番外編 風を失った男① 嵐の中の出会い
※今回は、EP「赤き核の亡霊」に関わる人物たちの過去編です。本編にも関係する内容ですが、今後の展開に繋がるのはだいぶ先になる予定です。気長にお付き合いいただけると嬉しいです!
今から数百年前。後世の歴史家たちは、その時代を「魔道時代」と呼ぶ。
当時、魔法使いは今ほど珍しい存在ではなかった。各国には数百人もの魔導師が在籍し、戦争や開拓、研究、魔物の討伐など、あらゆる場面で魔法が使われていた。魔法技術は飛躍的に発展し、人々はかつてない繁栄を享受していたのである。
しかし、その繁栄の裏では、深刻な問題も生じていた。魔法技術の発展に伴い、魔物たちが素材として次々と狩られるようになったのだ。竜種や高位魔獣の多くは絶滅寸前にまで追い込まれ、今では下級魔物とされるゴブリンでさえ、人間を恐れ、森の奥深くで細々と生き延びるしかなかった。人々が魔法の可能性を広げていく一方で、世界の生態系は少しずつ歪み始めていた。
そんな時代に、ひときわ異彩を放つ魔導師がいた。“風”の名を冠するだけで戦場の空気を一変させる男、セレイオス=ヴァルドである。
黒髪に黒い瞳を持つ青年で、大陸西部の魔法大国《アルスレイア王国》では風魔法の第一人者と称され、若くして王国直属魔導師の頂点へと上り詰めた。その実力はほかの魔導師たちを大きく引き離しており、戦場では“風王”の異名で知られていた。
その名は王国内の魔導師たちの間でも、たびたび話題に上っていた。
「またセレイオスが風の結界を一人で張ったらしいぞ。しかも、三重に重ねた結界を移動しながら維持していたって話だ」
「三重を動かしながらか? 相変わらず、とんでもねぇな。先月だって砦を丸ごと守ったうえ、攻めてきた敵軍まで吹き飛ばしたんだろ?」
「そうそう。あれも一人でやったらしい。もう、あいつ一人で軍隊みたいなもんだろ」
王国軍の兵士たちは、半ば呆れながらも感心した様子で噂していた。誰かが「敵からすれば、たまったもんじゃないな」と笑うと、周囲からも同意する声が上がる。彼らがそう語るのも無理はなかった。“風王”セレイオス=ヴァルドの名は、戦場そのものを左右する存在として大陸中に知れ渡っていたのだから。
だが、そんな彼の人生も、ある任務を境に決定的に狂い始めることになる。
きっかけとなったのは、魔法素材の採取任務だった。希少な魔獣素材や高純度の魔石を求め、別大陸へ向かう調査船団に同行する。それ自体は決して珍しい仕事ではなく、セレイオスも最初は、いつもより少し遠出する程度にしか考えていなかった。
「退屈な航海になりそうだな」
甲板の上で、指先に小さな風を纏わせながらセレイオスが呟く。隣にいた同僚の魔導師は、海を眺めながら苦笑した。
「お前がそう言うと、かえって不安になるんだが。そもそも、お前が呼ばれる任務って、毎回何かしら面倒なことが起きている気がするぞ」
「それは任務の選び方が悪いんじゃないか?」
「よく言う。前回だって、討伐隊が手こずっていた上級魔獣を見つけるなり、一人で突っ込んでいっただろう。あのときは、こっちが後始末にどれだけ苦労したと思っているんだ」
「結果的に討伐できたんだからいいだろう」
「そういう問題じゃないんだよ……」
同僚が呆れたように息を吐くと、セレイオスは悪びれる様子もなく肩をすくめた。それから、広がる海を見渡して口元を緩める。
「まあ、今回は素材採取だ。わざわざ大騒ぎするような相手もいないだろうし、さすがに何も起きないさ」
「その自信がどこから来るのか知らんが、俺は何事もなく帰れるよう祈っておくよ」
「好きにしろ。帰ったら、今回の航海がどれだけ平穏だったか、たっぷり聞かせてやる」
「その話を聞けることを楽しみにしているよ」
二人は顔を見合わせて笑った。少なくとも、このときの彼らには、今回の任務が人生を変えるほどの出来事につながるとは思いもしなかった。
――あの嵐が訪れるまでは。
それは、あまりにも突然だった。空が裂けたかのような轟音が響いた直後、海が狂ったように荒れ始める。巨大な波が船体へ押し寄せ、風向きは常識を失ったように次々と変わり、海面にはいくつもの渦が巻き始めた。
「なんだ、この風は!? 舵が利かねぇぞ!」
「帆を下ろせ! 船を止めるんだ!」
「無理だ! 波が強すぎる!」
甲板の上を船員たちが駆け回り、怒号が飛び交う。魔導師たちも慌てて魔法を展開するが、吹き荒れる風に術式が次々とかき消されてしまう。船長が魔導師たちへ助けを求めても、返ってきたのは「この風では術式を維持するだけで精一杯だ!」という悲鳴にも似た返答だった。
そのとき、船体が大きく傾いた。甲板にいた船員たちが次々と足を取られ、誰かの悲鳴が荒れ狂う風にかき消されていく。これまでどこか遠いものだった「死」という言葉が、一気に現実味を帯びていた。
セレイオスも即座に動いた。
(まずい。この規模じゃ、風の結界だけでは支えきれん)
セレイオスは頭の中で瞬時に魔力の流れを組み立て、船体を覆う防御結界と、風圧を相殺するための術式を準備した。だが、これほどの嵐を相手にすれば、どれだけ魔力を注ぎ込んでも長くは持たない。それでも、何もしなければ船ごと海に呑まれるだけだった。
(……それでも、やるしかない)
セレイオスが魔法を発動しようとした、その瞬間、甲板の向こうで一人の女性が静かに手を掲げた。
「――《シールド》」
その声が響いた直後、船全体を包み込むように巨大な結界が一瞬にして展開された。
透明な境界は船を丸ごと覆い、まるで空間そのものを切り分けるかのように広がっていく。叩きつけていた暴風は見えない壁にぶつかると左右へ逸れ、船体を押し潰そうとしていた巨大な波さえ、結界に触れたところから二つに分かれて船の両脇を流れていった。
あれほど荒れ狂っていた海が、船だけを避けている。まるで、この船だけが世界から切り離されたかのようだった。
「……なんだ、これは」
誰かが呆然と呟いた。船はまだ揺れていたものの、先ほどまでのように今にも海へ投げ出されそうな危うさはなくなっている。船員たちは信じられないものを見るように周囲を見回し、やがて結界の外で荒れ狂う海へ目を向けた。
「嵐が……避けているのか?」
「いや、違う。結界だ……誰かが船全体を守っている!」
セレイオスもまた、目の前に広がる魔法を見つめていた。
(……何だ、この魔法は)
風を操ることなら、誰よりも理解しているつもりだった。だが、これは自分の知る風魔法とはまるで違う。風や波を押し返すのではなく、船の周囲を結界で覆い、嵐そのものを遠ざけているようだった。これほどの規模の結界を一人で展開し、安定して維持していることに、セレイオスは驚きを隠せなかった。
結界の中心には、一人の女性が立っていた。長い金髪が風に揺れ、透き通るような青い瞳が荒れ狂う海を見据えている。彼女の周囲には雨風さえ届かず、その姿はまるで嵐の中に咲く花のようだった。セレイオスが思わず見入っていると、女性がふとこちらへ視線を向けた。
「……安心してください。もう大丈夫です。誰も死なせません」
穏やかな声だった。大声ではないのに不思議なほどよく通り、その言葉を聞いた船員たちの間に、わずかな安堵が広がった。
「助かった……のか?」
「詠唱もなしに、あんな魔法を……?」
困惑と驚きの声が上がる中、セレイオスだけは彼女から目を離せずにいた。
(……こんな魔法が、あるのか)
悔しさはなかった。ただ、自分の知らない魔法が存在し、それを目の前の女性が当たり前のように操っている。その事実に、胸の奥から抑えきれない興奮が込み上げてきた。そして、彼女の青い瞳と再び目が合った瞬間、気づけば言葉が口をついて出ていた。
「……綺麗だ」
それが魔法に対する感嘆だったのか、彼女自身への想いだったのか、このときのセレイオスにはまだ分からなかった。ただ、彼女の姿も、その魔法も、もう忘れられそうになかった。
「……君は、一体誰なんだ」
問いかけは、再び轟いた雷鳴にかき消された。
彼女の名は、リシェル・グリードホーン。この出会いが、やがてセレイオスの人生を大きく変え、最後にはそのすべてを狂わせることになる。
ーーーーー
嵐を乗り越え、船がどうにかノルヴェイン大陸の港へ辿り着いた直後のことだった。
船員たちが荷下ろしを始める中、セレイオスは人混みの向こうに、あの金髪の女性の姿を見つけた。リシェルは周囲の騒がしさなど気にも留めず、荷物を手に港の出口へ向かっている。あの結界について、まだ何一つ聞けていない。そう思ったセレイオスは、考えるより先に彼女の後を追っていた。
「おい、待ってくれ!」
呼び止められたリシェルが振り返る。その顔には警戒というより、また面倒な相手に捕まった、とでも言いたげな表情が浮かんでいた。
「……何かしら?」
「さっきの結界について聞きたいんだ。あれだけの規模の魔法を、あの嵐の中で一人で維持していたんだろう? どうやっていたんだ? 空間そのものを固定しているように見えたが、あれは境界を独立させて――」
「ちょっと待って。あなた、さっきから魔法の話しかしないけど、私たち今日初めて会ったのよ?」
「そうだな」
「だったら、まずは助けてくれてありがとう、とか、そういう言葉があるでしょう?」
セレイオスはそこで初めて、彼女が何を言いたいのか理解したように頷いた。
「ああ、そうだったな。助けてくれてありがとう。君のおかげで命拾いした」
「……今さら言われても、なんだか調子が狂うわね」
「そうなのか? 礼を言うのが遅れたのは悪かった。だが、あれほどの魔法は本当に見たことがないんだ。できれば、仕組みだけでも教えてもらえないだろうか」
あまりにも真剣な顔で頼まれ、リシェルは一瞬言葉に詰まった。悪意がないのは分かる。むしろ、目の前の男は魔法のことしか頭にないようだった。
「……私はあなたの研究仲間じゃないの。初対面の相手に、いきなり術式の話を根掘り葉掘り聞かれても困るわ」
「それは分かっている。だが、気になるものは気になるんだ」
「分かってないから、そういうことを言うんでしょう……」
リシェルは額を押さえてため息をついた。そもそも、目の前の男は自分の名前すら知らないはずだ。案の定、セレイオスは何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。俺はセレイオス=ヴァルドだ。君の名前を教えてくれないか?」
「……聞き方が急すぎるのよ」
「そうか。では、改めて聞こう。君の名前を教えてほしい」
「嫌よ」
「なぜだ?」
「初対面だからに決まっているでしょう?」
セレイオスは少し考え込んだあと、真顔で尋ねた。
「では、知り合いになれば教えてくれるのか?」
「そういう問題じゃないの!」
思わず声を荒らげたリシェルを、近くを通りかかった船員たちがちらりと振り返る。彼らは先ほど嵐の中で結界を張った女性と、風魔法の使い手として知られる魔導師が言い合っているのを見て、何とも言えない顔を見合わせた。
「……あれ、さっきの魔導師だよな? 助けてもらった相手に何をやってるんだ?」
「女の人、完全に困ってるじゃねぇか。少しは空気を読んでやれよ……」
そんな囁きが聞こえてきても、セレイオスはまるで気にしていなかった。彼にとって今は、周囲の目よりも目の前の魔法のほうが重要らしい。
「俺は君の魔法が知りたい。あれほどの結界を使える理由が分かれば、風魔法にも応用できるかもしれないんだ」
「私は教えるつもりはないわ。そもそも、あなたが何を研究しているのかも知らないもの」
「なら、まずはそこから話そう。俺は王国直属の魔導師で、風魔法を専門にしている。君の魔法について知ることができれば、俺にとっても君にとっても有益だと思うんだが」
「……あなた、自分がどれだけ面倒なことを言っているか分かってる?」
「面倒かどうかはともかく、興味があるのは確かだ」
悪びれもせず答えるセレイオスに、リシェルはもう一度ため息をついた。
「私はもう行くわ。あなたも、いつまでもここにいないで仕事に戻ったら?」
「いや、まだ話が終わっていない」
「私はとっくに終わっているの!」
リシェルは背を向けて歩き出したが、数歩進んだところで後ろから足音がついてくることに気づいた。振り返ると、セレイオスが当然のような顔で歩いている。
「……どうしてついてくるのよ」
「君の魔法について、もう少し話を聞きたいからだ」
「だから、話すことはないって言ってるでしょう!」
「そうか。だが、まだ聞きたいことが残っている」
「あなた、本当に人の話を聞かないわね……!」
リシェルは呆れ果てた様子で頭を振った。ところが、セレイオスは少しも怯むことなく、まっすぐ彼女を見つめて言った。
「興味があるんだ。君の魔法にも、君自身にも」
「……魔法だけじゃなくて、私にも?」
「ああ。あれほどの魔法を扱う人間が、どんな考えであの結界を作り上げたのか知りたい。君が何を見て、何を考えて、あの場であれを使おうと思ったのか。それが分かれば、もっと理解できる気がするんだ」
その言葉に、リシェルは一瞬だけ目を瞬かせた。先ほどまでの無遠慮な質問とは違い、そこには純粋な好奇心があった。もっとも、だからといって初対面の相手につきまとわれていい理由にはならない。
「……本当に面倒な人ね」
「よく言われる」
「自覚があるなら直しなさいよ」
「努力はしよう」
「その返事、絶対に直す気がないでしょう……」
リシェルは呆れながらも、とうとう歩みを止めた。これ以上追い払おうとしても、どうせこの男は諦めない。ならば、せめて自分の条件を聞かせておいたほうがよさそうだった。
「分かったわ。勝手についてくるのは好きにすればいい。ただし、私の仕事の邪魔はしないこと。依頼先で勝手に魔法を使ったり、私の術式を勝手に分析したりするのも禁止よ」
「……術式の分析は、見ているだけでも駄目なのか?」
「駄目に決まっているでしょう!」
「分かった。気をつける」
「『しない』って言い切りなさいよ……!」
こうして、リシェルの不本意な了承を得たセレイオスは、彼女の後をついていくことになった。
◇
それから数日、セレイオスは本当にリシェルの後を追い続けた。彼女が依頼先へ向かえば、いつの間にか近くにいる。宿を出れば少し離れた場所を歩いており、食堂へ入れば、まるで待ち合わせでもしていたかのように同じ店で食事をしていた。
最初のうちは、そのたびにリシェルも文句を言っていた。
「……またあなたなの? 昨日も一昨日も会ったでしょう」
「そうだな。今日はどこへ行くんだ?」
「教えないわよ。というか、どうして毎回いるの?」
「君がどこへ行くのか気になるからだ」
「その好奇心、別のことに向けられないの?」
「今のところ、君の魔法以上に興味を引くものはないな」
「……本当に筋金入りね」
呆れて肩を落とすリシェルに、セレイオスは悪びれもせず笑った。彼は確かに人の話を聞かないところがあったが、依頼の最中に邪魔をしたり、彼女が嫌がることを無理にさせたりすることはなかった。約束したことは守る。そのため、リシェルも次第に、彼が近くにいること自体には文句を言わなくなっていった。
ある日、依頼を終えて街へ戻る途中、セレイオスがいつものように魔法の話を始めた。
「そういえば、あの結界は風の流れを利用しているのか? それとも、周囲の空間そのものに干渉している?」
「……まだその話をするの?」
「気になって仕方がないんだ。少しでも仕組みが分かれば、俺の魔法にも応用できるかもしれないからな」
「あなたの風魔法だって、十分すごいじゃない。船の上で見たけど、あの嵐の中でも結界を張ろうとしていたでしょう?」
「だが、俺一人では船を守りきれなかった。君の魔法がなければ、全員助からなかっただろう」
その言葉には、いつもの好奇心とは違う真剣さがあった。リシェルは少しだけ表情を和らげる。
「……それは、そうね。私だって、あのときは必死だったもの。船が沈みそうだったし、考えるより先に身体が動いていたのよ」
「それでも、あの状況であれだけの結界を展開できるのはすごいことだ。俺なら、もっと別の方法を考えていたと思う」
「あなたは風魔法が得意なんでしょう? だったら、あなたにしかできないことだってあるはずよ。私の魔法がすごいからって、何もかも真似する必要はないわ」
セレイオスは少し意外そうに彼女を見たあと、ふっと笑った。
「……なるほど。確かに、そうかもしれないな」
「でしょう? 少しは分かってくれた?」
「ああ。だが、君の魔法について知りたいという気持ちは変わらない」
「そこは変わらないのね……」
リシェルは呆れたように笑った。相変わらず魔法への興味は尽きないらしい。それでも、以前ほど彼を鬱陶しいとは思わなくなっていた。
やがて、調査船団が元の大陸へ戻る日がやってきた。
◇
帰還する船が港へ着くと、リシェルは荷物をまとめながら、ひそかに決意していた。
(……もう限界。これ以上つきまとわれたら、仕事どころじゃないわ)
数日間一緒に過ごして、リシェルは嫌というほど思い知らされていた。この男は、一度興味を持った相手にはどこまでも食い下がる。魔法の話になれば周りが見えなくなり、何度断ってもまるで懲りない。しかも、本人に悪気がないのだから厄介だった。
船が港に着くと、リシェルはセレイオスが降りてくる前に、さっさと船を降りた。荷物を抱えた船員や商人たちに紛れて歩き、建物の陰まで来たところで、そっと船のほうを振り返る。
「……よし。今のうちに逃げましょう」
ようやく一息ついた、その直後だった。
「リシェル! 待ってくれ!」
「……嘘でしょ!?」
聞き覚えのある声に振り返ると、セレイオスが人混みをかき分けて走ってくる。リシェルは思わず額を押さえた。
「なんで追いかけてくるのよ! 船を降りたんだから、もういいでしょう!?」
「まだ聞きたいことがあるんだ!」
「だから、答えないって言ったでしょう!」
「それは分かっている。だが、君と話したいんだ!」
「分かってるなら諦めなさいよ!」
悪びれもせず言い返され、リシェルは頭を抱えた。話が通じない。いや、こちらの言葉を理解したうえで無視しているのだから、余計にたちが悪い。
「もう、ついてこないで!」
リシェルは荷物を抱え直し、足早に逃げ出した。
「待ってくれ、リシェル!」
「名前を呼びながら追いかけてこないで!」
「では、どうすれば話を聞いてくれるんだ!?」
「まず追いかけるのをやめなさい!」
港を行き交う人々が、何事かと二人を振り返る。商人が慌てて道を空け、船員たちは呆れた顔でその様子を見送っていたが、当の二人は周囲の視線など気にも留めず、人混みの中を駆け抜けていった。
やがてリシェルが建物の角を曲がり、その姿が見えなくなる。セレイオスはようやく足を止め、周囲を見回した。
「……逃げられたか」
残念そうに呟いたものの、諦める気はないらしい。彼は港の中央へ歩み出ると、周囲の人々が振り返るのも構わず、大声で叫んだ。
「リシェル! 俺は必ず君を見つけ出す!」
港中の視線が一斉に集まった。建物の陰に身を潜めていたリシェルは、思わず顔を引きつらせる。
「……お願いだから、余計なことをしないで!」
小声で悪態をつく彼女の耳に、遠くから人々の囁き声が届く。どうやら、セレイオスのせいで妙な噂まで立ちそうだった。
一方、当の本人は満足げに頷いていた。
「よし。これで次に会ったときも、俺の名前を覚えていてくれるだろう」
「……何もよくないわよ」
リシェルの呟きは、もちろんセレイオスには届かなかった。
彼の頭を占めているのは、嵐の中で自分には理解できない魔法を操っていた彼女のことばかりだった。あの魔法の正体を知りたい。そして、できることなら、もう一度あの青い瞳を見たい。本人はまだ、それを単なる好奇心だと思っていた。
この出会いが自分の人生を変えることになるとは、セレイオスはまだ知らない。ましてや、彼女を追い求める想いが、やがて自分から「風」さえも奪うことになるなど、想像もしていなかった。
後に「風を失った男」と呼ばれるセレイオス=ヴァルド。その人生を大きく変える恋は、こうして始まった。




