番外編 風を失った男⑤ 風が止まった夜
リシェルが倒れたのは、結婚して三年が過ぎた冬のことだった。
その日は朝から少し顔色が悪く、食卓でも珍しく食欲がなかった。いつもならバルドの豪快な冗談に呆れながら笑う彼女が、ぼんやりと窓の外を眺めている時間も長かった。
「……本当に大丈夫なのか?」
セレイオスが心配そうに尋ねると、リシェルは困ったように笑った。
「大丈夫よ。少し胸のあたりが重いだけだから。昔から時々あるし、休めば治るわ」
「昔からって、いつからだ? そんな話、俺は聞いたことがないぞ」
「子どもの頃からよ。でも、いつもすぐ治っていたの。そんなに心配しなくても――」
「心配するに決まってるだろう。少しでもおかしいと思ったら、ちゃんと言ってくれ」
セレイオスが納得していないのは明らかだったが、リシェルは「分かったわ」と答え、彼の手を軽く握った。それでひとまず話は終わったものの、彼女の顔色が気になって仕方がなかった。
けれど、その日の夜だった。
突然、リシェルが胸を押さえ、苦しそうに息を詰まらせた。次の瞬間には身体から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
「リシェル!?」
椅子が倒れる音とともに、セレイオスは彼女を抱き起こした。呼吸は浅く、顔色も異様なほど白い。
「おい、しっかりしろ! リシェル、聞こえるか!?」
「だい……じょうぶ……」
「喋らなくていい。今、医者を呼ぶからな!」
普段の冷静さを失った声に、家族たちも一斉に駆け寄ってきた。
「親父、医者を呼んでくれ! 早く!」
セレイオスに怒鳴られ、バルドも一瞬で表情を変えた。「分かった!」と叫んで駆け出し、リックも使用人たちへ指示を飛ばす。
いつも騒がしいグリードホーン家は、その瞬間だけ凍りついたように静まり返っていた。
◇
診察室の空気は異様なほど重かった。リシェルの診察を終えた医師は、記録を何度も確認しながら、しばらく言葉を探すように黙り込んでいたが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「……結論から申し上げます。不治の病です」
「……何だと?」
セレイオスは、すぐには言葉の意味を理解できなかった。
「進行性の魔力侵食病です。体内の魔力が肉体を侵し、少しずつ機能を損なっていく病で、現在の魔法医療では治療法が確立されておりません」
「魔力が……肉体を侵す?」
「はい。リシェル様の体内には、常人とは比較にならないほど膨大な魔力が存在しています。しかし、その魔力量に対して、魔力を制御する回路や肉体が十分に耐えられていないようです」
医師は難しい顔で診察記録へ目を落とした。
「魔力は本来、魔力回路を通じて身体の中を循環しています。ところが、リシェル様の場合、その流れが身体に過剰な負荷を与えているのでしょう。長年にわたって蓄積した影響が、少しずつ肉体を蝕んでいると考えられます」
「……なら、魔力を減らせばいいだろう」
セレイオスはすぐに言い返した。
「余分な魔力を外へ逃がすなり、魔力回路の負荷を軽減する術式を組むなり、方法はいくらでもあるはずだ」
「私たちも、それは検討しました。しかし、リシェル様の魔力は単に体内へ蓄えられているだけではありません。生命活動を支える魔力回路とも深く結びついているため、無理に魔力を減らせば、かえって身体の機能を損なうおそれがあります」
「では、魔力の流れを整えればいい。回路への負荷を減らす方法を探せばいいだろう!」
「もちろん、考えられる限りの方法は試しました。しかし、根本的な解決には至っておりません。進行を遅らせる方法も、現時点では見つかっていないのです」
「治療法がない……?」
医師は苦しそうに頷いた。
「はい。魔力侵食病は、進行するにつれて臓器や神経にも影響を及ぼします。現在のリシェル様の状態を考えると、決して楽観できる状況ではありません」
「ふざけるなよ……」
セレイオスの声が低くなる。感情に反応するように室内の魔力が揺れ、壁の灯りが明滅し、窓ガラスがかすかに軋んだ。
「金ならいくらでも出す。研究者も術式も薬も、必要なものは全部集める。だから、治療法を探せ」
「セレイオス様……」
「俺が誰だか分かっているだろう。風王と呼ばれるほどの魔法使いが、頼んでいるんだぞ!」
医師は目を伏せたまま、静かに答えた。
「……申し訳ありません。私にできることは、リシェル様の苦痛を和らげることだけです」
「なら、ほかの医師を呼べ。世界中の研究者を集めろ。誰か一人くらい、方法を知っているはずだ!」
「すでに各地の専門家にも確認しました。しかし、同じ病の治療に成功した記録は見つかっておりません」
何を言われても、受け入れることができなかった。金も権力も、魔法の知識もある。これまで幾度となく困難を乗り越えてきた。それなのに、いちばん救いたい人を前にして、何一つできることがない。
「……そんなわけ、あるかよ」
絞り出した声は、怒りよりも深い絶望に震えていた。
◇
その夜、リシェルの部屋にはランプの明かりだけが残されていた。窓の向こうでは風が吹いていたが、その音さえ遠く感じるほど部屋は静かだった。セレイオスはベッドの傍らに腰を下ろし、彼女の手を握り続けている。手を離した瞬間、本当にどこかへ消えてしまいそうな気がした。
「……そんな怖い顔しないで」
リシェルがかすかに笑う。セレイオスは彼女の手を握り直した。
「怖い顔にもなるだろう。お前があんな診断を受けたんだぞ」
「あなたが怒っているのは、医者に対してじゃないでしょう?」
「……自分にだよ」
セレイオスは俯いたまま答えた。
「俺は何でもできると思っていた。風も、魔法も、どんな困難だって、力と知識があれば乗り越えられると思っていたんだ。なのに、結局お前一人救えない」
「相変わらず、自分に期待しすぎなのよ」
「今は茶化さないでくれ」
「茶化してるんじゃないわ。あなたが何でもできる人だったら、私だってこんなに気楽に暮らせていないもの」
リシェルは少しだけ笑ったが、セレイオスは笑い返せなかった。彼女はそんな彼をしばらく見つめてから、静かに口を開いた。
「……私ね、ずっと前から、こうなるかもしれないって思っていたの」
セレイオスが顔を上げる。
「何を言ってる?」
「母さんも同じ病気だったの。若い頃に倒れて、そのまま亡くなったって聞かされていたから。私もいつか同じことになるんじゃないかって、子どもの頃からどこかで覚悟していたのよ」
「……なんで黙っていたんだ」
「言ったら、あなたが何をするか分かっていたもの。世界中の医師を集めて、治療法が見つかるまで寝る間も惜しんで研究するでしょう?」
「当たり前だ。黙って見ていられるわけがない」
「でしょう? だから、言いたくなかったの」
リシェルは彼の手を握り返した。
「せっかくあなたと一緒にいられるのに、残り時間の話ばかりするのは嫌だったのよ。いつまで生きられるかを数えるより、今日何を食べようとか、明日はどこへ行こうとか、そんな話をして笑っていたかった」
セレイオスは何も言えなかった。責めたい気持ちはあった。なぜ一人で抱え込んだのか、どうしてもっと早く教えてくれなかったのか。けれど、彼女が何を守ろうとしていたのかも分かってしまい、言葉が喉につかえた。
「……俺は、お前の夫だろ。苦しいことまで一人で抱え込まないでくれ」
「分かってるわ。でも、あなたには毎日、十分すぎるほど頼っていたわよ」
「何の話だ?」
「家に帰ればあなたがいて、何かあれば真っ先に助けてくれて、私が笑えば一緒に笑ってくれた。私はずっと、あなたの隣にいたでしょう?」
リシェルは穏やかに微笑んだ。
「私にとっては、それが頼るってことだったの」
セレイオスは俯き、何か言い返そうとしたものの、もう言葉が見つからなかった。しばらくして、リシェルは天井を見上げながら静かに続けた。
「不思議ね。昔は、いつかどこかで一人で死ぬんだろうなって思っていたのに、今はそれが怖くないの」
「……怖くないわけがないだろう」
「そうね。まったく怖くないと言ったら嘘になるわ。でも、あなたと出会えたから、後悔はしていないの」
彼女はセレイオスへ視線を戻し、少しだけ笑った。
「冒険者をして、好き勝手に生きて、そのうちどこかで終わるんだろうと思っていたのに、あなたが突然現れて、毎日うるさくて、しつこくて、何度追い返しても懲りなくて……本当に大変だったわ」
「……悪かったな」
「ほんとよ。でも、楽しかった」
短い言葉だった。けれど、その一言には、二人で過ごしてきた時間のすべてが詰まっていた。
「家に帰ったらあなたがいて、父さんと馬鹿騒ぎして、リックの研究に付き合って、魔法を使いすぎて倒れて。結婚してからも、結局何も変わらなかったわね」
「あれは事故だった。わざと倒れたわけじゃない」
「はいはい。毎回そう言うわね」
リシェルは小さく笑ったが、すぐに咳き込んだ。セレイオスの表情が強張り、彼女の背を支えようとする。咳が収まるまで待ってから、彼はその手を握り直した。
「……もう喋らなくていい。今は休んでくれ」
「そうしたいけど、まだ伝えておきたいことがあるの」
リシェルは彼の顔を見つめた。
「私は、あなたと出会えて本当に幸せだった。だから、あなたにも自分を責めないでほしいの」
「そんなこと、できるわけないだろう」
「できなくても、そうしてほしいの。私が病気になったのは、あなたのせいじゃないわ」
「分かってる。分かっているけど……」
セレイオスの声が震えた。
「俺は、まだお前と生きていたいんだ。こんなところで終わりになんてしたくない。まだ行きたい場所もあるし、やりたいことだって山ほどある。これから先も、ずっと一緒にいるつもりだったんだ」
「……うん」
「だから、足りるわけがないだろう。俺はまだ、お前と過ごしたいんだ」
リシェルは目を細め、握られた手にわずかに力を込めた。
「……ありがとう。そんなふうに思ってくれて」
「礼なんか言うな」
「どうして?」
「それじゃ、もう別れの挨拶をしているみたいじゃないか」
セレイオスは彼女の手を握り締めた。黒い髪が額にかかり、黒い瞳には不安と焦りが滲んでいる。それでも、彼はまだ諦めていなかった。終わらせるつもりもなかった。
「……俺は、まだ諦めていないからな」
「ええ。知ってるわ。あなたは、そういう人だもの」
リシェルは微笑み、彼の頬へそっと手を伸ばした。枕に広がる金色の髪は乱れ、青い瞳にもかつての輝きは薄れていた。それでも、セレイオスを見つめる眼差しは優しかった。彼はその手に自分の頬を寄せ、少しでも長く温もりを感じていようとする。
「愛してるわ、セレイオス」
囁くような声とともに、彼女の指からゆっくりと力が抜けていく。
「……リシェル?」
セレイオスは呼びかけたが、返事はなかった。青い瞳から光が消えていくのを前に、彼は彼女の顔を覗き込み、手を握り直して何度も名前を呼んだ。
「おい、リシェル。……なあ、返事をしてくれ」
静まり返った部屋には、ランプの火が揺れるかすかな音だけが残っていた。セレイオスは彼女の手を強く握り締めた。離した瞬間、本当にどこかへ消えてしまいそうで、どうしても手を離せなかった。
「……ふざけんなよ」
掠れた声が漏れる。
「俺、まだ何も返してねぇだろ……。これからだっただろ……」
黒い瞳に映るのは、もう二度と自分に微笑みかけることのないリシェルの姿だった。ランプの火が小さく揺れる中、セレイオスは冷えていく彼女の手を握ったまま、いつまでも動くことができなかった。
その夜、男は初めて世界を憎んだ。




