番外編 SIDEエリシア・グレイロード 変わらない明日を信じて
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春の柔らかな陽気が屋敷を包んでいた。リューベルク家の裏手に広がる果樹園では、六歳になったエリシアが、両手いっぱいに赤い実を抱えて駆け回っている。
「おかあさまー! 見て、見て!」
満面の笑みで母のもとへ駆けていく途中、エリシアは草の盛り上がりに足を取られた。
「きゃっ!」
小さな身体が前へ傾き、抱えていた実が芝生の上へ散らばる。エリシアはその場に尻もちをつき、擦りむいた膝を見て顔をしかめた。
「いたぁ……」
「エリシア、大丈夫?」
ネイアがすぐに駆け寄り、娘の膝についた土をハンカチで拭いながら傷を確かめる。幸い、擦りむいただけで大した怪我ではなかった。
「ここ、ちょっと痛い……でも、泣かなかったよ!」
「ええ、偉いわね。でも、走るときはちゃんと前を見ないと駄目よ」
「はーい!」
ネイアに頭を撫でられ、エリシアは誇らしげに胸を張った。その様子を木陰から見ていたエドガーが、愉快そうに笑う。
「はははっ、元気なのはいいが、少しは落ち着いたらどうだ?」
「お父さま、まだ六歳なんですから。元気なくらいでちょうどいいですわ」
ネイアが振り返ると、隣にいたリゼットがくすりと笑った。
「そうねぇ。ネイアも小さい頃は、よく走り回っていたものね」
「お母さままで……」
「ふふっ、そっくりなところもあるということよ」
ネイアが困ったように笑うと、エドガーは納得したように頷いた。
「なるほど。親子そろってお転婆というわけか」
「もう、お父さまったら」
そんな大人たちの会話をよそに、エリシアは散らばった実を拾い集めていた。やがて両手いっぱいになった実を抱え直すと、ネイアのもとへ戻ってくる。
「おかあさま、これ、いっしょに食べよう?」
「ありがとう。じゃあ、きれいに洗いましょうね」
「エリシアもお手伝いする!」
「ええ、お願いね」
ネイアが微笑むと、エリシアも嬉しそうに笑った。
「おじいさまとおばあさまも、一緒に食べようね!」
「おお、それは楽しみだな」
エドガーが目を細め、リゼットも優しく頷く。家族が笑いながら実を集めていると、果樹園の入口から二人の人影が現れた。
「ずいぶん賑やかだな。何をしているんだ?」
声をかけてきたのは、ネイアの弟であるレオンだった。その隣には、ふっくらと膨らんだお腹を優しく支えるクラリスがいる。
「あら、二人とも来ていたのね」
「ええ。天気がいいから、少し散歩をしようと思って。ここは日当たりもよくて気持ちがいいわね」
「そうだろう。この時期の果樹園は格別だからな」
エドガーが答えると、エリシアは二人に気づいて顔を輝かせた。
「レオンおじさま! クラリスおばさま!」
拾った実をネイアに預け、エリシアは二人のもとへ駆け寄った。そして、クラリスのお腹を見上げると、期待に満ちた目で尋ねた。
「ねえねえ、お腹の赤ちゃん、もうすぐ生まれるの?」
「そうね。もう少ししたら会えると思うわ」
「本当に? じゃあ、エリシア、お姉ちゃんになるんだね!」
嬉しそうに飛び跳ねるエリシアを見て、クラリスは優しく微笑んだ。
「ええ。きっと、いいお姉ちゃんになれるわね」
「うん! 赤ちゃんといっぱい遊んであげる!」
「ははっ、頼もしいな。でも、生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ一緒に遊べないぞ?」
レオンが笑いながら言うと、エリシアは不思議そうに首を傾げた。
「えーっ、そうなの?」
「ああ。だから、もう少し大きくなるまでは、優しくしてやってくれよ」
「分かった! エリシア、お姉ちゃんだからね!」
胸を張るエリシアに、レオンは笑いながら頭を撫でた。
「その調子だ。じゃあ、赤ちゃんのお世話も手伝ってくれるか?」
「うん! 約束!」
小さな指を差し出すエリシアと指切りを交わし、レオンは満足そうに頷いた。隣ではクラリスが、お腹にそっと手を添えている。
「ふふっ。この子たちも、きっと喜ぶわね」
「この子たち?」
エリシアが目を丸くすると、クラリスは少し驚いたように笑った。
「あら、まだ聞いていなかったのね。お腹の赤ちゃんは二人いるのよ」
「えっ! 二人も!?」
エリシアは驚いて、クラリスのお腹をじっと見つめた。
「そうよ。一度に二人のお姉ちゃんになるのね」
「すごい! 赤ちゃんが二人もいるんだ!」
驚きが落ち着くと、エリシアは期待に満ちた顔で尋ねた。
「ねえ、男の子? 女の子?」
「それは生まれてからのお楽しみね。二人とも元気に生まれてきてくれるといいわ」
「そっかぁ……。女の子もいるといいな! 一緒にお人形で遊べるもん!」
「男の子だったら遊んでやらないのか?」
レオンがからかうように尋ねると、エリシアは慌てて首を振った。
「そんなことないよ! 男の子でも一緒に遊ぶもん。でも、女の子もいたら嬉しいの!」
「ははっ、そうかそうか」
レオンが笑い、クラリスも楽しそうに目を細めた。
「エリシアみたいなお姉ちゃんがいたら、二人ともきっと嬉しいでしょうね」
「うん! いっぱい遊んであげるからね!」
エリシアはクラリスのお腹に顔を近づけ、小さな声で呼びかけた。
「赤ちゃん、早く生まれてきてね。エリシア、待ってるから!」
その愛らしい姿に、ネイアたちも自然と笑みを浮かべた。やがてネイアが弟へ目を向ける。
「それで、レオン。父親になる準備は進んでいるの?」
「……まあ、少しずつな」
「その様子だと、まだまだこれからみたいね」
「姉さん、そう急かすなよ。楽しみにはしてるんだからさ。ただ、二人も生まれるとなると、何から準備すればいいのか分からなくてな」
レオンが困ったように頭を掻くと、クラリスがそっとその腕に触れた。
「二人で少しずつ考えていきましょう。きっと何とかなるわ」
「……そうだな。頼りにしてるよ」
「ふふっ、こちらこそ」
顔を見合わせて笑う二人を見て、ネイアとリゼットも微笑んだ。
春の陽射しが降り注ぐ果樹園には、赤い実を抱えたエリシアの弾む声と、家族の穏やかな笑い声がいつまでも響いていた。
* * *
その後もしばらく果樹園で過ごした一家は、やがて屋敷へ戻り、おやつの時間を迎えた。客間のテーブルには焼きたての焼き菓子が並び、エリシアは席につくなり一つを手に取って頬張った。
「おいしい! これ、もう一つ食べてもいい?」
「ふふっ、もちろんよ。でも、そんなに急いで食べなくても、まだたくさんあるわ」
ネイアに笑いながらたしなめられても、エリシアは「だって、おいしいんだもん」と頬を緩め、さっそく二つ目に手を伸ばした。その様子を見ていたレオンが、面白そうに笑う。
「食べるのに夢中なところは姉さんそっくりだな。子供の頃も、こんなふうに食べてたんじゃないか?」
「もう、どうして私まで巻き込むのよ。エリシアが美味しそうに食べているんだから、それでいいでしょう?」
ネイアが呆れたように返すと、クラリスは自分のお腹に手を添えて微笑んだ。
「ええ。元気に食べている姿を見ていると、私もこの子たちに早く会いたくなるわ。生まれてきたら、どんな子たちなのかしらね」
「俺も楽しみにしてるよ。いろいろ教えてやりたいけど、まずは元気に生まれてきてくれるのが一番だな」
「そうね。でも、あなたが何を教えるつもりなのかは少し気になるわ」
「おいおい、俺だって父親になるんだぞ? それくらい考えてるさ」
「ふふっ、本当に頼りにしているわ」
クラリスに笑顔で返され、レオンは少しばかり困った顔をした。そんな二人を眺めていたリゼットが、懐かしそうに目を細める。
「あなたたちも、もう親になるのね。こうして家族が増えていくのは嬉しいことだわ」
「母さん、まだ生まれてもいないのに、そんなにしみじみしなくてもいいだろ」
「そうかしら? あなたが小さかった頃のことを思い出しただけよ」
「……その話は、できればまた今度にしてくれ」
レオンが苦笑すると、客間に笑い声が広がった。ふとネイアが隣を見ると、エリシアはいつの間にか焼き菓子を食べ終え、口元に欠片をつけたまま満足そうにしている。
「エリシア、口元についているわよ。まったく、夢中になって食べるんだから」
ネイアがハンカチで拭ってやると、エリシアは照れくさそうに笑い、母の胸元へ寄りかかった。そんな娘の姿を見ながら、ネイアは家族と過ごす穏やかな午後を楽しんでいた。
* * *
やがて帰り支度を始めた頃、レオンがネイアに声をかけた。
「そういえば姉さん、明日にはグレイロード領へ戻るんだろ? アルヴァルト殿も、そろそろ帰ってきてほしいと思ってるんじゃないか?」
「ええ、そうなの。あまり長く家を空けるわけにもいかないしね。でも、こうして家族みんなでゆっくり過ごせる機会は少ないでしょう? もう少しここにいたい気持ちもあるわ」
名残惜しそうに屋敷を見渡すネイアに、クラリスが微笑みかけた。
「またいつでも来てくださいね。今度はエリシアちゃんも泊まりに来てくれたら嬉しいわ」
その言葉を聞いたエリシアが、ぱっと顔を輝かせた。
「本当? お泊まりしてもいいの? だったら、次はもっとたくさん遊びたい!」
「もちろんよ。お部屋も用意しておくから、いつでもいらっしゃい」
リゼットが答えると、エリシアは嬉しそうに祖母へ駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。
「おばあさま、大好き!」
「ふふっ、私も大好きよ」
リゼットが小さな頭を撫でていると、そばで見ていたエドガーがわざとらしく咳払いをした。
「……エリシア、祖父のことも忘れてはいないだろうな?」
少し拗ねたような声に、ネイアは思わず笑った。
「お父さま、孫にまで張り合わなくてもいいじゃありませんか」
「張り合ってなどいない。ただ、私にも何か言ってくれてもいいだろう」
エドガーがもっともらしく言い返すと、エリシアはすぐに祖父のもとへ駆け寄った。
「おじいさまも大好き! また一緒に遊ぼうね!」
「お、おう! もちろんだとも」
勢いよく抱きつかれたエドガーは一瞬たじろいだものの、すぐに孫を抱きとめ、大きな手で頭を撫でた。その顔には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
「親父、そんなに嬉しいなら最初から素直に言えばよかったんだよ」
「……レオン、余計なことを言うな」
レオンが笑い、クラリスもつられて微笑む。そんな家族のやり取りを眺めていたネイアは、そろそろ出発しようと娘に声をかけた。
「エリシア、そろそろ行きましょう。あまり遅くなると、帰る頃には暗くなってしまうわ」
「もう行くの? ……またすぐ来てもいい?」
「ええ、もちろん。次はお泊まりもできるんだから、楽しみにしていましょうね」
ネイアが手を差し出すと、エリシアは少し名残惜しそうに屋敷を振り返ってから、その手を握った。門のところでは、リゼットとエドガー、レオンとクラリスが並んで二人を見送ってくれている。
「また来るね! おじさま、赤ちゃんが生まれたら教えてね! クラリスおばさまも、元気な赤ちゃんを産んでね!」
「ああ、ちゃんと知らせるよ。次に会うときには、二人にも会えるかもしれないな」
「うん! 楽しみにしてる!」
エリシアは嬉しそうに頷き、最後にエドガーを見上げて大きく手を振った。
「おじいさまも、またね!」
「ああ、いつでも来なさい。次に会えるのを楽しみにしているぞ」
エドガーの言葉に、エリシアは大きく頷いた。ネイアと一緒に馬車へ乗り込むと、窓から身を乗り出すようにして、見送りに立つ家族へ何度も手を振った。
「こら、エリシア。危ないわよ」
ネイアに肩を引き寄せられ、エリシアは渋々座り直した。それでも窓の外を覗き込み、屋敷が見えなくなるまで家族を見つめていた。
夕日に染まった白樺の木々が、馬車の窓の向こうをゆっくりと流れていく。
「おかあさま、次に来たときには赤ちゃんが生まれているかな?」
「どうかしら。予定どおりなら、まだ少し先でしょうね」
「そっかぁ……。早く会いたいな。生まれたら、いっぱい遊んであげるんだ!」
エリシアは嬉しそうに笑い、窓の外へ目を向けた。次に来るときは、赤ちゃんと一緒に遊べるだろうか。今日よりもっとたくさん遊んで、いろんな話をしてあげよう。そんな未来を思い描きながら、エリシアは遠ざかる景色を眺めていた。
幼いエリシアは、またこの場所へ帰ってこられることを疑っていなかった。
* * *
それから数年。あの日、白樺の木の下で笑い合っていた家族は、それぞれの日常を過ごしていた。エリシアは貴族としての教育を受けながら剣の稽古に励み、ネイアも当主の妻として領地の運営を支えていた。リューベルク家との交流も変わらず続き、時折訪れる屋敷では、以前と同じように笑い声が響いていた。
しかし、王国北部では少しずつ情勢が変わり始めていた。
当時、グレイロード家の周辺では小領主同士の争いが絶えず、国境付近には盗賊と化した傭兵団も出没していた。領地や権益を守るため、各領主が互いに牽制し合う中、グレイロード家は幾度もの戦いを制し、周辺の領地を次々と取り込んでいった。戦いを重ねた兵士たちは実戦を通じて鍛えられ、領地の拡大とともに一族の発言力も増していく。やがてグレイロード家は、北部の勢力図を左右するほどの存在となった。
その台頭を警戒したのが、古くから北部最大の勢力として君臨してきたアルデン家だった。両家は当初こそ一定の距離を保っていたものの、グレイロード家が勢力を広げるにつれ、領境を巡る衝突が増えていく。争いは村や街道の利権、徴税権、周辺領主たちを巡る勢力争いへと発展し、外交による解決も次第に難しくなっていった。互いに譲れないものが増える中、小さな衝突は積み重なり、ついに両家は北部の覇権を懸けて正面から戦うことになる。
戦争は三年にわたって続いた。多くの兵士が命を落とし、村や街は戦火に包まれた。戦場から遠く離れた土地でも、兵士の徴募によって働き手が減り、物資が不足し、故郷を追われた人々が流れ込んでくる。戦争は戦場に立つ者だけのものではなかった。人々の暮らしを少しずつ蝕み、昨日まで当たり前だった日常さえ奪っていった。
そして三年後、戦争はアルデン公爵家の勝利によって幕を下ろした。敗れたグレイロード家は勢力を失い、北部の支配構造も大きく変わった。だが、勝敗が決まったからといって、失われたものが戻るわけではない。焼け落ちた家も、荒れた畑も、帰らなかった家族も、戦争が終わったという一言で元に戻ることはなかった。
あの日、「また来るね」と笑って手を振った幼いエリシア。彼女もまた、この戦争によって大切なものを失い、思い描いていた未来とは違う道を歩むことになる。
穏やかな日々は終わった。それでも、戦争を生き延びた人々には、その先の人生がある。失ったものを抱えながら、それぞれが新たな道を歩き始める。
そして、それぞれの物語は続いていく。




