番外編 風を失った男⑦ 君のいない世界で
第2章ですが、全体の改稿はまだまだ全然進んでいません……! すでに本文が40万字ほどあるので、改稿する量を考えると、まだまだ先は長そうです……笑。少しずつ進めていきますので、気長にお付き合いいただけると嬉しいです!
それから十年が過ぎた。
「……このままじゃ間に合わない」
散乱した研究資料を前に、セレイオスは額を押さえた。研究は着実に進んでいる。以前は理解できなかった理論も読み解けるようになり、術式の精度も上がっていた。それでも、死者再生の完成にはほど遠い。
「あと何年かかる? 二十年か、五十年か……それとも百年か」
自嘲気味に笑ったものの、その表情はすぐに険しくなった。
「そんなに待っていたら、俺のほうが先に死んじまう」
研究を完成させる前に寿命が尽きれば、すべてが無駄になる。リシェルを蘇らせるためには、研究を続ける時間そのものを確保しなければならなかった。
「……俺が死ななければいい、ってことか」
セレイオスが着目したのは、人間の血に宿る生命力と魔力だった。それらを特殊な媒体に蓄え、肉体へ循環させることができれば、老いや損傷による衰えを抑えられるかもしれない。
「血に含まれる生命力を、魔力と一緒に蓄えられれば……」
それから彼は、素材の組み合わせや魔力の循環について検証を重ねた。試料を作り直し、術式を調整するうち、ようやく赤黒い結晶が形になった。血と魔力を凝縮させたそれは、内部に血のような光を宿している。試しに少量の血を与えると、結晶はそれを吸い込むように取り込み、内部の魔力を増大させた。
「……生きてるみたいだな」
セレイオスは結晶を光にかざし、慎重に性質を調べた。血から生命力と魔力を取り込み、その力を肉体へ還元できれば、長い年月を生き抜く助けになるはずだった。ただし、蓄えた力を安定して肉体へ送り込むには、まだ解決しなければならない問題が多い。
死者再生の術式を組み直す一方で、セレイオスは東方の丹術についても研究を続けた。蘇らせることができても、病まで治せなければ、リシェルに再び同じ苦しみを味わわせることになるからだ。
幾度もの検証を経て、ようやく調合法に目処が立った。
「……これで、配合は決まった」
《浄脈丹》の理論と配合はまとまった。体内に蓄積した濁った魔力を排出し、損傷した魔力回路を修復するための丹薬。その調合法は完成したものの、実際に調合するには、やはり特殊な魔石が必要だった。
文献が示していたのは、幻覚や認識への干渉を得意とする魔物や魔族の魔石。セレイオスは、ノルヴェイン大陸に暮らす魔族の話を思い返した。
「……レシピまでは完成したんだ。あとは、材料を手に入れるだけだ」
調合法を記録に残したものの、肝心の魔石を確実に入手する手段はなかった。薬の効果を実際に確かめることもできず、リシェルの病を治せるという確証もまだない。それでも、以前は曖昧だった希望が、少しずつ手の届くものへと変わり始めていた。
だが、死者再生の術式も、《血魔石》の研究も、まだ完成には至っていない。セレイオスは再び机へ向かい、残された資料に目を通した。
◇
さらに二十年が過ぎた頃、机の上には赤黒く脈打つ結晶が置かれていた。
「……これで、ようやく先へ進める」
三十年にわたる研究の末、セレイオスはついに《血魔石》を完成させた。血と魔力を蓄え、その力を肉体へ循環させることで、老いや損傷に左右されず身体を維持し続ける。さらに、その仕組みを魂に刻み込めば、肉体が寿命を迎えても魂を保ち、長い年月を生き抜ける可能性があった。
ただし、それを実現するには、既存の魔法回路を犠牲にしなければならない。これまで使ってきた魔法を失う可能性が高かった。
「……風魔法も、使えなくなるか」
セレイオスは自分の手を見つめた。王国最強と呼ばれた力も、風王の名も、これまで積み上げてきた栄光も、すべて失うことになるかもしれない。かつての彼なら、簡単には受け入れられなかっただろう。
だが、今の彼に迷いはなかった。
「……そんなもの、どうだっていい」
彼は血魔石を手に取り、強く握り締めた。
「リシェルが戻ってくるなら、風魔法だろうが何だろうが、いくらでもくれてやる」
愛した人を取り戻す。そのためなら、ほかのすべてを捨てても構わなかった。
「待っていろ、リシェル。必ず、もう一度会いに行く」
そう呟き、セレイオスは血魔石を胸へ押し当てた。赤黒い結晶が血のように溶け、皮膚の内側へと流れ込んでいく。直後、骨が軋み、全身を激痛が貫いた。魔力回路が引きちぎられるような感覚とともに、魂の奥深くへ新たな魔力循環系が刻み込まれていく。
「ぐっ……あああああっ!」
あまりの痛みに膝が折れそうになる。それでもセレイオスは歯を食いしばり、術式を維持した。血魔石と肉体維持の術式、そして魂へ新たな魔力循環系を刻む禁術。三十年を費やして組み上げた術式が、ついに起動し始めていた。
「まだだ……! ここで止まるわけにはいかない!」
リシェルを取り戻すために、どれほどの時間を費やしてきたことか。ここで失敗すれば、また一から研究をやり直さなければならない。そんな時間は残されていない。セレイオスは激痛に耐えながら、最後の調整を終えた。
――だが、その直後だった。
「……な、に?」
血魔石の脈動が突然激しくなり、術式を構成する魔力が乱れ始めた。複雑に絡み合った術式同士が衝突し、制御を失った魔力が肉体維持の術式を内側から食い破っていく。
「待て……! 何が起きてる!?」
セレイオスはすぐさま術式を書き換えようとした。しかし、暴走は止まらない。腕の皮膚がひび割れ、灰となって剥がれ落ちていく。骨まで軋み、肉体を維持するはずの術式が、逆に身体を崩壊させていた。
「違う……! 術式は完成していたはずだろう!?」
セレイオスは震える指で計算式を書き換え、魔力の流れを修正しようとした。だが、手を加えるたびに術式はさらに乱れ、研究室を満たす魔力が激しく渦巻いていく。
「くそっ……何が間違ってるんだ! どこだ、どこに問題がある!?」
何度も計算を確かめ、術式を修正する。それでも暴走は止まらず、腕の皮膚が灰となって剥がれ落ちていった。肉体を維持するための術式が、逆に身体を崩壊させている。セレイオスはそれを理解していたが、もはや何をすればいいのか分からなかった。
「待て……! 止まれ! まだ終わってないんだ……!」
それでも、魔力は容赦なく肉体を蝕んでいく。やがて全身が崩れ始め、セレイオスは自らの身体を支えることすらできなくなった。
「なんでだ……! あと少しだったのに……!」
最後まで抗ったものの、崩壊は止められなかった。セレイオスの肉体は灰のように崩れ落ち、激しく乱れていた魔力も次第に静まっていく。地下研究室には、赤黒く脈打つ血魔石だけが残された。
◇
「…………」
どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。
セレイオスは、ふと意識を取り戻した。だが、目を開こうとしても何も見えず、手足を動かそうとしても感覚がない。呼吸をしようにも、空気を吸い込む感覚すらなかった。
(……なんだ? 何が起きた……?)
術式が暴走したところまでは覚えている。自分の身体が崩れていく感覚も、確かにあった。
(まさか……俺、死んだのか?)
そんなはずはない。そう思いたかった。だが、どれだけ意識を集中させても、身体の存在を感じ取ることができなかった。
(おい……嘘だろ。冗談じゃねえぞ……!)
不死を手に入れるために、三十年もの時間を費やした。それなのに、待っていたのは肉体の崩壊だった。これではリシェルを取り戻すどころか、もう一度彼女に会いに行くことさえできない。
絶望しかけたそのとき、セレイオスは自分の意識がまだ残っていることに気づいた。
(……待て。意識がある? なら、俺はまだ……)
肉体を維持する術式は失敗した。だが、血魔石と魂を結びつける仕組みだけは機能していたのかもしれない。つまり、肉体を失っても魂だけは血魔石の中に留まっているということだ。
(……何だよ、これ。こんな姿になってまで、俺は何をすればいいんだ……)
何も見えず、何も聞こえない。手足を動かすことも、声を出すこともできず、自分がどこにいるのかすら分からない暗闇の中で、セレイオスは途方に暮れていた。そんな彼の脳裏に、ふとリシェルの顔が浮かんだ。
結婚して一年ほど経った頃のことだ。ある晩、また遅くまで研究を続けていたセレイオスが寝室へ戻ると、リシェルはベッドに腰かけて彼を待っていた。
『またこんな時間まで研究してたの? この前も、少しは自分の身体を大事にしてって言ったばかりでしょう』
『悪かったよ。あと少しで術式の問題が解けそうだったんだ』
『その「あと少し」を信じて待っていたら、いつまで経っても寝られないじゃない』
呆れたように言いながらも、リシェルは隣を空けた。セレイオスが腰を下ろすと、彼女はその肩に寄りかかり、小さく息を吐いた。
『……ねえ、セレイオス。もし私が先に死んだら、あなたはどうする?』
『何だよ、急に。そんな話をするなよ』
『いいから、ちょっと考えてみて』
セレイオスはしばらく考えたものの、やがて困ったように眉を寄せた。
『……考えたくもないが、もし本当にそうなったら、きっと何も手につかなくなるだろうな』
『それだけ?』
『それだけって何だよ』
『あなたなら、私を取り戻す方法を探すんじゃないかと思って。死んだ人間を生き返らせるなんて、簡単にできることじゃないでしょう? それでも可能性があると分かったら、あなたはきっと諦めない。自分のことなんて後回しにして、何年かかっても研究を続けるんでしょうね』
『……可能性があるなら、探すに決まってるだろ。お前を失って、何もしないでいられるわけがない』
セレイオスが迷いなく答えると、リシェルは少しだけ表情を曇らせた。
『……やっぱり、そう答えるのね』
『何だよ。まさか、俺に諦めろって言うつもりか?』
『そうじゃないわ。ただ、あなたが私を取り戻すために、自分の命まで投げ出すんじゃないかって心配なの』
リシェルは彼の手を握り、まっすぐに目を見つめた。
『もし私がいなくなっても、お願いだから自分を犠牲にしてまで取り戻そうとしないで。あなたが私のために何かを失うたびに、最後には何もかもなくしてしまいそうで怖いの』
『……そんなことにはならない』
『本当に? あなた、何かに夢中になると周りが見えなくなるでしょう。私が止めたって、きっと聞かないわ』
『お前な……』
言い返そうとしたセレイオスに、リシェルは少しだけ笑ってみせた。けれど、握った手を離すことはなかった。
『それでも、もしあなたが自分を犠牲にするようなことをしたら、幽霊になってでも止めに行くからね』
『……幽霊になってまで、俺に説教する気か?』
『当然でしょう? 《シールド》で閉じ込めて、《バインド》で縛ってでも止めてやるわ。あなたがどんなに強い魔法を使ったって、絶対に逃がさないんだから』
『ははっ……お前なら、本当にやりかねないな』
『冗談だと思ってる?』
リシェルは笑わなかった。その瞳には、ふざけているだけではない悲しみが浮かんでいた。
『……私は、あなたに幸せでいてほしいの。私がいなくなったあとも、ちゃんと生きていてほしい。だから、自分を壊すようなことだけはしないで』
セレイオスは彼女の手を握り返した。そんな先のことを心配するには、二人はまだ若かったし、一緒にやりたいことも、行きたい場所もたくさん残っていた。
『……分かったから、そんな顔をするなよ。お前がいなくなるなんて、俺は認めるつもりはないからな』
『もう……そういうところよ』
リシェルは困ったように笑い、彼の肩にもう一度寄りかかった。けれど、その顔に浮かんだ悲しみは、すぐには消えなかった。
◇
「……リシェル?」
名を呼んでも、返事はなかった。彼女はもう、この世界にはいない。それでも、あのときの悲しそうな顔と、幽霊になってでも止めると言った言葉が、セレイオスの意識から離れなかった。
(……悪いな、リシェル)
声にならない言葉を胸の内で呟く。
(お前の頼みは、聞けそうにない)
彼女を取り戻すことを諦め、このまま何もせずにいる。そんなことができるはずもなかった。たとえ肉体を失っても、何百年かかろうとも、可能性がある限り、セレイオスはきっと探し続ける。
(……いつか、必ず)
何も見えない暗闇の中で、彼はただリシェルの名を思い浮かべた。
何年経っても、何十年経っても、何百年経っても。
風の英雄は死に、研究者としての人生も終わった。半永久の命を求めた男は肉体すら失い、血魔石の中に囚われた。それでも、愛した女性を取り戻したいという願いだけは消えず、セレイオスの魂は終わりのない孤独の中で、ただリシェルを求め続けた。
その願いに終わりが訪れるのは、まだ遥か未来のことだった。
今回の番外編も、気づけば全7話と長くなってしまいました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます!
「風を失った男」というタイトルには、セレイオスが操る風の魔法と、彼にとってかけがえのない存在であるリシェル、二つの意味を込めています。彼女を失ったセレイオスは、魔法だけでなく、心の支えまでも失ってしまいました。
そんな彼が、リシェルを取り戻すためにすべてを犠牲にしようとするまでの過去を描いた番外編でした。最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました!




