番外編 風を失った男④ 風が運んだ幸せ
そして、ある日のことだった。
その日はリシェルの誕生日だった。ところが朝から、セレイオスの様子がおかしい。普段なら朝食の席でも魔法理論を語り始める男が、今日は妙に落ち着きなく家の中を歩き回り、何度も窓の外を確認している。
「……ねぇ、セレイオス。さっきから何をそわそわしてるの?」
「別に、何もない」
「何もない人は、そんなに何度も窓の外を見ないと思うけど?」
リシェルがじっと見つめても、セレイオスは新聞に目を落としたままだった。ただし、さっきから同じページを開いているので、読んでいないのは明らかだ。
それを見ていたバルドが、酒の入った杯を片手に豪快に笑った。
「がははは! セレイオス、お前は隠し事が下手だな! そんな調子じゃ、何を企んでるのか丸分かりだぞ!」
「父さん、やっぱり何か知ってるのね?」
「さあな! 今日はめでたい日だから、朝から酒がうまいってだけだ!」
「それ、誕生日じゃなくても毎日言ってるでしょう……」
リシェルが呆れている間も、セレイオスは新聞を畳んでは窓の外を確認し、また広げては考え込んでいた。何かを準備しているのは間違いなさそうだが、本人が話す気になるまでは聞いても無駄らしい。
(……絶対、ろくでもないことを考えてるわ)
◇
夕方、セレイオスに連れられて王都中央広場へやってきたリシェルは、周囲を見回してから隣の男に目を向けた。
「それで、わざわざここまで連れてきて何をするつもりなの? 朝からずっと秘密にしてるんだから、そろそろ教えてくれてもいいでしょう?」
「もう少し待ってくれ。すぐに分かる」
「……はいはい。どうせ聞いても教えてくれないんでしょうね」
リシェルが諦めたように息を吐いた、そのときだった。広場を吹き抜けていた風が急に流れを変え、巨大な渦となって夕焼け空へ巻き上がる。驚いた人々が足を止め、衛兵たちまで何事かと空を見上げた。
「な、なんだ、あれは!?」
「誰か魔法を使ってるぞ!」
無数の風の粒子が夕焼けを受けて輝きながら王都の空を走り、やがて一つの形を作り始めた。風が集まって細い線となり、空いっぱいに文字を描いていく。広場にいた人々が次々と足を止めて見上げる中、巨大な祝いの言葉が浮かび上がった。
――『リシェル、誕生日おめでとう!』
……のはずだった。
「…………え?」
リシェルは空を見上げたまま、ぽかんと口を開けた。文字は読める。読めるのだが、「リシェル」の部分は二重に重なり、「誕生日おめでとう!」もあちこち位置がずれていた。最後の感嘆符に至っては、なぜか文章から離れた場所でひときわ大きく輝いている。
その下で、セレイオスは満足そうに腕を組んでいた。
「どうだ?」
「……どうだ、じゃないわよ。何なの、これ」
リシェルが空を指差すと、セレイオスもようやく異変に気づいたらしい。眉を寄せ、しばらく文字を眺める。
「おかしいな。計算では、きちんと並ぶはずだったんだが……」
「計算までして、これなの!?」
「当然だろう。せっかくなら、綺麗に見せたいからな」
「その気持ちは分かるけど……!」
リシェルが言いかけたところで、広場から笑い声が上がった。
「ははっ、文字が重なってるぞ!」
「最後のびっくりマークだけ、やけに立派だな!」
周囲の反応に、リシェルもとうとう堪えきれずに吹き出した。
「ふふっ……あはははっ! もう、何なのよ!」
「そこまで笑わなくてもいいだろう」
「だって、こんなに大きく描いておいて、肝心の文字がぐちゃぐちゃなんだもの!」
セレイオスは納得がいかない様子で、もう一度空を見上げた。それから、何かを思いついたように顔を上げる。
「……少し調整すれば、直せるかもしれない」
「やめておきなさい。今度は何が起こるか分からないわ」
「大丈夫だ。原因は分かっている」
「その言葉、今は信じられないんだけど……」
リシェルが慌てて腕を掴むと、セレイオスは少し残念そうに息を吐いた。
「……仕方ないか」
「もう十分よ。ありがとう」
思いがけない言葉に、セレイオスが目を瞬かせる。
「……本当に?」
「ええ。こんなこと、普通は思いついても実行しないでしょう?」
リシェルは再び空を見上げた。文字は相変わらず不格好だったが、自分のためにここまで大掛かりな魔法を用意してくれたのだと思うと、胸の奥が温かくなる。
「誕生日に笑ってほしかったんだ」
セレイオスが照れもせずに言うものだから、リシェルは返事に詰まった。からかってやるつもりだったのに、こういうときだけ真っ直ぐな言葉を向けてくる。
「……そういうところ、ずるいわね」
「褒めているのか?」
「違うわよ」
そう言いながらも、リシェルの頬は緩んでいた。夕焼けの空には、相変わらず不格好な祝いの言葉が輝いている。それを見上げながら、リシェルはもう一度、小さく笑った。
文字は少しも綺麗ではなかったけれど、自分のためにここまでしてくれたことが、何よりも嬉しかった。
♢
その後も、セレイオスは変わらずグリードホーン家に通っていた。バルドは相変わらず彼を婿扱いし、リックもすっかり気に入っている。店の手伝いから夕食まで当たり前のように加わる彼は、もはや家族の一員のようだった。
「父さん、セレイオスって、いつまでうちにいるつもりなの?」
ある日の夕食時、リシェルが向かいに座るセレイオスをちらりと見ながら尋ねると、バルドは待ってましたとばかりに笑った。
「がははは! いつまででもいいじゃねえか! そのまま婿になってくれりゃ、俺は大歓迎だぞ!」
「だから、勝手に話を進めないでってば! まだそんな話になってないでしょう?」
「そうか? 俺はもう、いつ来てもいいように席まで用意してるぞ」
「父さん!」
リックまで面白そうに笑いながら口を挟む。
「まあまあ。セレイオスがいると楽しいし、仕事もはかどるから、俺としてはこのままでも構わないけどね」
「リックまで父さんの味方なの? もう……!」
リシェルは頭を抱えた。しかも、婿扱いされている当の本人は否定するどころか、すっかり居心地よさそうにしている。
もっとも、彼女自身も、今では本気で追い返そうとは思わなくなっていた。以前は魔法の話ばかりする厄介な男だったのに、いつの間にか、彼が来ない日は家の中が妙に静かに感じるようになっていたのだ。
◇
ある日の帰り道、二人で並んで歩いていると、セレイオスがふと思い出したように口を開いた。
「リシェル。お前は、もう俺のことを嫌ってはいないんだな?」
「……何よ、急に」
「以前は会うたびに帰れと言われていたからな。最近はそこまで言われなくなったが、実際のところどう思っているのか気になったんだ」
「嫌いだったら、とっくに追い返してるわよ。毎日のように顔を見せられて、何度も魔法の話に付き合わされて、それでもこうして一緒に歩いてるんだから、少しくらい察してくれてもいいでしょう?」
「そうか」
セレイオスは納得したように頷いたあと、あまりにも自然な調子で告げた。
「なら、俺はお前が好きだ」
「……え?」
リシェルは思わず足を止めた。あまりにも唐突で、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「ちょっと待って。今の話から、どうしてそうなるのよ?」
「お前は俺を嫌っていない。俺はお前が好きだ。それなら、伝えておくべきだと思ったんだが」
「理屈は分かるけど、そういうことじゃないでしょう! 普通はもう少し、雰囲気とか順序とかあるじゃない!」
「……順序が必要なのか?」
「必要よ! 少なくとも、こんな何でもない帰り道で、急に言うことじゃないでしょう!」
セレイオスはしばらく考え込んだあと、改めてリシェルを見つめた。その表情からは、いつもの好奇心も冗談めいた軽さも消えていた。
「……だが、俺はお前と一緒にいたい。これからも隣にいたいと思っている。お前が笑っているところを見たいし、困っているなら力になりたい。だから、好きだと伝えたかった」
リシェルは口を閉ざした。いつもの調子で言い返そうとしたものの、真剣な眼差しを向けられると、うまく言葉が出てこない。
「……本当に、そういうところよね。普段は人の気持ちなんて気にしてないみたいなのに、こういうときだけ真っ直ぐなんだから」
「何か問題があるのか?」
「あるわよ。……でも、今はいいわ」
リシェルはしばらく視線を逸らしていたが、やがて小さく息を吐き、セレイオスを見上げた。
「……私も、あなたが好きよ」
セレイオスの表情がぱっと明るくなった。
「そうか。よかった」
「……もう少し格好いい返事とかないの?」
「すまない。嬉しくて、ほかに何も思いつかなかった」
あまりに素直な答えに、リシェルはとうとう笑い出した。
「ふふっ……本当に、あなたって人は……」
その笑顔を見て、セレイオスも嬉しそうに笑った。
その日から、二人は恋人になった。
後日それを聞いたバルドは「やっとか!」と大笑いし、リックも「むしろ、まだ付き合ってなかったのかと思ったよ」と呆れていた。リシェルが顔を赤くして抗議しても、家族の笑い声はなかなか収まらなかった。
そんな騒がしい日々の中で、二人は少しずつ時間を重ねていった。一緒に食事をし、他愛もない話で笑い、ときには意見がぶつかることもあった。それでも、気づけば隣にいることが当たり前になっていた。
やがて二人は、同じ未来を語るようになった。
♢
それから数年後、グリードホーン家総出の祝福に見守られながら、二人は王都の小さな教会で誓いを交わした。
式が終わり、参列者たちも帰って静けさを取り戻した教会の中で、セレイオスは隣に座るリシェルへゆっくりと視線を向けた。先ほどからずっと、彼の顔には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
「……どうしたの?」
「いや。こうして夫婦になったんだと思うと、まだ実感が湧かなくてな」
「さっきからずっと嬉しそうにしてるのに?」
「嬉しいのは間違いない。想像していたより、ずっとな」
あまりにも真っ直ぐな答えに、リシェルは思わず吹き出した。
「もう、子どもみたいな顔しちゃって。そんなに嬉しい?」
「当たり前だろう。好きな女と結婚できたんだからな」
「……そういうこと、平然と言わないでよ」
頬を赤くしたリシェルを見て、セレイオスは満足そうに頷いた。それから少し考えるように彼女を見つめる。
「お前はどうなんだ? 俺と結婚してよかったと思っているか?」
「今さら聞くの?」
「聞きたいんだ」
その真剣な様子に、リシェルは呆れたように笑いながら、そっと彼の肩にもたれかかった。
「もちろんよ。あなたと一緒になれて、私も嬉しいわ。だから、そんな心配そうな顔をしないで」
「……そんな顔をしていたか?」
「してたわよ。自分では気づいてなかったの?」
セレイオスは自分の頬に触れてから、小さく息を吐いた。
「そうか。なら、よかった」
その言葉に、リシェルはもう一度笑った。
家族がいて、帰る場所があって、愛する人がいる。セレイオスは、そんな穏やかな幸せがこれからも当たり前のように続いていくものだと、本気で信じていた。




