投手 町田達也の話
僕の親父は、とにかくいつも酒を飲んでいる人で、小心者であることは周囲の誰もがわかっていた。
その父との比較で、僕は「あなたはしっかりしているね」と、なにかというと口にされてきた。
しかし、親父の血を受け継いでいるのだろう、僕も気が小さいのだ。それを悟られて、がっかりされたり、馬鹿にされたりするのが、何よりも怖かった。それこそが小心である証拠と言える。
だから、表情には弱っているのを決して出さないようにした。
けれども、そのせいで余計にたくましく見られ、ますます駄目なところを覆い隠すという悪循環にはまっていった。幸い野球の能力は恵まれていたから、エースピッチャーの立場で良い成績を収め続けられて、そんなふうにはまったく思われていなかっただろうが、ピンチの際は内心相当ビビって、投球内容もだいたい納得いくものではなかったし、青春時代はずっと苦しかったのだ。
いつか、心が弱いのがバレて、他人からもてはやされるときは終焉を迎えるに違いないと考えていた。親父のことを「そこまで言うか」というほど悪く語る人を散々目にしてきたから、それが自分に降りかかってくると思うと耐えられなかった。
好きな野球で、プロの選手になって活躍したいという気持ちは、他の球児たちと同じように普通にあったにもかかわらず、さも興味がないように装って、社会人でのプレーで選手生活を終えることを選んだのだった。
ところが、二十代も半ばに差しかかり、もう本当にプロでやれるチャンスはわずかとなって、挑んでみたい欲求が大きくなってきたのだ。また、さすがにこの歳になると、冗談口調ではあるものの、「自分は臆病なのだ」と気を許せる相手には口にできるようになっており、弱さをさらけだせるくらいの強さは身につけられた感じがしていた。
そんなタイミングに、北信越ロケッツから獲得する意思があるとアプローチをしてもらえたのである。ごくわずかな身近な人しか知らないというのに、僕がメンタルに不安を抱えているのを理解しているらしい。
自分から頼んだわけではなく、精神面のフォローしてくれるとのその言葉は、僕を本当に必要として、しっかり調査したからではないだろうか。それに、やはりプロで勝負してみたいというのもあって、指名を受諾することに決めた。
プロでのプレーが始まると、注目度が半端ではないし、満足いかない投球でも抑えられたアマチュア時代のようにはいかないレベルの高さのなかで、ちょっとは克服できているかもと思っていた己の弱さを再認識して、心が折れかかった。
だが、ずっと声をかけ見守ってくれた大野監督に救われた。何があっても絶対に自分を悪く思わないでくれると感じられる人に、生まれて初めて会ったのだ。
そして、中継ぎで結果をようやく出せて、ひとまずプロの世界でやっていけるかもしれないというところまでたどりついたのである。
大野監督、それに、僕を熱心に誘ってくれ、彼女を監督にしてくれた、桜井GM、ありがとうございます。もっとチームの役に立てるように、自分が持っている力をすべて注いで、頑張ります。




