番外編 SIDEエリシア・グレイロード その名が灰になるまで②
――数日後。
屋敷の奥にある応接室で、アルヴァルトは机に置かれた書簡を指先で押さえながら、向かいに座るエリシアへ告げた。
「お前の縁談が決まった。サイモン家へ嫁いでもらう」
突然の話に、エリシアは思わず聞き返した。
「……サイモン家に、ですか?」
「ああ。向こうは兵と資金を援助してくれるそうだ。交易についても便宜を図ってもらえる。今の我が家にとっては、願ってもない話だ」
「でも、私は……」
「家の立て直しにも役立つし、領民の暮らしを改善する余裕もできる。お前にとっても悪い話ではないだろう」
まるで、すでにすべて決まったことのように話す父を前に、エリシアは唇を引き結んだ。
「……お断りします」
アルヴァルトが顔を上げる。
「何だと?」
「サイモン家へ嫁ぐつもりはありません。そもそも、どうして私が嫁げば領民が救われるんですか? 今まで苦しんできた人たちを放っておいたのに、今度は私を差し出せば解決するなんて、そんなのおかしいです」
「領地を立て直すには金も兵も必要だ。今はそのために使えるものを使うしかない。お前もグレイロード家の人間なら、それくらい分かるだろう」
「家のためなら、何をしてもいいんですか?」
エリシアの声に、抑えきれない怒りが滲んだ。
「私は、領民が苦しんでいるのを見てきました。それなのに、今度は自分の人生まで家の都合で決められるなんて……そんなの、納得できません」
「お前の気持ちは聞いていない。これはグレイロード家のために必要なことだ」
「……私の気持ちは、どうでもいいんですね」
アルヴァルトは答えなかった。代わりに、机の上の書簡へ視線を戻して言い放つ。
「当主である私が決めたことだ。お前に拒否する権利はない」
その言葉を聞いて、エリシアは黙り込んだ。何を言っても、父は聞く耳を持たない。家のためだと言いながら、娘の気持ちなど考えようともしていないのだ。
「……分かりました」
そう答えたエリシアは、席を立って部屋を出た。背後から呼び止める声はなく、扉が閉まると、廊下には静けさだけが残った。
すれ違う使用人たちはいつもどおり頭を下げてくる。けれど、エリシアにはその光景さえどこか遠いものに感じられた。このまま屋敷に残っていれば、いずれ父の決めたとおりにサイモン家へ嫁がされるだろう。誰かが助けてくれるのを待っていても、もう何も変わらない。
(……だったら、自分の力で何とかするしかない)
幼い頃から貴族として剣術を習ってはいたが、実戦で通用するほどの腕前ではない。それでも、何もできないままでいるよりはいい。まずは自分の身を守れるようになろう。そう考えたエリシアは、屋敷を出てグレイロード家騎士団の訓練場へと向かった。
◇
訓練場では、騎士たちが木剣を打ち合わせていた。剣戟の音が響く中、入口に立つエリシアに気づいた壮年の騎士が、不思議そうに近づいてくる。
「お嬢様がこちらへいらっしゃるとは珍しいですな。何か御用でしょうか?」
「お願いがあります。私を騎士団の訓練に参加させていただけませんか?」
騎士は一瞬、返事に迷ったようだった。
「訓練に、ですか? 剣術を習われていることは存じていますが、騎士団の訓練は令嬢が受ける指南とは違います。怪我もしますし、相手が手加減してくれるとも限りません。それでもよろしいのですか?」
「構いません。私は、自分の身を自分で守れるようになりたいんです」
その言葉に、騎士はエリシアの顔をじっと見つめた。やがて彼女の決意が本物だと分かったのか、小さく頷く。
「……分かりました。では、まずは今の腕前を見せていただきましょう。どれほど剣を振れるのか、それを確かめてからですな」
「はい。よろしくお願いします」
エリシアは訓練場へ足を踏み入れた。
◇
それから、エリシアは毎日のように訓練場へ通った。最初は木剣を受け止めることさえ難しく、打ち込まれるたびに地面へ転がったが、どれほど悔しい思いをしても翌朝には再び姿を見せた。騎士たちが訓練を終えたあとも一人で剣を振り続け、指導役から欠点を指摘されれば、次の訓練で一つでも直そうと繰り返し挑戦した。
「お嬢様、力任せに振るだけでは駄目です。相手の動きを見て、足の運びを考えなさい」
「はい。もう一度お願いします」
「よろしい。では、今度は私が打ち込みますから、受けるだけでなく反撃までしてみてください」
エリシアは木剣を構え直した。打ち込まれた一撃を何とか受け流し、教えられたとおりに踏み込んで反撃する。しかし、相手の剣に弾かれ、またしても尻もちをついてしまった。
「……まだまだですね」
「ええ。ですが、今の踏み込みは悪くありませんでした。最初に比べれば、ずいぶんよくなっていますよ」
差し出された手を借りて立ち上がると、エリシアは悔しそうに唇を引き結びながらも、すぐに木剣を握り直した。
そんな日々が続くうち、騎士たちの見る目も少しずつ変わっていった。初めは貴族令嬢の気まぐれだと思っていた者たちも、彼女が決して訓練を投げ出さないと知ると、次第に一人の訓練生として接するようになった。
やがて一年、二年と時が流れる頃には、エリシアの腕前は目に見えて上達していた。模擬戦では男の騎士を相手に互角以上に渡り合い、実地任務でも着実に成果を上げるようになった。いつしか訓練場では、彼女の実力を疑う声よりも、手合わせを望む声のほうが多くなっていた。
「エリシア様、今日も訓練を続けられるのですか? もう十分に動かれたと思いますが」
訓練を終えた若い騎士が声をかけると、エリシアは木剣を振る手を止めずに答えた。
「まだ納得できていないところがあるの。あと少しだけ付き合ってもらえる?」
「……分かりました。ただし、明日の訓練に響かない程度にしてくださいよ」
「ありがとう。助かるわ」
そのやり取りを見ていた別の騎士が、呆れたように笑った。
「最初に来たときは、すぐに音を上げると思っていたんだがな」
「俺もだよ。今じゃ、下手に手合わせを申し込むと返り討ちにされかねない」
「実際、この前やられた奴がいただろう」
「……あれは忘れてくれ」
仲間たちの笑い声が響く中、エリシアは気にする様子もなく木剣を振り続けていた。彼女は少しずつ、自分の力で居場所を築いていた。
◇
そして、ついに中級騎士の位階を得た日が訪れた。
授与の場は驚くほど簡素だった。それでも、エリシアにとっては十分だった。この地位はグレイロード家の名によって与えられたものではない。何度倒されても訓練場へ戻り、積み重ねてきた努力によって、自分の手で掴み取ったものだった。
(……これは、私が掴んだものだ)
胸の奥に小さな熱が灯る。ようやく、自分の力で立つための一歩を踏み出せた。そう思えたのも束の間、グレイロード家を取り巻く状況は、さらに悪化していた。
戦線は崩れ、補給は滞り、兵の損耗も増える一方だった。もはや戦況を覆すことは難しく、グレイロード家の敗北は避けられないものになりつつあった。
そんなある日、エリシアのもとへ一枚の報告書が届けられた。
「エリシア様、戦況について報告が届いております」
「ありがとう。そこに置いておいて」
受け取った報告書を開き、記された一行に目を落とした瞬間、エリシアの手が止まった。
『グレイロード当主、戦死確認』
「…………」
文字を見つめたまま、エリシアはしばらく動けなかった。報告を持ってきた騎士も、かける言葉が見つからないのか、黙ってその場に立っている。
父は死んだ。兄はとうに家を支えられる状態ではなく、領地も敗北を覆せる状況にはない。戦に敗れた貴族がどのような扱いを受けるのか、まだ分からない。それでも、グレイロード家がこれまでどおりではいられないことだけは確かだった。
(……終わった)
そう思った途端、不思議なほど頭が冷静になった。悲しみや戸惑いがないわけではない。ただ、今はそれに囚われている場合ではなかった。
(次に何が起きるのか、考えないと)
敵が領地を制圧すれば、屋敷にも捜索の手が伸びるかもしれない。家族や使用人たちがどうなるのかも分からない。そう考えたとき、エリシアの脳裏に病床に伏せる母の姿が浮かんだ。
(……お母様)
母をこのまま屋敷に残しておくわけにはいかない。まだ間に合うのなら、連れて逃げなければ。エリシアは報告書を握りしめ、静かに顔を上げた。
(お母さまを連れて、ここを出る)
今の自分にできることは、それだけだった。




