番外編 SIDEエリシア・グレイロード 逃亡の果て、帰る場所①
EP 領境の向こうへ 後のエミリアのその後です。
――カルディアから領境を越えたあと。
森を抜けても、エリシアは足を止めなかった。追手の気配が遠のいたことで、張り詰めていた緊張はわずかに緩んだものの、呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。乾いた血と新しい血が混ざった鎧は身体に重くのしかかり、足取りも次第にふらついていた。
(止まれば……終わる)
そう自分に言い聞かせながら歩き続け、やがて森を抜けると、緩やかな丘の向こうに石造りの屋敷が見えてきた。飾り気のない、落ち着いた佇まいの建物だった。
「あそこが……」
その姿を目にした瞬間、幼い頃の記憶が蘇った。暖炉の火の温もりに、焼き菓子の甘い匂い、窓から差し込む柔らかな光。一度訪れただけの場所だったが、あのときの光景は今も鮮明に残っている。
「……リューベルク家」
エリシアは残った力を振り絞り、丘を上り始めた。あと少し。あそこまでたどり着けば、ようやく助けを求められる。そう思いながら屋敷へ近づいたとき、門前に立っていた兵士たちがこちらに気づき、一斉に槍を構えた。
「止まれ! それ以上近づくな!」
鋭い声に、エリシアは足を止めた。剣を杖代わりにして身体を支えながら、ゆっくりと顔を上げる。
「何者だ? ここへ何をしに来た」
「……エリシア・グレイロードよ。リューベルク家に縁があるの。祖母のリゼット・リューベルクに会わせてほしいわ」
「グレイロードだと?」
兵士たちの表情が一変した。互いに顔を見合わせたあと、一人が警戒を強めて問い返す。
「グレイロード家の人間だというのか。身分を証明できるものはあるか?」
「……何もないわ。逃げる途中で失ってしまったから」
「それでは通せん。今の状況で、素性の分からない者を屋敷へ入れるわけにはいかない」
「分かっているわ。でも、嘘をついているわけじゃない。母はネイア・リューベルクよ。私は六歳のとき、一度だけこの屋敷を訪れたことがあるの」
兵士の一人が、わずかに眉を動かした。
「……それで、何か証明できるのか?」
「裏には果樹園があって、東側の庭には大きな白樺が一本立っていたわ。客間の暖炉のそばで焼き菓子を出してもらったことも覚えている。窓際には青い花瓶が置かれていて、廊下の突き当たりには古い甲冑が飾られていたはずよ」
兵士たちは顔を見合わせた。確かに、屋敷の者でなければ知り得ないような内容にも聞こえる。だが、それだけで本人だと判断するわけにもいかなかった。
「……よく覚えているな。だが、それだけでは本人だという証拠にはならん」
「ええ。そうでしょうね」
エリシアは力なく笑った。自分でも、こんな姿で突然現れた人間を簡単に信用できるとは思わない。
「でも、私にはもう、ほかに証明できるものがないの。お願いだから、祖母に会わせてほしい」
「仮にお前の話が本当だったとしても、今はグレイロード家の生き残りを名乗る者を、簡単に通すことはできない。アルデン軍が捜している可能性もあるんだ」
「……そう」
「悪いが、ここから引き返してくれ」
その言葉に、エリシアは目を伏せた。引き返せと言われても、帰る場所などもう残っていない。
「……引き返す場所なんて、もうないわ」
かすれた声に、兵士たちは一瞬言葉を失った。エリシアは顔を上げ、今にも崩れそうな身体を必死に支えながら続ける。
「せめて、私がここへ来たことだけでも祖母に伝えて。会ってもらえるかどうかは、そのあとで決めてくれていいから」
しばらく沈黙が続いたあと、兵士の一人が小さく息を吐き、槍を下ろした。
「……分かった。ここで待っていろ。屋敷に確認してくる」
「ありがとう……」
「ただし、勝手に動くな。妙な真似をすれば拘束する」
「ええ、分かっているわ」
兵士の一人が屋敷へ駆けていき、残った二人は門前でエリシアを見張り続けた。張り詰めていた気持ちがわずかに緩んだ途端、全身の疲労が一気に押し寄せる。指先は震え、膝から力が抜けそうになるが、エリシアは剣を杖代わりにして、どうにか立ち続けた。
「……その傷で、よくここまで来たな」
兵士の一人が、血に汚れた鎧を見ながら声をかける。
「少し休んだほうがいいんじゃないか?」
「……まだ、倒れるわけにはいかないもの」
エリシアはそう答え、門の向こうに見える屋敷へ目を向けた。祖母に会うまでは、ここで倒れるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせていると、やがて屋敷の奥から複数の足音が聞こえてきた。
ほどなくして門が開き、灰色の髪をした年配の男が姿を現す。その後ろには使用人や若い男女も続き、皆が血と泥にまみれたエリシアを警戒するように見つめていた。
男はエリシアの姿をひと通り確かめると、一歩前へ出た。
「門番から話は聞いた。エリシア・グレイロードと名乗ったそうだな」
「ええ」
「……その名が本当なら、ここへ来た理由を聞かせてもらおう」
「名乗ったとおりよ。私はエリシア・グレイロード。ネイア・リューベルクの娘で、リゼット・リューベルクの孫よ」
男の目がわずかに細くなる。
「……ネイア?」
反応したのは、男の後ろにいた老婦人だった。白髪の女性は信じられないものを見るように目を見開き、エリシアの顔をじっと見つめている。やがて、震える足でゆっくりと歩み寄ってきた。
――リゼット・リューベルク。
「……エリシア、なの?」
エリシアは小さく頷いた。
「はい。お久しぶりです、お祖母様」
「そんな……本当に、あなたなのね……」
リゼットは目の前まで来ると、確かめるようにエリシアの顔を覗き込んだ。
「顔をよく見せてちょうだい」
エリシアが顔を上げると、頬には乾いた血がこびりつき、額には傷が残っていた。疲労で顔色も悪く、鎧も泥と血で汚れている。それでも、黒い瞳には強い意志が残っていた。
リゼットは息を呑み、しばらくその顔を見つめてから、震える指先でそっと頬に触れた。
「……大きくなったわね。最後に会ったときは、まだあんなに小さかったのに……いつの間に、こんなに大きくなったのかしら」
懐かしむように微笑んだリゼットの目に、次第に涙が滲んでいく。
「でも、目元はネイアによく似ているわ……。こんなに傷だらけになって、それでもここまで来てくれたのね」
その言葉を聞いた瞬間、エリシアの中で張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
「……はい」
「よく来たわね。本当に……生きていてくれてよかった」
リゼットの声は震えていた。エリシアは何も言えず、ただ小さく頷く。そんな二人の様子を見守っていた年配の男は、しばらくしてから静かに口を開いた。
「……ネイアはどうした?」
その一言で、場の空気が変わった。
エリシアは答えられず、視線を落とした。その様子を見たリゼットの表情が強張り、頬に添えていた手がわずかに震える。
「……まさか、ネイアに何かあったの?」
エリシアの脳裏に、最後に見た母の姿が浮かんだ。痩せ細った身体を寝台に横たえ、苦しそうに息をしながら、それでも自分を見る目だけは優しかった母。そして、震える手で自分を送り出し、最後まで生きることを願ってくれた姿。
「……お母様は、屋敷に残りました」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。リゼットはエリシアを見つめたまま、震える声で尋ねる。
「……今も、あそこにいるの?」
エリシアは答えられず、ただ目を伏せた。その反応だけで察したのだろう。リゼットはしばらく目を閉じ、唇をきつく結んでいたが、やがて頬に触れていた手をそっと下ろし、小さく息を吐いた。
「……そう」
それ以上、問い詰めることはなかった。けれど、リゼットの指先はまだかすかに震えていた。重い沈黙が門前を包む中、二人の様子を見守っていた年配の男が、静かに口を開いた。
「……ここでは落ち着いて話もできん。詳しい事情は中で聞こう。まずは入りなさい」
兵士たちが道を開ける。しかし、エリシアはすぐには動けず、目の前の屋敷を見つめていた。
(……本当に、入っていいの?)
ここまで必死にたどり着いたというのに、いざ門をくぐろうとすると、急に不安が込み上げてくる。自分は本当に受け入れてもらえるのだろうか。グレイロード家の人間だと知られたことで、かえって迷惑をかけることになるのではないか。
そんなエリシアの様子を見て、年配の男が呆れたように声をかけた。
「おい、いつまでそこに立っている。」
「……え?」
「話は中で聞くと言っただろう。立っているのもつらいのなら、せめて屋敷に入ってから休め。ここで倒れられても困る」
「いや……もう、かなり危ないんじゃないかな」
後ろで様子を見ていた少年が、思わず口を挟んだ。
「顔色もひどいし、さっきから剣に寄りかかってるし……今にも倒れそうだよ」
隣にいた少女が、少年の腕を小突く。
「ちょっと、本人に聞こえてるでしょ。もう少し言い方を考えなさいよ」
「だって、本当のことじゃないか」
「本当なら何を言ってもいいわけじゃないの!」
「……お前たちは、少し黙っていろ」
年配の男に睨まれ、二人は顔を見合わせた。
「……はい」
「ごめんなさい」
そのやり取りに、エリシアは思わず目を瞬かせた。先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとうございます」
小さく礼を告げ、エリシアはようやく一歩を踏み出した。しかし、足を動かした途端に膝が揺らぎ、身体が傾く。すぐそばにいたリゼットが慌てて腕を支えた。
「エリシア! 大丈夫なの?」
「……大丈夫です。少し、疲れただけですから」
「そんな身体で何を言っているの。もう無理をしなくていいのよ」
リゼットは心配そうに孫の肩を抱き、屋敷の中へと促した。エリシアはその手に身を預けるようにして、ようやく門をくぐる。背後では重い門がゆっくりと閉じていったが、エリシアはもう振り返らなかった。




