなっていた。


奥寺に電話をかけたのは、翌日だった。


会長の事務所の番号は、堂島から聞いた。電話に出た女性は、楠の名前を聞くと、少し待たされたあと、別の番号を読み上げた。


その番号にかけると、二回目の呼び出しで、奥寺が出た。


「楠です」


「はい」


奥寺は、驚いた様子もなかった。


「お返ししたいものが、あります」


少しの間があった。


「明日の夕方、東京におります。いつものホテルの、ロビーで」


ホテルのロビーは、クリスマスの飾りで、どこも金色だった。


奥寺は、窓際の、柱の陰になる席にいた。


楠が座ると、奥寺は、ウェイターに目で合図をした。


「コーヒーで、よろしいですか」


「はい」


楠は、鞄から封筒を出して、テーブルの上に置いた。


奥寺は、手を出さなかった。


封筒の口を見ていた。


糊は、五年前のまま、一度も剥がされていなかった。


「開けておられないんですね」


「はい」


「なぜ、と伺っても」


楠は、少し考えた。


「開けたら、額が分かるので」


奥寺は、黙っていた。


「分かったら、それが、僕の値段になる気がしました」


奥寺は、封筒から目を上げて、楠を見た。


長い時間ではなかった。


それから、封筒を、テーブルの上で、指先で楠のほうへ押し戻した。


「お返しにならないほうが、いいと思います」


「受け取っていただけませんか」


「私が受け取れば、これは会長に戻ります」


奥寺の声は、低く、平らだった。


「今、これが会長に戻れば、会長は、楠さんが離れていったと思われます」


楠は、黙っていた。


「会長は今、離れていく人を、たくさん見ておられます」


窓の外で、車のライトが、日比谷の方角へ、途切れずに流れていた。


楠は、封筒を見た。


自分が何をしに来たのか、そのとき初めて分かった。


返しに来たのではなかった。切りに来たのだった。


芹沢の話を聞いた夜から、ずっと、怖かった。怖かったから、会長との間にあるものを、全部、手放したかった。


それを、礼儀の形にして、持ってきただけだった。


「……すみません」


「謝られることではありません」


奥寺は、窓の外を見た。


「怖いと思われるのは、正しいことです」


楠は、封筒を、鞄に戻した。


鞄の中で、封筒は、来たときより重く感じられた。


コーヒーが来た。


二人とも、しばらく手をつけなかった。


「芹沢さんのことを、聞きました」


楠が言った。


奥寺は、答えなかった。カップの中の黒い表面を見ていた。


「会長は」


「香港です」


奥寺は、カップを見たまま言った。


「先週から」


楠は、それ以上、聞かなかった。


聞いたら、答えが返ってくる気がした。返ってきた答えは、もう返せない。


「航さんは」


しばらくして、楠が聞いた。


「来年の夏、アメリカに行かれます」


「そうですか」


「楠さんに教わった並べ替えを、まだ、機械に入れたまま持っておられます」


奥寺は、初めて、少しだけ笑った。


「電池を、ずいぶん替えました」


勘定書が来た。


奥寺が、手を伸ばした。


楠は、先に、伝票を自分のほうへ引いた。


「自分の分は、自分で払います」


奥寺の手が、テーブルの上で止まった。


「ここは、会長のホテルです」


「だから、です」


奥寺は、手を引いた。


受け取ってしまったものは、返せない。


これから先は、受け取らない。


楠は、財布から、自分のコーヒーの分だけを出して、伝票の上に置いた。


奥寺の分は、置かなかった。


奥寺も、何も言わなかった。


自分の財布から、自分の分を出して、楠の札の隣に置いた。


二人分の札が、伝票の上に並んだ。


「それが、いいと思います」


奥寺が言った。


誰に言ったのか、楠には分からなかった。


ロビーの出口まで、奥寺は、楠を送ってきた。


回転扉の手前で、奥寺は立ち止まった。


「楠さんは、入られなかった」


楠は、振り返った。


奥寺は、もう、ロビーの奥へ歩き出していた。


背中が、金色の飾りの向こうで見えなくなるまで、足音はしなかった。


中野のアパートで、楠は、ノートを開いた。


新しいページの一行目に、書いた。


一九九五年 香港 失血 シーツは白かった


堂島は、シーツとは言わなかった。ベッドに血の跡がなかった、と言った。


楠は、自分の書いた言葉を、しばらく見ていた。


白いシーツを、見たわけではなかった。


それでも、消さなかった。


その下に、もう一行、書き足した。


十二月十三日 封筒を、返せなかった。自分の分を、自分で払った


封筒は、また、机の引き出しに戻った。


名刺のなくなった引き出しの中で、封筒は、一つだけになった。


ノートの最後のページに、香港の住所が挟まっていた。


七


一九九六年の春、テレビは、毎晩、住宅金融の会社の話をしていた。


土地に金を貸していた会社が、いくつも潰れかけていた。穴を埋めるのに、税金を使うかどうかで、国会が揉めていた。


フロアのテレビの前で、堂島が言った。


「会長の借りてたとこも、あの中に入ってる」


楠は、画面を見ていた。


国会の前で、誰かが、プラカードを掲げていた。


会長には、あの夏から、一度も会っていなかった。


すき焼きの誘いは、来なくなった。


堂島も、会長の話をしなくなった。


楠の机の引き出しには、封筒が、一つだけ入っていた。


八月の初めに、奥寺から電話があった。


「航さんが、明後日、発たれます」


「そうですか」


「楠さんに、お会いしたいと」


少しの間があった。


「成田まで、来ていただけますか」


楠は、手帳を見なかった。


「行きます」


出発ロビーは、夏休みの家族連れで混んでいた。


大きなスーツケースが、あちこちで、床の上を滑っていた。


航は、柱の前に立っていた。


背が、楠と同じくらいになっていた。紺のポロシャツを着て、肩から、黒い鞄を一つだけ提げていた。


隣に、奥寺がいた。


会長は、いなかった。


「来られません」


楠が何か聞く前に、奥寺が言った。


航は、それについて、何も言わなかった。


「久しぶり」


楠が言った。


「四年ぶりです」


航の声は、低くなっていた。


「何を、やるの」


「物理です。最初は」


「最初は」


「そのあとは、まだ、分かりません」


航は、肩の鞄を、少し持ち上げた。


「これ、まだ持ってます」


鞄の口から、灰色のポケットコンピューターの角が見えた。


「電池、替えた?」


「奥寺さんが」


航は、奥寺を見た。


奥寺は、目だけで、少し笑った。


搭乗の案内が、英語と日本語で、交互に流れた。


航は、しばらく、案内板の文字を見ていた。


「楠さん」


「うん」


「芹沢さん、死んだんですよね」


楠は、奥寺を見なかった。


「そう聞いた」


「香港で」


「そう聞いた」


航は、案内板を見たままだった。


「父は、何も言わないんです」


楠は、答えなかった。


「聞いても、何も」


楠は、少し考えた。


何を知っていて、何を知らないのか。自分が知っているのは、喫煙室で聞いた一言と、自分がノートに書いた一行だけだった。


そのどちらも、十八歳の少年に渡していいものではなかった。


「僕も、それ以上は知らない」


それは、本当のことだった。


航は、ようやく、楠のほうを見た。


「そうですか」


それだけだった。


航は、鞄から、小さく折った紙を出した。


「向こうの住所です。寮の」


楠は、受け取った。


英語の住所が、鉛筆で、丁寧に書かれていた。


「手紙、書きます」


「うん」


「並べ替えより、速い方法があったら、教えてください」


楠は、少し笑った。


「たぶん、向こうのほうが詳しい人がいる」


「楠さんに、聞きたいんです」


航は、それだけ言うと、奥寺に頭を下げた。


深い礼だった。


奥寺は、同じ深さで、頭を下げ返した。


航は、振り返らずに、出国の審査のほうへ歩いていった。


黒い鞄が、人の肩のあいだに、見えなくなった。


奥寺と二人で、しばらく、その方向を見ていた。


「会長は」


楠は、聞いた。


「大阪に、おられます」


奥寺は、それ以上、言わなかった。


「奥寺さんは、これから」


「会長のところに、戻ります」


奥寺は、腕時計を見た。


「まだ、覚えておかないといけないことが、ありますので」


帰りの電車の時刻表を見に行こうとして、奥寺が、振り返った。


「楠さんも、いずれ、行かれるんでしょう」


「どこへですか」


「どこか、遠くへ」


楠は、答えなかった。


奥寺は、少しだけ頭を下げた。


「向こうでも、ご自分の分は、ご自分で」


中野のアパートで、楠は、ノートを開いた。


一九九六年八月六日 航くん。十八歳。アメリカ。会長は来なかった


芹沢さんのこと。それ以上は知らない、と言った。本当のことだった


楠は、最後の一行を、しばらく見ていた。


本当のことだった、と書いたのは、自分に言い聞かせるためだった気がした。


消さなかった。


折られた紙を、ノートの最後のページに挟んだ。


香港の住所の、隣だった。


一九九七年十一月、フロアのテレビに、日本の大手証券の社長が映っていた。


記者会見の席で、社長は泣いていた。泣きながら、頭を下げていた。


百年続いた会社だった。帳簿の外に、損が隠されていた。


フロアの誰も、声を出さなかった。


堂島が、楠の隣に来た。


「ロンドン、行くんだって」


「来月です」


ナイジェルがロンドンに戻ったのは、その年の春だった。夏の終わりに、一枚のファックスが届いていた。来い、とだけ書いてあった。


堂島は、テレビを見たまま言った。


「向こうでも、飛び込むなよ」


「飛び込むのは、堂島さんのほうでしょう」


「だから、言ってる」


堂島は、笑わなかった。


十二月、楠は、段ボールを三つ詰めた。


七年前に、神戸から持ってきたのと、同じ数だった。


最後に、机の引き出しを開けた。


封筒が、一つだけ入っていた。


角が、七年分、丸くなっていた。


楠は、封筒を、ノートと一緒に、手荷物の鞄に入れた。


ノートの最後のページには、二つの住所が挟まっていた。


香港と、アメリカ。


どちらにも、まだ、一度も手紙を書いていなかった。


(第一部 了)

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