番外編 SIDEエリシア・グレイロード 逃亡の果て、帰る場所②
次話でエリシア(幼少期視点)最後です。ながながとすみません。
屋敷の中は静かだった。厚い石壁と敷かれた絨毯のおかげか、外の風音もほとんど聞こえない。
エリシアを出迎えた祖父のエドガーに案内され、応接室へと入る。室内には長く大切に使われてきたことが伝わる家具や調度品が並び、グレイロード家とは違った穏やかな空気が漂っていた。それでも、血と泥にまみれた自分の姿だけは、この場所にひどく場違いなものに思えた。
「さあ、座りなさい」
エドガーに促され、エリシアはソファへ腰を下ろした。途端に脇腹へ鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「その傷、ちゃんと手当てできていないんでしょう?」
心配そうに声をかけたのは、叔父レオンの妻であるクラリスだった。
「応急処置だけよ。逃げるのを優先したから」
「そんな身体で、ここまで来たの? まずは傷を診てもらわないと駄目よ」
「分かっているわ。あとでお願いする」
エリシアが苦笑すると、クラリスはまだ心配そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
応接室にはエドガーとリゼットのほか、母の弟にあたるレオンとその妻クラリス、二人の子どもであるアルノーとミリアも揃っていた。突然現れた親族をどう迎えればいいのか、皆まだ戸惑っているようだったが、無理に事情を聞き出そうとする者はいない。エリシアが話し始めるのを、静かに待っていた。
やがて、エドガーが口を開いた。
「……話せる範囲でいい。何があった?」
エリシアはしばらく黙っていた。何から話せばいいのか、考えがまとまらない。それでも、ここまで来た以上、何も話さずにいるわけにはいかなかった。乾いた唇を湿らせ、ゆっくりと口を開く。
「……戦争のことは、知っていると思うけれど」
「ああ。こちらにも噂は届いていた。ただ、途中から何の知らせも入らなくなった。戦況がどうなったのか、詳しいことは分からないままだ」
レオンの言葉に、エリシアは膝の上で手を握りしめた。
「グレイロードは負けたわ。兵は散り散りになり、街も荒れた。家臣たちも半分以上が逃げていったわ。昨日まで忠誠を誓っていた人たちが、いざ負けそうになると真っ先にいなくなるんだから……呆れるしかないでしょう?」
「……そこまで酷い有様だったのか」
レオンは苦い顔をした。エリシアは自嘲するように笑ったが、その表情に笑いはなかった。
「でも、戦争が始まる前から、もう限界だったのよ。食料は足りないし、税は上がる一方。兵にだってまともな給金を払えていなかった。それで勝てると思っていたんだから……負けるのは時間の問題だったわ」
「誰か、止めようとはしなかったのか?」
「いたわ。でも、お父様は聞く耳を持たなかった。反対する人は遠ざけられて、残ったのは賛成する人ばかり。敵が攻めてくる前から、グレイロードは内側から崩れていたのよ」
エリシアの言葉に、レオンもクラリスも黙り込んだ。アルノーとミリアも、何かを言いかけては口を閉じ、ただ彼女を見つめている。
しばらくして、レオンがためらいがちに口を開いた。
「……エリシア。姉さんは……ネイアはどうした?」
その名前を聞いた途端、エリシアの表情が強張った。膝の上で握りしめた手に力がこもる。
「……母は、アルデン軍に捕まったと思う」
「捕まった……?」
レオンが聞き返すと、エリシアは静かに頷いた。
「私が屋敷を出るとき、母はまだあそこにいたの。アルデン軍が来る前に逃げるように言われて……私は、その言葉に従った。その後、母がどうなったのかは分からないわ」
そこでエリシアは言葉を詰まらせた。無事に逃げられたのか、それとも敵兵に捕らえられたのか。確かなことは何も知らない。ただ、戦後処理では反乱領主の家族も処罰の対象になると聞いていた。
「……生きているかどうかも、分からないのね」
クラリスが痛ましそうに呟く。エリシアは返事をしなかった。口に出してしまえば、母がもう戻らないかもしれないという現実を、認めることになりそうだった。
そんな沈黙の中、リゼットが俯いた。膝の上で握りしめた手が小さく震えている。
「……あの子が……」
掠れた声が漏れた。
「ネイアは、争いなんて好きじゃなかったのに。庭で花を育てたり、のんびり本を読んだりするのが好きな子だったのよ。それなのに、どうしてあの子が、こんな目に遭わなければならないの……」
「……お祖母様」
エリシアは声をかけたものの、その先が続かなかった。慰める言葉など見つからない。自分だって、母が今どうしているのか分からないのだから。
リゼットはしばらく俯いていたが、やがて堪えきれないように口を開いた。
「もっと早く迎えに行けていたら……あの子が苦しんでいるときに、何かしてあげられていたらって、何度も考えてしまうのよ」
「リゼット」
エドガーが妻の名を呼んだ。リゼットは顔を上げなかったが、彼は責めるでも慰めを押しつけるでもなく、静かに言葉を続けた。
「お前のせいではない。ネイアは自分で道を選んだんだ。最後まで、あの子なりに生きようとしたんだろう」
「……でも、私は母親なのよ。娘が苦しんでいると分かっていたら、放っておけるはずがないでしょう」
「分かっている。だからこそ、今さら自分を責めても仕方がないと言っているんだ」
エドガーはリゼットの肩にそっと手を置いた。
「奪った者を許す必要はない。憎むなとも言わん。ただ、ネイアを救えなかった責任まで、お前が背負うことはない」
リゼットはしばらく黙っていたが、やがて握りしめていた手の力を少しだけ緩めた。
「……分かっているわ。でも、簡単には割り切れないのよ」
「ああ。無理に割り切る必要もない」
エドガーはそれ以上何も言わず、妻の肩に手を置いたまま寄り添っていた。その横顔を見つめながら、エリシアは祖父もまた、母のことを平然と受け止めているわけではないのだと気づいた。
重苦しい空気が流れる中、レオンがふとエリシアの脇腹へ目を向けた。
「……それにしても、お前は本当に姉さんに似ているな」
「え? どういう意味?」
「怪我をしているのに、平気な顔をして無理をするところだよ。姉さんも昔からそうだったんだ」
レオンは懐かしそうに笑った。
「子どもの頃、庭の木から落ちて脇腹を強く打ったことがあってな。周りは大騒ぎだったのに、本人は『大丈夫よ』なんて笑って、そのまま歩いていこうとしたんだ」
「それで、本当に大丈夫だったの?」
クラリスが尋ねると、レオンはあっさり首を振った。
「いや、途中で倒れた」
「……でしょうね。どうしてそこで大人しく休まないのかしら」
「俺もそう思ったよ。しかも、倒れる直前まで『ほら、大丈夫でしょう?』なんて言っていたんだからな」
レオンが呆れたように笑うと、クラリスもつられて笑った。
「顔だけじゃなくて、そういうところまでそっくりなのね。エリシアも、怪我をしているのにここまで一人で逃げてきたんでしょう?」
「……仕方なかったのよ。逃げなければ、私だってどうなっていたか分からないんだから」
「それは分かっているよ。姉さんだって、きっと同じことを言っただろうな。自分が無茶をしているなんて、少しも思っていないんだ」
「……余計なお世話よ」
エリシアがむっとして返すと、レオンは声を上げて笑った。
「ほら、その顔までそっくりだ」
「……本当に、母はそんな人だったの?」
エリシアの知る母は、いつも穏やかで優しい人だった。周りを困らせるほど頑固で、無茶をしても平気な顔をする姿など、想像もつかない。
「ああ。こっちがどれだけ心配して止めても、『大丈夫だから』の一言で済ませるんだ。まったく、昔から困った姉だったよ」
レオンは懐かしそうに笑った。
「でも、そういうところも含めて、ネイアさんらしかったんでしょうね」
クラリスの言葉に、エリシアは小さく頷いた。母の知らなかった一面を聞くうちに、胸の奥がじんわりと温かくなる。自分の知らないところにも、母が笑い、家族と過ごした時間があった。そのことが嬉しい反面、もう一度会いたいという思いも募っていった。
そんなエリシアを見ていたミリアが、遠慮がちに声をかけた。
「あの……エリシアお姉ちゃん、お腹空いてない? 顔色も悪いし、ずっと何も食べてないんじゃないかなって」
「……そうね。実は、かなりお腹が空いてるわ」
答えた直後、静かな応接室に、ぐぅ……と腹の音が響いた。
「…………」
エリシアは固まったまま、そっと顔を背けた。ミリアもどう反応していいか分からず口を閉じる。その隣では、アルノーが口元を押さえ、笑いを堪えるように肩を震わせていた。
「アルノー」
クラリスにたしなめられ、アルノーは慌てて姿勢を正す。
「悪い……いや、笑うつもりはなかったんだ。ただ、あまりにもタイミングが……」
「分かったから、もう黙っていなさい」
「……はい」
しょんぼりと口を閉じる兄を横目に、ミリアはエリシアへ向き直った。
「ね? やっぱり何か食べたほうがいいよ」
「……そうさせてもらうわ」
エリシアが苦笑すると、エドガーが静かに口を開いた。
「クラリス、食事を用意してくれ。それと医師を呼んで、傷も診てもらいなさい。休める部屋も必要だろう」
「分かりました。すぐに手配します」
クラリスが立ち上がると、エドガーは改めてエリシアへ目を向けた。
「まずは食べて、傷を治すことだ。これからのことは、それから考えればいい」
「……そうね」
エリシアは頷いたものの、少し迷ってから口を開いた。
「でも、おじいさま。これから私は、どうすればいいのかしら……」
逃げることだけで精一杯で、ここにたどり着いたあと、自分がどう生きていくのかまでは考えられていなかった。エドガーは少しも迷わず答えた。
「なら、ここにいればいい」
「……え?」
「お前をリューベルク家の一員として迎える。必要な手続きはこちらで進めるから、今は何も心配しなくていい」
あまりに自然に告げられ、エリシアは戸惑ったように祖父を見つめた。
「でも……私はグレイロード家の人間よ。敗れた家の娘だわ。アルデンからすれば、厄介な存在でしょう。私をここに置けば、この家まで巻き込まれるかもしれない」
「そのことは私が考える。お前が気にする必要はない」
「……でも、皆に迷惑をかけるかもしれないわ」
エドガーは首を横に振った。
「エリシア、お前はネイアの娘だ。それだけで、ここに迎える理由は十分だよ。母親を失い、帰る場所までなくしたお前を、家の都合を理由に放り出すつもりはない」
「…………」
エリシアは言葉を失った。グレイロード家では、家のために生きることを求められてきた。父の決定に逆らうことは許されず、自分の気持ちを口にすることさえ難しかった。家のためと言われれば従うしかなく、最後には自分自身までも家の都合で利用されようとしていた。
それが、エリシアにとって当たり前だった。家族であっても、家の利益が優先される。自分が何を望んでいるかなど、考えてもらえることはなかった。
けれど、この家は違った。エリシアが何かの役に立つかどうかも、グレイロード家の娘であることがどんな意味を持つのかも問わず、ただネイアの娘だからと、家族として迎え入れようとしてくれている。
そのことが、エリシアにはすぐには信じられなかった。胸の奥がじんわりと熱くなる一方で、こんな自分が本当に受け入れられていいのだろうかという不安も消えない。今まで当たり前だと思っていたものとは、あまりにも違っていたからだ。
「……本当に、私がここにいてもいいの?」
「ああ。もちろんだ」
エドガーは穏やかに頷いた。
「家のことも、アルデンのことも、今は私たちに任せておきなさい。これからどうするかは、身体が治ってからゆっくり考えればいい」
「……ありがとう、おじいさま」
「礼などいらん。家族を迎えるのに、礼を言われるほうが落ち着かん」
「……家族」
エリシアが小さく呟くと、エドガーは当然のことのように頷いた。
「ああ。お前も、この家の家族だ」
その言葉に、エリシアは思わず目を見開いた。隣で見ていたレオンが、そんな彼女に優しく笑いかける。
「親父がそこまで言ったんだ。もう心配するだけ無駄だぞ。一度決めたら、誰が何を言っても曲げない人だからな」
「お前は余計なことを言わんでいい」
「ほら、そういうところだよ」
レオンが肩をすくめると、リゼットも小さく笑った。
「ふふっ。確かに、昔からそうね。でも、今回はその頑固さに感謝しなくちゃいけないわね」
「リゼットまで……」
エドガーが呆れたように眉を寄せると、クラリスが優しくエリシアへ微笑みかけた。
「でも、本当にそう思います。エリシア、ここでは何も気にしなくていいのよ。困ったことがあったら、いつでも私たちに相談してね」
「……はい。ありがとうございます」
エリシアが小さく頷く。まだ不安は残っていたが、ここにいていいのだと言ってもらえたことが、何よりも心強かった。
それまで大人たちの話を聞いていたミリアが、待ちきれないとばかりに身を乗り出す。
「じゃあ、エリシアお姉ちゃん、これからずっとここにいるの?」
「ああ。そのつもりだ」
エドガーが答えると、ミリアの顔がぱっと明るくなった。
「本当!? やったぁ! 私、ずっとお姉ちゃんが欲しかったの! これから一緒に暮らせるなら、もっといっぱいお話ししたい!」
「ミリア、そんなに一度に言ったら、エリシアさんも困るだろ。まだ身体だって治ってないんだから」
「分かってるよ! ちゃんと待つもん!」
「本当に分かってるのか……?」
アルノーが苦笑すると、ミリアは頬を膨らませた。その様子がおかしくて、エリシアも思わず笑みをこぼす。
家族を失ってから、心から笑うことなどなかった。まだ悲しみが消えたわけではない。それでも、こうして自分を迎え入れてくれる人たちがいる。そのことが、今はただ嬉しかった。
エリシアは、笑い合う家族の顔をそっと見渡した。
エリシアのエピソード、少し長くなりすぎて冗長だったかもしれません……!




