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番外編 SIDEエリシア・グレイロード すべてを捨てて

いつもいつもお読みいただきありがとうございます!!

 屋敷の奥にある部屋には、薬草と湿った布の匂いが漂っていた。かつて客間として使われていた部屋は、今では病床に伏せるネイアのために使われている。厚いカーテンが閉じられた室内は昼間でも薄暗く、窓から差し込むわずかな光が、ベッドに横たわる母の姿を照らしていた。


 エリシアがそばまで歩み寄ると、ネイアはゆっくりと目を開けた。


「来てくれたのね、エリシア」


「……お母様」


 ネイアは弱々しく微笑んだ。以前より頬は痩せ、顔色も悪い。それでも、娘を見つめる瞳には昔と変わらない優しさが残っていた。


 エリシアは母の手を握り、しばらく言葉を探していたが、やがて意を決して口を開いた。


「……お父様が、戦死されたそうです」


「そう……。戦況を聞いていたから、いつかこうなるのではないかと思っていたわ」


「お母様も、分かっていたんですね」


「ええ。あの人が始めた戦争が、もう引き返せないところまで来ていることは分かっていたもの」


 ネイアは静かに目を伏せた。その横顔を見つめながら、エリシアはずっと胸の内に抱えていた思いを口にする。


「私は……お父様を許せません。領民がどれだけ苦しんでいるか、あれほど目の前で見てきたのに、それでも戦争をやめようとしなかった。兄上も、もう家のことを立て直そうとはしてくれませんし……いったい、どうしてこんなことになってしまったんでしょう」


 最後の言葉は、かすかに震えていた。


「昔のお父様は、こんな人ではなかったのに……」


「ええ。私も、そう思うわ」


 ネイアは娘の手を握り返した。


「あの人は昔から、領地を豊かにしたい、グレイロード家をもっと強くしたいと考えていたわ。でも、以前は領民の暮らしもちゃんと気にかけていた。凶作の年には税を軽くしたし、村で問題が起きれば、自分で話を聞きに行くこともあったのよ」


「……いつから、変わってしまったんでしょう」


「私にも分からないわ。ただ、負けることを恐れるようになってから、少しずつ変わっていった気がするの。もっと力をつけなければ、勝たなければと考えるうちに、いつしか勝つことそのものが目的になってしまったのかもしれないわね」


「……もう、元には戻れないんですね」


「そうね。グレイロード家も、この領地も、これから大きく変わることになるでしょう」


 その言葉に、エリシアは顔を上げた。


「だからこそ、お母様もここを出ましょう。アルデン軍が来れば、屋敷だってどうなるか分かりません。まだ敵が到着していない今なら、馬車を用意して逃げられます。私が護衛しますから、途中で休みながらでも南へ向かいましょう」


 ネイアは娘を見つめ、静かに首を横に振った。


「……私は、一緒には行けないわ」


「どうしてですか? 馬車なら歩かなくても済みますし、休みながら進めば、きっと――」


「エリシア、もう自分でも分かっているの。この身体では、長い旅には耐えられないわ。途中で動けなくなれば、あなたまで危険にさらしてしまう」


「それでも、置いていくなんてできません!」


 思わず声を強めたエリシアの手を、ネイアは両手で包み込んだ。


「あなたが私を守りたいと思ってくれることは、よく分かっているわ。でも、私を助けようとしてあなたまで命を落としたら、私は何のためにあなたを産み、育ててきたの?」


「……お母様」


「私は、あなたに生きていてほしいの。私のために、あなたの未来まで失ってほしくないわ」


 エリシアは何も言えず、母の手を握りしめた。ネイアはそんな娘を見つめながら、穏やかな声で続ける。


「南へ行きなさい。私の実家、リューベルク家を頼るのよ。お祖父様は頑固な方だけれど、家族を見捨てたりはしないわ。事情を話せば、きっとあなたを受け入れてくださる」


「……でも、私はグレイロード家の人間です。そんな私を、お祖父様が受け入れてくださるでしょうか」


「大丈夫よ。あなたは私の娘だもの。それに、家の名前なんて、生きていくために必要なら捨てたって構わないわ」


 ネイアは娘の頬にそっと触れた。


「あなたには、まだこれからの人生があるの。誰かのために自分を犠牲にすることばかり考えず、自分がどう生きたいのかも大切にしてちょうだい」


「……そんなことを言われても、私はお母様を置いていきたくありません」


「分かっているわ。あなたは昔から、誰かが困っていると放っておけない子だったものね」


 ネイアは少し寂しそうに微笑んだ。


「でもね、エリシア。自分が苦しめば誰かを守れるとは限らないのよ。あなたまでここで失ってしまったら、私はそれこそ後悔してもしきれないわ」


 エリシアの目に、じわりと涙が浮かんだ。


「……ずるいです、お母様。そんなことを言われたら、私は……」


「ええ。ずるい母親ね」


 ネイアは娘の涙を指先で拭い、優しく笑った。


「でも、これだけは聞いてほしいの。私はもう、あなたから十分すぎるほど幸せをもらったわ。だから今度は、あなた自身の幸せを考えてちょうだい」


「……私、お母様の娘でよかったです」


「私もよ。あなたが娘でいてくれて、本当によかった」


 ネイアはエリシアの髪をゆっくりと撫でた。


「だから、約束して。どんなことがあっても、自分を見失わないでね。グレイロード家がなくなっても、アルヴァルトが何を残したとしても、それであなたの価値までなくなるわけではないのだから」


「……はい」


「いつか、心から笑える日が来るまで、ちゃんと生きてちょうだい。それが、私の願いよ」


「……分かりました」


 エリシアが涙を拭った、そのときだった。屋敷の外から低く長い鐘の音が響き、二人は顔を見合わせた。アルデン軍の接近を知らせる鐘だ。もう、時間は残されていない。エリシアは母の顔を見つめ、名残惜しそうにその手を握りしめてから、ゆっくりと立ち上がった。


「……行きます」


「ええ」


 ネイアは小さく頷いたものの、エリシアが扉へ向かおうとすると、その手をそっと握った。


「待って。最後に、もう一度だけ抱きしめさせて」


 エリシアはすぐにベッドへ戻り、母の身体をそっと抱きしめた。ネイアも残された力を振り絞るように腕を回し、娘を抱き返す。


 その温もりに触れた瞬間、エリシアの脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。熱を出して眠れなかった夜、何度も自分を抱きしめてくれた母の腕。その温もりは、今も変わらなかった。


「……お母様」


「大丈夫。あなたなら、きっと大丈夫よ」


 ネイアの声を聞きながら、エリシアは何度も頷いた。やがてゆっくりと身体を離し、涙をこらえながら母を見つめる。


「……さようなら、お母様」


 ネイアは寂しそうに、それでも穏やかに微笑んだ。


「いってらっしゃい、エリシア」


 エリシアはもう一度だけ母を見つめ、それから涙を拭って扉へ向かった。何度も振り返りそうになったが、最後まで振り返らないまま部屋を出ていく。扉が静かに閉じられ、その音だけが静かな部屋に残った。


――その直後だった。


 屋敷の外から、兵士たちの声が聞こえてきた。


「――アルデン軍が来たぞ!」


 続いて、いくつもの足音が重なる。街の中を走る兵士たちのものらしく、遠くから金属のぶつかる音も聞こえてきた。


「……もう来たの?」


 エリシアは立ち上がると、窓へ駆け寄った。外へ目を向けると、領都の城門の向こうに黒と赤の軍旗が見える。破られた城門からアルデン軍の兵士たちが次々と入り、通りへ広がっていた。


「……アルデン軍……」


 兵士たちは無差別に街を荒らしているわけではなかった。隊列を崩さずに通りを進み、要所を押さえながら、周囲へ目を向けている。住民たちも兵士の邪魔にならないよう道の端へ寄り、店の扉を閉めたり、家の中から様子を窺ったりしていた。


「グレイロード家の者を探せ! 見つけ次第、拘束しろ!」


「屋敷へ向かう部隊は先に進め! 逃げ道を塞いでおけ!」


 兵士たちの声が少しずつ近づいてくる。エリシアは窓から離れると、静かに母のいる部屋へ目を向けた。


(……もう来た)


 覚悟はしていた。それでも、実際にその瞬間を迎えると、胸の奥に冷たいものが走る。ここに残っていれば、自分もグレイロード家の人間として拘束されるだろう。


(……お母様)


 一瞬だけ迷ったエリシアだったが、すぐに首を振った。脳裏に浮かんだのは、先ほど母から託された言葉だった。


『ちゃんと生きて。いつか、心から笑える日が来るまで』


「……行かなきゃ」


 エリシアは踵を返し、部屋を飛び出した。


 廊下へ出ると、使用人たちも慌ただしく動いていた。荷物を抱えて逃げようとする者もいれば、何が起きているのか分からず立ち尽くしている者もいる。その間を抜けて階段を駆け下りていると、屋敷の奥から兵士たちの声が響いてきた。


「二階を確認しろ!」


「こちらにはいません!」


「地下も調べろ!」


 兵士たちの怒号が屋敷の中まで響いていた。もう、すぐ近くまでアルデン軍が迫っている。エリシアは足を止めず、そのまま裏手へ向かった。


 外へ出た瞬間、冷たい雨が頬を打った。濡れた石畳を人々が行き交い、通りのあちこちにはアルデン軍の兵士が立っている。建物の向こうからは怒号が聞こえ、遠くでは剣のぶつかる音も響いていた。エリシアは顔を伏せ、兵士たちの視線を避けながら街の外へ向かって走った。


(お母様……)


 走りながらも、何度も母の顔が脳裏に浮かぶ。本当なら、今すぐにでも戻りたかった。もう一度だけ顔を見て、声を聞いて、その手を握っていたい。けれど、ここで引き返せば、母が最後に託してくれた願いを無駄にしてしまう。


(……ごめんなさい)


 エリシアは振り返ることなく走り続けた。雨脚は次第に強まり、髪も服もすぐにずぶ濡れになったが、それでも足を止めることはなかった。やがて街外れの道に差しかかると、一台の小さな馬車が目に入った。御者はちょうど仕事を終えたところらしく、馬のそばで帰り支度をしている。


「――待って!」


 エリシアが駆け寄ると、御者は驚いたように振り返った。


「どうしたんだ、嬢ちゃん? 悪いが、今日はもう仕事終わりだ。今からどこかへ連れていけって言われても――」


「カルディアまで行ってほしいの。今すぐに」


「だから、もう帰るところなんだって……」


 御者が断ろうとしたところで、エリシアは懐から金貨を三枚取り出し、御者台へ置いた。硬貨が触れ合う音に、御者の視線が吸い寄せられる。


「……おいおい、全部金貨じゃないか」


「ええ。これでカルディアまでお願い」


 御者は金貨を一枚手に取り、表裏を確かめてから、エリシアへ目を戻した。


「いやあ、困ったな。俺もさっきまでは帰って休もうと思ってたんだが……これじゃあ、断るわけにもいかないな」


「……ずいぶん簡単に気が変わるのね」


「商売人なんて、そんなもんさ。ほら、早く乗ってくれ。すぐに出発するぞ」


 あまりの変わり身の早さに、エリシアは呆れたように息を吐いた。


「本当に現金な人ね」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


 御者は笑いながら金貨を懐へしまい、馬車の支度を整え始めた。やがて手綱を握り直すと、ふと思い出したようにエリシアへ尋ねる。


「それにしても、カルディアまでなら金貨三枚は払いすぎだぞ。そんなに急いで、何かあったのか?」


「……事情は聞かないで」


 エリシアが目を伏せると、御者はその表情を見て、それ以上は尋ねなかった。


「分かった。無理に聞くつもりはないさ。ただ、道中で何があっても、俺にできることには限りがある。それだけは覚えておいてくれ」


「ええ。カルディアまで送ってくれれば、それでいいわ」


「よし、話が早くて助かる。じゃあ、しっかりつかまってな」


 エリシアが馬車へ乗り込むと、御者は手綱を引いた。


「金貨三枚分、きっちり走らせてやるからな!」


「……無理に飛ばさなくていいから」


「ははっ、分かってるよ!」


 馬車は雨に濡れた街道を走り出し、車輪が泥水を跳ね上げながら、街の灯りを遠ざけていった。しばらくして窓の外へ目を向けたエリシアは、雨に霞む景色の向こうに、グレイロード家の屋敷を見つけた。その一角からは赤い炎が上がり、黒煙が雨雲へ向かって立ち上っている。


 燃え盛る屋敷を見つめ、エリシアは息を呑んだ。あそこには、先ほど別れたばかりの母が残っている。


(……お母様)


 今すぐ馬車を止めて、引き返したい。もう一度そばへ戻り、その手を握っていたい。けれど、そうすれば母が自分を送り出してくれた意味がなくなってしまう。エリシアは膝の上で拳を握りしめ、こみ上げる思いを必死に押し殺した。


(……だめ。私は、生きなきゃいけない)


 心の中でもう一度そう誓い、エリシアはゆっくりと顔を上げた。屋敷の炎は、馬車が進むにつれて雨の向こうへ遠ざかっていく。胸の奥に残る痛みは消えなかったが、エリシアはもう振り返らず、前を向いた。


     ◇


 それから数時間、雨は弱まる気配もなく降り続いていた。馬車は夜の街道を走り続け、御者は手綱を握ったまま、何度も大きな欠伸をしている。


「……眠そうね」


「そりゃあな。何時間も馬車を走らせてるんだぞ。少しくらい欠伸も出るさ」


「居眠りなんてしないでくださいよ。私、まだ死にたくないんですから」


「おいおい、縁起でもないことを言うな。ちゃんと前を見てるから安心しろって」


 御者は苦笑しながら前方へ目を戻した。


「それに、金貨三枚ももらってるんだ。途中で寝ちまったなんてことになったら、商売人として情けないだろ?」


「……結局、金貨の話なのね」


「そりゃ大事だろ。あれだけもらったんだから、最後まできっちり仕事をしないとな」


 エリシアは呆れたように息を吐いたが、先ほどまで張り詰めていた気持ちは、ほんの少しだけ和らいでいた。しばらく走り続けると、雨に霞んだ街道の先に、見覚えのある外壁が見えてきた。


「おっ、見えてきたぞ。あれがカルディアだ」


「……本当に、もう着くの?」


「ああ。ここまで来れば、あと少しだ。もうひと踏ん張りだな」


 御者の言葉に、エリシアは窓から身を乗り出すようにして前方を見つめた。ようやく目的地が近づいてきたことに、張り詰めていた表情がわずかに緩む。


「……よかった」


「ん? 何か言ったか?」


「ううん。何でもないわ」


 エリシアが小さく首を振った、そのときだった。


「……ん?」


 御者が前方を見つめ、眉をひそめる。雨に煙る街道の真ん中に、ぼんやりと人影が見えた。


「おい、あんなところに誰かいるぞ……」


 近づくにつれて、その姿がはっきりしてくる。黒い髪は雨に濡れて顔に張りつき、裂けた服は泥と血で汚れていた。身体に巻かれた包帯にも赤い染みが広がり、痩せ細った身体は今にも倒れそうにふらついている。それでも少年は、何かに追われているかのように、ただ前へ歩き続けていた。


「おい! 危ないぞ、道の真ん中に立つな!」


 御者が声を張り上げても、少年は反応しない。


「おい、聞こえてないのか! 道を空けろ!」


 馬車が迫る中、ようやく気づいた少年は、はっとしたように顔を上げると、ふらつきながら道の端へ身を寄せた。馬車はそのすぐ横を通り過ぎ、車輪が跳ね上げた泥水が少年の足元を濡らす。


 ほんの一瞬のすれ違いだった。けれど、エリシアは窓越しに見えた少年の姿を、いつまでも目で追っていた。


「……ねえ」


「どうした?」


「今の子……止めてもらえない?」


 御者はちらりと後ろを振り返り、困ったように眉を寄せた。


「気になるのは分かるが、今から引き返すのか? せっかくここまで来たんだぞ。それに、あの様子じゃ何があったのかも分からん。下手に関われば、こっちまで厄介事に巻き込まれるかもしれねぇ」


「……そう、よね」


 エリシアは答えながらも、少年の姿を目で追っていた。以前は困窮した人々に手を差し伸べることができた。けれど、今は自分たちが逃げ延びるだけで精一杯だ。


(……お父様が始めた戦争で、また誰かが帰る場所を失ったのね)


 膝の上で拳を握りしめる。せめて、あの少年が無事に生き延びてくれることを願うしかなかった。


「……気になるなら、街に着いてから誰かに話してみるか? 兵士か、街の人間なら何か知ってるかもしれねぇ」


 御者の言葉に、エリシアは少しだけ顔を上げた。


「……そうね。ありがとう」


「礼を言われるようなことじゃねぇよ。俺にできるのは、あんたをカルディアまで送り届けることくらいだからな」


 そう言って、御者は再び前を向いた。それ以上、少年について尋ねることはなかった。


 やがて雨の向こうに、カルディアの街明かりが浮かび上がる。エリシアはもう一度だけ後ろを振り返ったが、少年の姿はとうに見えなくなっていた。


(……どうか、生きて)


 母が自分に託してくれた願いを、今度は見知らぬ少年へ向ける。エリシアは雨に煙る街道を見つめながら、少年が無事に生き延びてくれることを静かに祈っていた。

今回のエピソードは、**ep.56「交易都市カルディア」**でユウが街道を歩いているときに横を通り過ぎた、あの馬車のエリシア視点でした。

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