第五部 キプロス
一
ラルナカの空港を出ると、空気が、白く乾いていた。
七月の午後の光が、駐車場のアスファルトに、真上から落ちていた。
タクシーの運転手は、年をとった男だった。窓を全部開けて、海沿いの道を、西へ走った。
「日本から?」
「東京から」
「観光?」
楠は、少し考えた。
「知り合いに、会いに」
運転手は、バックミラー越しに楠を見た。
「今年は、観光の人が少ない。銀行のことで」
「聞いています」
運転手は、窓の外に、片手を出した。乾いた風が、指の間を抜けていった。
「私の金も、半分、なくなった。三十年、船で働いた金」
楠は、何も言わなかった。
「でも、海は、なくならない」
運転手は、少し笑った。
「だから、みんな、まだここにいる」
リマソールの町に入ると、海沿いの道に、背の高い、新しいガラスのビルがいくつも並んでいた。
半分は、窓に明かりがなかった。
建てている途中で止まったらしい骨組みが、クレーンを載せたまま、夕方の空に立っていた。
銀行の支店の前を通った。
扉のガラスに、紙が一枚、貼ってあった。ATMの前に、四、五人が並んでいた。
一人ずつ、機械の前に立って、決められた額だけを、引き出していた。
列は、三月の映像より、ずっと短かった。
それでも、まだ、列だった。
ホテルは、港に近い、古い三階建てだった。
部屋の窓から、突堤の先の、白い灯台が見えた。
楠は、鞄を開けた。
ノートと、四十頁の記録の写しと、背広が一着。
ノートの最後のページに、封筒が挟まっていた。
楠は、それを確かめてから、鞄を閉じた。
日本を発つ前の夜、楠は、航にメールを書いていた。
来週の月曜から、島に行きます。 寄るだけです。時間があれば。 楠
返事は、一時間後に来ていた。
火曜の昼、店に来てください。エレニが、料理をすると言っています。 月曜の夜は、堂島さんが、会いたいと。港の、一番端のカフェです。 航
楠は、その短い文を、何度も読んでいた。
来る理由を、航は、一行も聞いていなかった。
港の一番端のカフェは、突堤の付け根にあった。
白い椅子と、青いテーブルが、石畳の上に並んでいた。
堂島は、一番海に近いテーブルにいた。
楠は、少しのあいだ、それが堂島だと分からなかった。
痩せていた。
日に焼けた肌が、骨の形に沿って、たるんでいた。白い麻のシャツの袖から出た手首が、細かった。
堂島が、顔を上げた。
「変わらないね、あんた」
三年前と、同じ言葉だった。
「堂島さんは」
「変わったよ」
堂島は、自分から言って、笑った。
給仕が来た。
堂島は、自分のために、小さなコーヒーを頼んだ。
楠も、同じものを頼んだ。
「あんたの分は、あんたが払うんだろ」
「はい」
「知ってる」
堂島は、海のほうを見た。
夕方の光が、水面に、細かく砕けていた。
「銀行、見たか」
「見ました」
「俺の金も、あの中だった」
堂島は、コーヒーの小さな茶碗を、指でゆっくり回した。
「飛び込んだら、底がなかった」
楠は、黙っていた。
「まあ、いい。俺は、そういうほうだから」
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
突堤の上を、若い男女が、手をつないで、灯台のほうへ歩いていった。
「坊ちゃんに、会いに来たんだろ」
堂島が言った。
「寄っただけです」
「寄るには、遠いよ。東京から」
堂島は、楠を見た。
笑っていなかった。
「坊ちゃんは、いい子だよ」
「はい」
「いい子すぎる。親父の借りを、ずっと、自分のものだと思ってる」
楠は、堂島の顔を見た。
「借り」
堂島は、答えなかった。
茶碗の底の、黒い粉を見ていた。
「この島の金は、みんな、どこかから来てる」
堂島は、茶碗を置いた。
「どこから来たか、聞かないのが、島の礼儀だ。俺も、聞かなかった」
「堂島さんが、紹介したんですか。航くんに、仕事を」
堂島は、長いあいだ、黙っていた。
「俺は、坊ちゃんを、ある人に会わせただけだ」
「誰に」
「香港から、ときどき来る人」
楠は、何も言わなかった。
「会長にも、昔、世話になってた人だよ」
堂島は、海のほうに顔を向けた。
「俺は、飛び込むほうだから。人を、飛び込ませるのも、下手じゃない」
日が、海に沈んでいった。
カフェの軒の、裸電球に、灯が入った。
堂島が、急に、明るい声を出した。
「そうだ。奥寺さん」
楠は、顔を上げた。
「見たって人が、いるんだ。何年か前に。香港で」
「香港で」
「ホテルのロビーで。誰かの、半歩後ろに立ってたって」
堂島は、コーヒーの残りを、飲み干した。
「誰の後ろかは、言ってなかった」
楠は、奥寺の背中を思い出した。
廊下の角で見えなくなるまで、足音がしなかった背中。
会長の半歩後ろに、エレベーターの扉が閉まるまで、立っていた背中。
「本当に、奥寺さんだったんですか」
「さあ」
堂島は、肩をすくめた。
「覚えておかないといけないことが、多い人だったからな。今も、何か、覚えてるんだろう」
勘定は、それぞれが払った。
小さなコーヒーが二つ。硬貨が、青いテーブルの上に、二つの山になった。
カフェを出るとき、堂島が、振り返った。
「あんた、明日、坊ちゃんの店に行くんだろ」
「はい」
「エレニちゃんの料理は、うまいよ」
堂島は、少し笑った。
「たまには、黙って、食べてきな」
ホテルの部屋で、楠は、ノートを開いた。
二〇一三年七月十五日 リマソール。堂島さん。飛び込んだら、底がなかった
この島の金は、みんな、どこかから来てる。聞かないのが、島の礼儀
香港から、ときどき来る人。会長も、世話になっていた
楠は、少し考えて、書き足した。
奥寺さん。香港のロビーで。誰かの、半歩後ろに
窓の外で、突堤の先の灯台が、一定の間隔で、光を海に投げていた。
楠は、その間隔を、数えなかった。
二
エレニの父の店は、港から一本入った、細い通りの角にあった。
白く塗った壁に、青い木の扉。軒の下に、小さなテーブルが三つ。
ガラスの棚の中に、蜂蜜と胡麻の菓子が、きれいに並んでいた。
三年前の、クイーンズの角のパン屋と、同じ匂いがした。
扉を押すと、鈴が鳴った。
奥から、エレニが出てきた。
腹が、大きくなっていた。白い、ゆったりした服を着ていた。
エレニは、楠を見て、立ち止まった。
それから、笑った。目尻に、細い皺が寄った。
「あなたは、また来たのね」
「寄っただけです」
エレニは、声を出して笑った。
「東京から、寄ったの」
店のカウンターの奥に、年をとった男が座っていた。
白い髪を短く刈り、太い腕に、黒い毛が生えていた。前掛けをしたまま、小さな銅の鍋で、コーヒーを煮ていた。
「父です。アンドレアス」
男は、立ち上がって、楠の手を握った。
大きな、乾いた手だった。
男は、何か、ギリシャ語で言った。
「ようこそ、って」
エレニが言った。
「それから、日本の人は、初めてだって」
男は、楠の手を離さずに、もう一度、何か言った。
エレニは、少し困ったように笑った。
「銀行の話は、しないでくれって。お客さんの前で、泣くと、恥ずかしいからって」
料理は、店の二階の、エレニと航の部屋で出た。
窓を開けると、細い通りの向こうに、港の青が、少しだけ見えた。
航は、台所で、皿を運んでいた。
楠を見て、小さく頭を下げた。
何も聞かなかった。
テーブルの上に、三年前と同じ料理が並んだ。
焼いた白いチーズ。葡萄の葉で巻いた米。檸檬と香草の匂い。
それに、大きな皿に、羊の肉を、骨ごと、長い時間かけて焼いたもの。
「島の、お祝いの料理」
エレニが言った。
「何のお祝いですか」
「あなたが、来たこと」
エレニは、楠の皿に、肉を載せた。
「それから、この子」
エレニは、自分の腹に、手を置いた。
「十月です」
楠は、航を見た。
航は、窓の外を見ていた。
「……おめでとうございます」
「ありがとう」
アンドレアスは、食事のあいだ、ほとんど話さなかった。
ときどき、楠の皿に、黙って、パンを置いた。
楠がそれを食べると、また、黙って、置いた。
食事が終わると、アンドレアスが、下の店から、小さな銅の鍋を持って上がってきた。
小さな茶碗に、濃いコーヒーを注いだ。
泡が、茶碗の縁に、細かく立っていた。
楠は、それを飲んだ。
苦くて、甘かった。底に、細かい粉が沈んでいた。
楠は、茶碗を置いて、背広の内ポケットから、財布を出した。
エレニが、手を伸ばした。
楠の手の上に、自分の手を、軽く置いた。
「お客さんからは、取らないの」
楠は、エレニを見た。
エレニは、笑っていなかった。
「ここは、店だけど、今日は、店じゃないの」
アンドレアスが、何か、ギリシャ語で言った。
エレニは、父のほうを見ずに、訳した。
「島では、客が払おうとすると、家の者が恥をかく、って」
楠は、財布を持ったまま、しばらく動かなかった。
十八年前の十二月、ホテルのロビーで、伝票を自分のほうへ引いた。
それから、一度も、誰にも、奢られなかった。
ナイジェルの最後のビールにも、硬貨を置いた。
誰にも借りを作らない。
だから、誰もあなたを引き止められない。
テムズの上を渡っていった風と、アガの声を、楠は思い出した。
私も含めて。
楠は、財布を、内ポケットに戻した。
「……ご馳走になります」
エレニは、手を離した。
アンドレアスが、何も言わずに、楠の茶碗に、もう一杯、コーヒーを注いだ。
航が、窓の外から、楠のほうに顔を向けた。
眼鏡の奥の目が、少しだけ、揺れていた。
楠は、二杯目のコーヒーを、ゆっくり飲んだ。
底の粉まで、飲んだ。
夕方、航と二人で、港まで歩いた。
エレニは、店に残った。
「少し、歩いてきて」
エレニは、そう言って、二人を扉の外に押し出した。
鈴が、背中で、鳴った。
港の通りには、海に向いた食堂が並んでいた。
白いテーブルクロスが、夕方の風に、端をはためかせていた。
一軒の食堂のテラスに、男が四人、座っていた。
一人は、痩せた、年をとった男だった。灰色の麻の上着を着て、白い髪を、丁寧に後ろへ撫でつけていた。
テーブルの上に置いた左手の小指に、緑の石の指輪があった。
楠は、歩く速さを、変えなかった。
航も、変えなかった。
男は、海のほうを見ていた。
こちらを、見なかった。
同じ人かどうかは、分からなかった。
二十三年前の、銀座の暗い赤い壁の店で見た男は、五十前後だった。今、生きていれば、七十を超えている。
楠は、振り返らなかった。
航が、ほんの少しだけ、息を吐いたのが、聞こえた。
突堤の先に、灯台があった。
二人は、灯台の手前の、コンクリートの縁まで歩いた。
足の下で、波が、突堤の石を、低く叩いていた。
西の空が、赤から、紫に変わりかけていた。
航は、海を見ていた。
楠は、しばらく、何も言わなかった。
十八年前の一月、神戸の岸壁の上で、父の隣に立っていたときのことを、思い出していた。
父は、振り向かなかった。
来たんか、とだけ言った。
「東京に戻るのは、木曜です」
楠が言った。
航は、海を見ていた。
「報告は、金曜に出します」
「そうですか」
航の声は、平らだった。
楠は、続けた。
「ゲートウェイを設計したのが、私だということも、書きます」
航が、初めて、こちらを見た。
「楠さんの名前が、出る」
「出ます」
波が、突堤の下で、一度だけ、大きく鳴った。
航は、しばらく、楠の顔を見ていた。
それから、また、海のほうを向いた。
「親父の最期、聞いてますか」
航が言った。
「いいえ」
「僕も、ちゃんとは聞いてない」
航は、麻のシャツの胸のポケットに、手をやった。煙草を探すような仕草だった。
何も出さずに、手を下ろした。
「心臓だったと、言われました。大阪の病院で。でも、親父は、死ぬ前の月に、香港に行ってたんです」
楠は、黙っていた。
「奥寺さんが、一緒でした。帰ってきた親父は、誰とも、ほとんど話さなかったそうです」
航は、灯台を見上げた。
灯は、まだ、点いていなかった。
「楠さん。香港の、営業の人の話、覚えてますか。僕が十八のとき、成田で、聞いた」
「覚えてる」
楠は、少し考えた。
それから、言った。
「シーツは、白かったそうです」
航は、長いあいだ、黙っていた。
潮の匂いが、風に乗って、二人のあいだを通り過ぎた。
「静かに出ていった人は、みんな、そうなった」
航は、海に向かって、そう言った。
楠は、答えなかった。
灯台の灯が、まだ明るい空の中で、点いた。
白い光が、海の上を、ゆっくり回り始めた。
楠は、背広の内ポケットから、封筒を出した。
角が、二十三年分、丸くなっていた。
「航くん」
航が、振り向いた。
「これを」
楠は、封筒を、航の前に差し出した。
「お父さんから、預かっていたものです」
航は、封筒を見た。
白い封筒だった。糊が、一度も剥がされていなかった。
「一九九〇年の四月に、ホテルの地下の、すき焼き屋で、いただきました。電車代だと言われて」
「開けてない」
「開けていません」
「なぜ」
楠は、少し考えた。
「開けたら、額が分かるので」
航は、封筒を受け取った。
指先で、封の縁を、そっとなぞった。
開けなかった。
航は、それを、麻のシャツの内側の、胸のポケットに入れた。
二十一年前の夏、奥寺が、少年の機械の電池を入れていたのと、同じ場所だった。
「楠さん」
航が言った。
「はい」
「木曜に、帰るんですよね」
「木曜に」
「報告は、金曜」
「金曜に」
航は、胸のポケットの上に、手のひらを当てた。
それから、灯台のほうを見た。
光が、一周して、また、二人の顔の上を通り過ぎた。
「ありがとうございました」
航は、深く頭を下げた。
何に対しての礼なのか、楠には、分からなかった。
封筒のことなのか。
それとも。
楠は、何も聞かなかった。
ホテルの部屋で、楠は、ノートを開いた。
長いあいだ、何も書かなかった。
窓の外で、灯台の光が、一定の間隔で、海の上を回っていた。
それから、書いた。
二〇一三年七月十六日 エレニ。十月。お客さんからは、取らないの
十八年ぶりに、ご馳走になった
港の食堂。緑の指輪。同じ人かどうかは、分からない
突堤。封筒を、航くんに渡した。開けなかった
楠は、少し考えて、もう一行、書いた。
事実だけを話した
書いてから、その行を、長いあいだ見ていた。
本当のことだった。
木曜に帰る。金曜に出す。自分の名前も書く。シーツは白かった。
どれも、事実だった。
事実だけを話した、と書いたのは、自分に言い聞かせるためだった気がした。
十七年前の、成田の夜と、同じだった。
楠は、消さなかった。
水曜の朝、楠は、港まで歩いた。
エレニの父の店の前を、通った。
青い木の扉の前に、シャッターが下りていた。
シャッターに、紙が一枚、貼ってあった。手書きの、ギリシャ語だった。
二階の窓は、閉まっていた。昨日、港の青が少しだけ見えた窓だった。
楠が紙の前に立っていると、買い物籠を下げた、年をとった女性が、通りかかった。
女性は、紙を見て、それから、楠を見た。
「読めない?」
英語だった。
「読めません」
女性は、紙を、指でなぞりながら、ゆっくり訳した。
「家族の用事で、しばらく、休みます」
女性は、肩をすくめた。
「アンドレアスの店が、閉まるのは、珍しい。三月の、銀行のときも、開けてたのに」
女性は、籠を下げ直して、通りの向こうへ歩いていった。
楠は、航に電話をかけなかった。
メールも、書かなかった。
港の通りを、歩いた。
昨日の食堂のテラスに、白いテーブルクロスが、風にはためいていた。
テーブルは、全部、空いていた。
緑の石の指輪をした男は、どこにもいなかった。
木曜の朝、ラルナカの空港まで、タクシーに乗った。
月曜と、同じ運転手だった。
「知り合いには、会えた?」
「会えました」
運転手は、窓を全部開けて、海沿いの道を、東へ走った。
「また来る?」
楠は、少し考えた。
「分かりません」
運転手は、笑った。
「みんな、そう言う。そして、また来る」
窓の外で、白い光の中に、海が、どこまでも平らに広がっていた。
空港の出発ロビーで、楠は、ノートを開いた。
七月十七日 店のシャッター。家族の用事で、しばらく、休みます
七月十八日 島を出た
楠は、奥寺の声を思い出していた。
香港は、入るのは簡単です。
出るのが、難しい。
島は、入るのも、出るのも、簡単だった。
楠が、出ていくほうだったからだった。
楠は、ノートを閉じた。
(第五部 了)
エピローグ
七月十九日の金曜、楠は、報告書を出した。
四十頁の記録と、三頁の説明だった。
説明の三頁目の最後に、楠は、自分の名前を書いた。
このゲートウェイの、並べる順番と、引く順番は、二〇一〇年十月、報告者がニューヨークで設計したものと、構造が一致する。流す間隔の三十七は、報告者が当時、千分の一秒の単位で設定した数字であり、本件では、同じ数字が、百万分の一秒の単位で使われている。
高梨は、それを、黙って読んだ。
読み終わって、一行も直さずに、判を押した。
「休みは、どうでした」
「暑かったです」
高梨は、それ以上、聞かなかった。
ハルキオンの注文は、その翌週から、少しずつ減った。
八月の終わりに、止まった。
審査の画面から、その名前が消えた。
西野が、印をつける欄の、一番下の行が、一つ、空いた。
九月の半ば、高梨が、楠の机に、一枚の紙を置いた。
島の国の、金融の当局の発表を、訳したものだった。
ハルキオン・マーケッツの免許を、停止する。
相場を不正に動かした疑いで、調査を行っている。
関係者の一人が、調査に協力している。
名前は、書かれていなかった。
高梨は、紙の、一行を、指で示した。
調査は、七月十七日に、関係者本人からの申し出を受けて、始まった。
「水曜日」
高梨が言った。
「あなたの報告書が出る、二日前」
楠は、その一行を見ていた。
高梨は、楠の顔を、しばらく見ていた。
何かを聞こうとして、やめたように見えた。
「……島の当局のほうが、仕事が早かったみたいですね」
高梨は、それだけ言って、窓際の自分の机に戻った。
その夜、楠は、ノートを開いた。
七月十七日 水曜。調査の始まり。本人からの申し出
七月十九日 金曜。報告書を出した
楠は、二つの日付を、並べて書いた。
日付が、合わなかった。
合わないことを、楠は、書き足さなかった。
楠は、それから三年、審査の部屋にいた。
ニューヨークの、もうない会社から、一度だけ、問い合わせが来た。楠は、報告書に書いたことを、同じように答えた。それきりだった。
二〇一六年の冬、父が、港の見える施設で、死んだ。
眠っているあいだだった、と姉が言った。
葬式のあと、楠は、会社を辞めて、神戸に戻った。
港から坂を少し上がった、古い小さな部屋を借りた。
窓から、新しいクレーンが見えた。
堂島からは、ときどき、短いメールが来た。
まだ島にいる。飛び込んだまま。
それだけのメールだった。
楠は、同じくらい短い返事を書いた。
まだ神戸にいます。見ているだけです。
二〇二〇年代の、ある二月の朝、楠の部屋に、小包が一つ、届いた。
手のひらに載るくらいの、小さな箱だった。
差出人の住所は、ニューヨークの、クイーンズだった。
ギリシャ語の看板が並ぶ、あの通りの番地だった。
名前は、書いてなかった。
楠は、箱を開けた。
中に、茶色い紙の袋が、一つだけ入っていた。
袋には、島の言葉で、何か印刷されていた。
楠は、袋の口を、少しだけ開けた。
細かく挽かれた、コーヒーの匂いがした。
苦くて、甘い匂いだった。
十年前の七月の、港の近くの二階の部屋の匂いだった。
手紙は、入っていなかった。
箱の底を、指でなぞった。
何もなかった。
同じ週に、もう一通、メールが届いた。
クラクフからだった。
楠
借金の催促の手紙、やっと、直りました。十五年かかりました。
催促した人も、された人も、もう、とうにいません。
紙だけが、残りました。
染みは、消していません。
A.
楠は、その短い文を、何度も読んだ。
返事を書いたかどうかは、ノートには書かなかった。
楠は、コーヒーの袋を、台所の棚に置いた。
しばらく、それを見ていた。
受け取れば、借りになる。
誰に返せばいいのかも、分からない借りだった。
楠は、ノートを開いた。
最初のページから、ゆっくりめくった。
一九九〇年の四月から、三十年を超える字が、並んでいた。
何も、消していなかった。
線を引いて消そうとして、やめた行が、一つあった。
楠は、あるページで、手を止めた。
一九九五年 香港 失血 シーツは白かった
その下に、七年後の、同じ言葉があった。
金を貸していた人。香港。シーツは白かった
その下は、空いていた。
三行目は、書かれていなかった。
誰も、そうならなかったからなのか。
誰も、知らせてこなかったからなのか。
楠には、分からなかった。
確かめようとは、しなかった。
楠は、ノートを閉じた。
小さな鍋に、水を入れて、火にかけた。
銅の鍋は、持っていなかった。
窓の外で、港のクレーンが、ゆっくり、コンテナを一つ持ち上げていた。
荷物は、全部は開けられん。
合わんもんだけ、開ける。
鍋の底から、小さな泡が、一つずつ、上がってきた。
楠は、コーヒーの袋の口を、開けた。
湯が、沸いた。
(了)




