番外編 風を失った男⑥ 君を取り戻すために
数日後。
グリードホーン商店は、かつてないほど静まり返っていた。店先を通る人々の声も、工房から聞こえる金属音もいつもと変わらない。それでも、家の中では誰も以前のように笑えなかった。食卓の空いた椅子を見るたび、リシェルがもう戻ってこないという現実を突きつけられる。
セレイオスは部屋に籠もり、昼夜を問わず研究を続けていた。机には魔法書が積み上がり、床には術式図面が散乱している。調べているのは、リシェルの命を奪った魔力侵食病だった。魔力の流れを変え、回路を補強し、肉体への負荷を軽減する術式を組み直しても、決定的な答えは見つからなかった。
「……なんでだよ」
机に広げた魔法書を睨みつけ、セレイオスは掠れた声を漏らした。
「魔力の流れを変えても駄目。回路を補強しても、肉体への負荷は消えない……。じゃあ、何が足りなかったんだよ」
乱暴にページをめくっても、目に入るのはすでに試した方法か、実現の見込みすら立たない理論ばかりだった。
「戦争だって止めた。誰も解けなかった魔法理論だって形にした。それなのに……あいつ一人、救えなかった」
脳裏に浮かぶのは、最期まで自分を気遣っていたリシェルの姿だった。
『私が病気になったのは、あなたのせいじゃないわ』
「……そんなこと、分かってる」
セレイオスは額を押さえた。
「お前のせいだなんて思ってない。ただ……もっと早く原因を突き止めていれば、何かできたんじゃないかって……そう思うんだよ」
拳を握り締める。どれほど魔法を極め、知識を積み重ねても、いちばん救いたかった人を救うことはできなかった。その事実だけが、いつまでも彼の胸に突き刺さっていた。
それでも、研究をやめることはできなかった。何か一つでも見落としているのかもしれない。そう思いながら文献を読み漁り、術式を組み直す日々が続いた。
♢
ある日の夕方、バルドが食事を載せた盆を持ってセレイオスの部屋を訪れた。
「おい、セレイオス。飯だぞ」
扉を叩いても返事はない。バルドは眉をひそめ、もう一度声をかけた。
「おい。聞こえてるんだろ? せめて何か食え」
「……今はいい」
「今はいい、じゃねえよ。朝も昼も食ってねえだろ」
「あと少しで、術式がまとまるんだ」
「その台詞、昨日も聞いたぞ」
バルドはため息をつき、返事を待たずに扉を開けた。
部屋の中はひどい有様だった。床には紙が散乱し、机の上には冷めきった飲み物がいくつも並んでいる。セレイオスは壁に書き込んだ計算式を見つめたまま、振り返ろうともしなかった。
「……お前、いつ寝た?」
「覚えてない」
「そうかよ。じゃあ、最後に飯を食ったのは?」
「……覚えてない」
「おいおい」
バルドは盆を机の端へ置いた。
「リシェルが見たら、何て言うと思う?」
その名前を聞いた瞬間、セレイオスの手が止まった。
バルドはそれ以上責めるようなことは言わなかった。ただ、息子のように思ってきた男の痩せた横顔を見つめ、静かに続けた。
「……あいつは、お前にそんなふうになってほしくて一緒にいたわけじゃねえだろ」
「分かってる」
「本当に分かってんのか?」
セレイオスは答えず、壁に書き殴られた数式を見つめていた。やがて、力なく視線を落とすと、ぽつりと呟いた。
「……バルドさん。俺は、どうすればよかったんでしょうね」
その声は、いつもの自信に満ちたものとは違っていた。
「もっと早く気づいていれば、何かできたのかもしれない。あいつが黙っていたことを知っていれば、もっと早く研究を始められた。そうしたら、間に合ったかもしれない……」
「そんなの、誰にも分からねえよ」
バルドはすぐに答えた。
「お前が何をしていたって、どうにもならなかったかもしれねえ。逆に、何かできた可能性だってある。今さら考えたところで、確かめようがねえんだ」
「……それでも、何かできたはずなんです」
「そう思うんだろうな。お前はそういう奴だからよ」
バルドは机に置いた盆を押し出した。
「だが、今のお前にできることは、飯を食って少し寝ることだ。身体を壊したら、研究どころじゃねえぞ」
「……少しだけ食べます」
「最初からそう言え」
バルドはわざとらしく鼻を鳴らしたが、部屋を出る前に一度だけ振り返った。
「……セレイオス。俺たちだって、まだあいつがいないことに慣れちゃいねえ。店にいても、ふとしたときにあいつの声が聞こえる気がするんだ」
セレイオスは顔を上げた。
「だから、お前だけが苦しんでるわけじゃねえんだ。俺たちだって、あいつのことを忘れられるわけがねえ。……だから、無理に立ち直ろうとしなくていい。ただ、一人で全部抱え込むなよ」
そう言い残し、バルドは部屋を出ていった。扉が閉まると、セレイオスはしばらく盆を見つめていたが、やがて冷めたスープを口に運んだ。味はほとんど分からなかったものの、何口か食べると盆を脇へ置き、再び机に向かった。
リシェルを取り戻す方法が、どこかにあるはずだった。今はまだ見つからない。それでも、諦めることだけはできなかった。
◇
そんなある夜、机に広げた古い文献の一節がセレイオスの目に留まった。
そこには、遥か西方に存在する魔導帝国と、その帝都の最深部に設けられた禁書庫について記されていた。魂の研究や生命への干渉など、王国ですら危険視する数々の禁術が封じられた場所だった。
「……魂の記録。肉体と魂の結合……」
セレイオスはその記述を読み返した。これまで彼が探してきたのは、魔力侵食病の原因を突き止め、その治療法を見つけることだった。だが、リシェルはもう亡くなっている。仮に病を治す方法が見つかったとしても、彼女が戻ってくるわけではない。
ならば、彼女を取り戻すには、別の方法が必要だった。
文献を読み進めると、肉体が生命活動を停止したあとも、魂がただちに消滅するとは限らないと記されていた。特定の条件下では魂がしばらく留まり、特殊な術式によって観測された事例もあるらしい。ただし、魂を再び肉体へ戻すことに成功した記録はなく、研究の多くは禁忌として封印されていた。
「……死後も、魂が残ることがあるのか」
もし、リシェルの魂がまだどこかに残っているのなら。それを見つけ出し、もう一度肉体へ戻すことができれば――。
「……そうか」
セレイオスはゆっくりと顔を上げた。
「死んだなら、生き返らせればいい。魂を呼び戻して、もう一度肉体に定着させる方法を見つければいいんだ」
目の下には濃い隈が刻まれ、頬も痩せていた。それでも、その瞳には久しく見られなかった光が宿っていた。
「帝国の禁書庫……あそこなら、何かあるはずだ。蘇生術式でも、神代魔法でもいい。手掛かりさえあれば、俺が完成させる」
セレイオスは久しぶりに笑った。それは希望を見つけたというより、失ったものを取り戻すために、残された可能性へすがりつくような笑みだった。
魂を本当に呼び戻せるのか、それがリシェル本人なのか、そもそも死者の蘇生が可能なのかさえ分からない。それでも、彼女を取り戻せる可能性があるのなら、禁忌だろうと構わなかった。
こうしてセレイオスは、死者を蘇らせる方法を求め、魔導帝国の禁書庫を目指すことになる。
◇
夜。魔導帝国の中心部に、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
「中央区画で異常反応! 侵入者がいるぞ!」
「門と外壁の結界はどうなっている!?」
「異常ありません! 破られた形跡もありません!」
「なら、どこから入り込んだんだ!」
兵士や魔導士たちが石造りの通路を駆け抜けていく。帝都を覆う十三重の結界は、侵入者を感知すれば即座に警報を発する仕組みになっていた。しかし、今回は探知網が反応を捉えたにもかかわらず、侵入者の位置を特定できずにいた。
「探知網に反応が出たり消えたりしています! これでは位置を追えません!」
「そんな馬鹿な……。とにかく中央区画を封鎖しろ! 見つけ次第、確保するんだ!」
怒号が飛び交う中、その騒ぎの中心を一人の男が悠然と歩いていた。セレイオスは周囲の兵士たちに目もくれず、迷いのない足取りで奥へと進んでいく。警報が鳴り響いているというのに、その表情には焦りも緊張もなかった。
「……騒がしいな」
通路を曲がった先に、帝国最深部に設けられた禁書庫の扉が見えてきた。数百年にわたって封印されてきた魔導書を保管する場所だけあって、扉には空間封鎖結界や認識阻害術式が幾重にも施され、さらに高位の魔導認証まで設けられている。
セレイオスは扉を見上げ、わずかに口元を緩めた。
「……正面から破る必要はない。俺を侵入者として認識できなくすればいいだけだ」
指先を軽く動かし、扉を覆う魔力の流れを探る。結界の構造を把握すると、セレイオスは認識阻害の術式へ干渉し、その仕組みを少しずつ書き換えていった。やがて封印を維持していた魔力が揺らぎ、巨大な扉が音もなく開く。
セレイオスは一度も振り返ることなく、その奥へ足を踏み入れた。
◇
禁書庫の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。幾重もの封印を施された禁書が棚に並ぶ中、セレイオスは迷わず奥へ進み、黒い装丁に封印文字が刻まれた一冊を手に取った。表紙には人骨を削って彫ったような白い紋様が浮かんでいたが、気にすることなく封印を解き、ページをめくる。
「……死者再生術式、魂の定着、肉体の再構築……」
目当ての記述を見つけ、セレイオスの指先がわずかに震えた。そこには、死者の魂を肉体へ呼び戻し、失われた生命活動を再現するための理論が記されていた。まだ不完全で、成功した記録もない。それでも、リシェルを取り戻すための手掛かりが確かに残されていた。
「……あるじゃねえか。これなら、まだ可能性はある」
彼は食い入るように文字を追った。さらにページをめくると、魔物を使役する術式や、生物の肉体を異形へ変える禁術、他者の生命力を魔力へ変換する方法まで記されていた。中には、術者自身の命を代償に強大な力を得る術式もある。
「……こんなものまで残してあるのかよ」
呆れたように呟きながらも、読む手は止まらなかった。危険な術式だろうと関係ない。リシェルを取り戻すために使える知識があるのなら、何一つ見落とすわけにはいかなかった。
必要な記述を頭に刻み込み、セレイオスは禁書庫を後にした。
それから身を隠して研究を始めたものの、魂を定着させれば肉体が不安定になり、肉体を維持しようとすれば魂が留まらない。何度も術式を組み直しては失敗し、研究は思うように進まなかった。
「くそっ……また駄目か」
セレイオスは失敗した術式を消し、壁に新たな計算を書き込んだ。
「魂を定着させる魔力が足りないのか……? いや、それなら肉体の再構築が崩れる理由が説明できない。いったい、何が足りないんだ……」
答えはすぐには見つからなかった。それでも彼は研究を続け、禁書庫から持ち帰った文献を一冊ずつ読み返していった。
◇
そんなある日、セレイオスは別の文献に目を留めた。古い東方語で書かれたその書物には、丹術と呼ばれる技術や、体内の異常を取り除く薬について記されていた。西方でいう魔力を東方では「霊気」、魔力回路を「霊脈」と呼ぶらしい。
「……霊脈の浄化と再生、か」
読み進めるうちに、セレイオスは《浄脈丹》という丹薬の記録を見つけた。服用することで体内に蓄積した濁った魔力を排出し、損傷した魔力回路を修復するという。
「魔力を減らすんじゃなく、回路そのものを治すのか……」
リシェルの魔力侵食病は、膨大な魔力に肉体と魔力回路が耐えられず、少しずつ損傷していくことが原因だった。魔力を抑えれば生命活動に支障が出るうえ、回路を補強するだけでは根本的な解決にならない。だが、《浄脈丹》なら、彼女の魔力を維持したまま病を治せる可能性がある。
「……こんな方法があったのか」
期待に胸を膨らませて製法を読み進めたものの、肝心の調合については不明な点が多かった。さらに、通常の魔石では代用できない特殊な魔石も必要らしい。魔力回路に干渉し、正常な魔力と、侵食を引き起こす異常な魔力を見分ける性質を持つものだという。
「……そんな魔石が、本当にあるのか?」
文献によれば、幻覚や認識への干渉を得意とする魔族の魔石が、材料として適しているらしい。セレイオスは記憶を探り、ふと思い当たった。
「……ノルヴェイン大陸か」
別大陸のノルヴェインには、幻覚魔法を操る魔族が暮らしていると聞いたことがあった。詳しい生態や魔石の性質までは知らないが、彼らの魔石が文献に記された条件を満たすのなら、必要な材料を手に入れられるかもしれない。
「くそっ……。調合の方法も、材料も、これから調べる必要があるのか」
セレイオスは悔しげに息を吐いた。それでも、希望が見つかったことに変わりはない。死者再生の術式を完成させ、リシェルを再びこの世界へ連れ戻すことができたなら、今度こそ病まで治してみせる。
彼は《浄脈丹》の記録を書き写し、死者再生の資料とともに机へ並べた。まだ道のりは長い。それでも、蘇らせた先にある未来を初めて具体的に思い描きながら、セレイオスは再び研究に向き合った。




