番外編 SIDEエリシア・グレイロード その名が灰になるまで①
※今回は本編のストーリーに直接関わる内容が少なめの過去編です。興味のない方は読み飛ばしていただいて大丈夫です!
IF&番外短編集 に 「あの頃のグレイロード家」を投稿しましたそちらもぜひ
まだグレイロード家の屋敷に十分な灯りが残っていた頃の話だ。
領都グレイハイムにあるグレイロード家の屋敷では、その夜も家臣たちが広間へ集められていた。長机には領地周辺の地図が広げられ、兵力や食料、街道の位置を記した札がいくつも並んでいる。その最奥に座る当主アルヴァルト・グレイロードは、ワインを片手に地図を眺めていた。
やがて、アルヴァルトの指が一本の街道を叩く。
「ここだ。アルデン家は国境防衛に兵を回している。北側の守りが薄くなっている今なら、こちらから攻め込める」
指先が街道から周辺の村へと移っていく。
「まずはこの街道を押さえ、その周辺の村を落とす。そこからさらに奥へ進めば、アルデンの防衛線も崩せるだろう。順調にいけば、一年半ほどでかなりの土地を削れる」
アルヴァルトがそう言うと、広間には重い沈黙が広がった。家臣たちは地図へ視線を落としたまま、誰も口を開こうとしない。反対したところで話が変わるわけでもなく、かといって賛成するのも躊躇われるのだろう。
「……何だ? そこまで黙られると、何か問題があるようにしか思えんな」
アルヴァルトが苦笑しながら見回しても、やはり誰も答えない。
「まあいい。意見がないなら――」
「――あります」
その言葉とともに、広間の後方から一人の少女が歩み出た。
グレイロード家の長女、エリシア・グレイロードだ。父の前まで進むと、机の上に広げられた地図へ目を落とし、静かに口を開いた。
「その作戦では、領地を維持できません」
「……そう思う理由を聞こうか」
アルヴァルトは興味深そうに娘を見る。
「兵を動かすこと自体は可能です。ですが、問題は攻め込んだ後です。前線へ食料を運ぶための補給路が必要になりますし、占領した村にも兵を置かなければならない。街道の維持や負傷者の補充にも費用がかかります。奥へ進めば進むほど補給線は長くなり、その分だけこちらの負担も大きくなる」
エリシアは地図の上を指でなぞりながら続けた。
「しかも、アルデン家は守る側です。こちらが攻め込めば、国境防衛に回している兵を戻すでしょう。砦に籠もられれば、こちらの消耗はさらに増える。今のグレイロード領には、それを支え続けられるだけの余力がありません」
「なら、短期間で決めればいい」
「短期間で終わる保証がありません」
エリシアは即座に答えた。
「今の領地は、すでに余裕がないんです。農村では税を払えずに土地を捨てる者も出ている。ここで戦費を捻出するためにさらに徴税すれば、農民は減り、来年の収穫も落ちるでしょう。そうなれば食料も税収も減る。兵を増やしたくても人がいない、食料を集めたくても作る人間がいない――そんな状態になれば、戦争を続けるどころか、今の領地を維持することすら難しくなります」
エリシアはそこで一度言葉を切り、父をまっすぐ見た。
「私は、勝てないと言っているわけではありません。仮にアルデンに勝てたとしても、その後に手に入れた土地を維持できなければ意味がないと言っているんです」
エリシアが言い切ると、広間は静まり返った。家臣たちは息を潜めるように二人の様子を見守り、アルヴァルトもすぐには答えなかった。手にしたグラスをゆっくりと回しながら、娘の言葉をしばらく考えている。
「……なるほど」
ようやく口を開いたアルヴァルトの声には、怒りも苛立ちもなかった。
「お前は、ずいぶん先まで考えているんだな」
「領主なら、当然です。今あるものをどう維持するかまで考えなければ、領地は続きません」
「だが、それがお前と私の違いだろう」
アルヴァルトは地図へ視線を落とした。
「お前は今あるものを守ろうとする。私は、その先に何があるかを見ている」
「……そのためなら、今あるものを削っても構わないということですか?」
「削るというより、使うだけだ」
アルヴァルトは淡々と答えた。
「金が必要なら集めればいい。食料が必要なら持ってこさせればいい。兵が足りないなら増やせばいい。方法はいくらでもある」
「その負担を、誰が背負うと思っているんです?」
「領民だろう」
あまりにも当然のことのように言われ、エリシアの眉が動く。
「領民は税を納める。その代わりに土地を使い、領主の庇護を受けて暮らしている。戦争になれば、兵を出す。それが領地というものだ」
「でも、それでは領民が持ちません」
「持たせればいい」
「父上……」
エリシアの声に、初めて苛立ちが混じった。
「人には限界があります。土地も同じです。取れば取るほど増えるわけではありません。働く人間が減れば収穫も減る。生活できなくなった者が逃げれば、税を取りたくても取る相手がいなくなる。そこまで分かっていて、どうして――」
「だから、それがどうした?」
アルヴァルトが静かに言葉を挟むと、エリシアは思わず口を閉じた。そんな娘を気にする様子もなく、アルヴァルトは地図へ視線を落としたまま続ける。
「人が減ったなら、別の人間を入れればいい。荒れた畑なら、また耕せばいい。金が足りなくなったなら、別のところから取ればいい。領地というのは、そうやって動かしていくものだろう」
その言葉には、領民への侮りすら感じさせる冷たさがあった。
「父上は……領民を何だと思っているんですか?」
エリシアが問いかけると、アルヴァルトは少し不思議そうに首を傾げた。
「何だと言われてもな。領地を維持するために必要な人間だ。それ以外に、何かあるのか?」
あまりにも淡々とした答えに、エリシアは言葉を失った。アルヴァルトはそんな娘の様子を気にすることもなく、再び地図へ目を落とすと、アルデン領の上を指でゆっくりとなぞっていく。
「見てみろ。農地も広い。水も豊富で、主要な街道まで通っている。あれだけの土地を手に入れれば、今より領地は大きくなる。税収も増えるし、商人も集まるだろう。今のグレイロード領が抱えている問題だって、いずれは解決できる」
「だから、そのために戦争をするんですか?」
「そうだ。欲しいものがあるなら、手に入れに行く。それだけのことだろう」
アルヴァルトは何でもないように答えた。
「領主だからといって、今あるものを守って満足している必要はない。もっと土地が欲しい、もっと金が欲しい、もっと力が欲しい――そう思うなら、そのために動けばいい。アルデン家が持っているなら、こちらが手に入れればいいんだ」
「……たとえ、そのために領民が苦しむことになっても?」
「戦争をする以上、苦しくなる者が出るのは仕方がないだろう」
アルヴァルトはそう言ってワインを口へ運んだ。その態度には、罪悪感どころか迷いすらない。
「それを避けようとして何も手に入れられないほうが、私は愚かだと思う。領地を広げれば、いずれ今より多くのものを得られる。なら、その途中で多少の負担が増えるくらい、大した問題ではない」
「……父上にとっては、そうなんですね」
アルヴァルトは答えず、再び地図へ目を落とした。指先がアルデン領の上をゆっくりとなぞっていく。肥沃な農地、主要街道、豊かな水源――そこに暮らす人々ではなく、その土地から得られるものだけを見ているようだった。
「欲しいなら、取りに行く。それだけだ。難しく考える必要なんてないだろう?」
アルヴァルトはそう言うと、何事もなかったかのようにワインへ口をつけた。その様子を見つめながら、エリシアはそれ以上何も言えなかった。
(……この人は、もう止まらない)
そう思ったとき、ふと幼い頃の記憶が蘇る。凶作の年、父は自ら村へ足を運び、収穫の減った畑を見て回っていた。生活に苦しむ家には領の備蓄を回し、税を軽くするよう家臣へ命じたあと、村人たちに「今年は大変だったな。来年は少しでも楽にしてやろう」と声をかけていた。
あの頃の父は、領民のことを気にかけていた。エリシアにとって、それが当たり前の父親の姿だった。だからこそ、目の前にいる父との違いが、どうしても理解できない。
いつから変わってしまったのだろう。あの優しかった父が、いつから土地や金のことばかりを見るようになったのか。エリシアはいくら考えても、そのきっかけを思い出すことができなかった。
(……昔の父は、こんな人じゃなかったのに)
それからしばらくして、グレイロード領では税が引き上げられた。三割だった徴税率は五割になり、やがて八割にまで達する。農村から納められる作物は減り、市場からも少しずつ商品が消えていった。それでもグレイロード家の屋敷だけは変わらず、夜になれば明かりが灯り、十分な料理が食卓に並んでいた。
そんなある日、エリシアのもとへ一枚の報告書が届く。
徴税不能、餓死、逃亡。短い言葉と数字だけが並んでいたが、その件数は以前とは比べものにならないほど増えていた。書面だけでは分からない――そう考えたエリシアは、自ら報告のあった村へ向かった。
村へ入った途端、エリシアは足を止めた。人影は少なく、荒れた畑の向こうには煙の上がっていない家がいくつも並んでいる。道端では痩せた子どもたちが身を寄せ合い、村全体が息を潜めているようだった。
「エリシア様……どうして、こんなところへ?」
道端にいた女がエリシアへ気づき、疲れた様子で頭を下げる。
「報告書を見たの。徴税が難しい家が増えていると聞いて、実際の状況を確かめに来ました」
「……見ていただければ分かると思います」
女が視線を向けた先では、若い母親が幼い子どもの身体を抱き起こそうとしていた。
「お願い……起きて。少しでいいから、食べてよ……」
何度呼びかけても、子どもはかすかに身じろぎするだけだった。
「この子は?」
エリシアが尋ねると、母親は泣きそうな顔で答えた。
「昨日から何も食べていないんです。食べさせてあげたいんですけど……もう家に残ってなくて」
「去年の収穫は?」
「ほとんど納めました。冬を越す分くらいは残せると思っていたんです。でも、それでも足りないと言われて……」
そこへ近くにいた男が口を挟んだ。
「うちも同じだよ。家畜を売って、農具まで売った。それでも税には届かなかった。もう何を出せばいいのか分からない」
「税を払えなかった家には、どうしているんです?」
「取り立てが来る。払えなければ、残ってるものを持っていかれる」
男は荒れた畑へ目を向けた。
「だから、みんな先に売っちまうんだ。家畜も、道具も、少しでも金になるものもな。それでも払えない家は……もう何も残らない」
「領の備蓄から食料を回すことは?」
エリシアが尋ねると、女は小さく首を振った。
「去年までは、少しくらいなら分けてもらえました。でも今年は兵に回す分が必要だからって……村にはほとんど来てません」
「……そう」
その返事を聞いたエリシアが言葉を失っていると、少し離れたところから杖をついた老人がゆっくり近づいてきた。
「お嬢様……お願いがあります」
「何でしょう?」
「次の税だけでも、少し待っていただけませんか。このままでは本当に冬を越せません。畑もこの有様で、次の収穫まで何を食べて生きろというんです」
「どれくらいなら、用意できそうですか?」
エリシアが尋ねると、老人は苦しそうに笑って首を振った。
「……分かりません。もう、何も残っていませんから。収穫した麦はほとんど納めましたし、残った分も家族で食べるために必要だった。家畜も農具も売りました。それでも税には届かないんです。もう、これ以上はどうしようもありません」
「…………」
エリシアが言葉を失っていると、少し離れたところにいた男が荒れた畑へ目を向けたまま、低い声で口を挟んだ。
「うちも同じだよ。一昨日なんて、隣の家の爺さんが死んだ。食うものがなくてな。向かいの家の娘も昨日から寝込んだままだし、薬を買う金なんて誰も持ってない」
男は乾いた笑いを浮かべる。
「だから、もう逃げようって話も出てるんだ」
「逃げる?」
「ああ。ここにいても食えない。なら、別の領へ行くしかないだろ」
「でも、土地は?」
エリシアが思わず尋ねると、男はしばらく黙ったあと、荒れた畑を見ながら答えた。
「土地があったって、そこで生きていけなきゃ意味がないだろ」
男の言葉に、周囲の村人たちも黙り込んだ。誰も反論しない。エリシアは手にしていた報告書へ目を落とす。そこには「徴税不能」「餓死」「逃亡」と、いくつかの短い言葉と数字が並んでいた。
これまでなら、それはただの報告でしかなかった。けれど今は違う。「徴税不能」は空になった納屋や売り払われた家畜であり、「餓死」は目の前で動かなくなった子どもを意味している。そして「逃亡」は、住み慣れた土地を捨ててでも、生きる場所を探そうとしている人々のことだった。
「……お嬢様」
先ほどの老人が、もう一度エリシアへ声をかける。
「私たちは……これから、どうすればいいんですか?」
エリシアは口を開きかけたものの、何も言えなかった。領主の娘として、何か答えなければならない。けれど、ここで「大丈夫」と言うことも、「何とかする」と約束することもできない。ただ、手にしていた報告書を強く握り締めた。
ーーー
グレイロード領では、その後も状況が悪化していった。税を払えず土地を捨てる農民は増え、食料も少しずつ不足し始めている。それでもアルヴァルトは戦争を止めず、必要な兵も金も領民からさらに集めようとしていた。
そんな状況の中で、次代の当主となるはずだったルシアン・グレイロードは、とうに自分から何かを変えることを諦めていた。
昼間から酒を飲み、私室に閉じこもって過ごす。エリシアが訪ねても、ルシアンは面倒そうに顔を上げるだけだった。
「……なんだ、エリシアか」
掠れた声でそう言いながら、手にしていた酒瓶を傾ける。残っていた酒を飲み干すと、ルシアンは椅子へ深く身体を預けた。
「聞いたか? また税が上がるらしいぞ」
「……」
「いやぁ、すげぇよな、親父。村から最後のパンまで巻き上げて、それでも足りねぇんだからな」
ルシアンは乾いた笑いを漏らしながら酒瓶を傾ける。笑っているはずなのに、その目にはもう怒りも焦りもなく、何を言ったところでどうにもならないとでも言うような諦めだけが残っていた。
「……もう、どうでもよくね?」
ルシアンは机の上にあった金貨を指で弾いた。硬貨は軽い音を立てて床へ転がり、ルシアンはそれを拾おうともせず、椅子へ深く身体を預ける。
「どうせこの家、終わるんだよ。だったら、今のうちに遊んだほうが得だろ。真面目にやったって、親父は止まらねぇし、家臣は誰も逆らわねぇ。兵だって、もう金のことしか見てない」
「兄上……」
「領民だって同じだ。あとは、どれだけ長く死なずにいられるかってだけだろ」
ルシアンは酒瓶を眺めながら、乾いた笑いを漏らした。
「だから、お前もそんなに頑張るなよ。どうせ最後には、家の都合で使われるんだからさ」
エリシアの足が止まる。
「……何の話?」
「は?」
ルシアンが目を瞬かせる。
「知らねぇのか?」
その反応がよほど意外だったのか、ルシアンは次第に口元を歪め、吹き出すように笑った。
「おいおい……マジかよ。本人だけ聞かされてねぇのか」
ふらつきながら立ち上がると、酒臭い息を吐きながらエリシアへ近づいていく。
「隣国のサイモン家。お前、あそこに嫁ぐらしいぞ」
「……」
エリシアの表情がわずかに強張った。
サイモン家は隣国でも悪名の絶えない成金貴族で、金と兵の力を背景に勢力を広げてきた一族だ。当主は五十を過ぎても若い女を囲っているという噂があり、エリシアにとって決して望ましい相手ではない。
だが、ルシアンはそんな事情など気にする様子もなく、むしろ面白そうに笑った。
「まあ、いいじゃねぇか。相手は歳食ってるけど、金だけはあるらしいぞ。機嫌でも取ってりゃ、贅沢くらいはできるだろ」
「……」
「お前、顔はいいんだからさ。適当に愛想笑いでもしてりゃ、案外うまくやれるんじゃねぇか?」
エリシアは何も答えず、ただ目の前にいる兄を静かに見つめていた。怒りも失望も、もうなかった。昔なら確かに兄だったはずの人間が、いつの間にか自分の知っている場所から遠く離れてしまったような、そんな感覚だけが残っていた。
ルシアンもその視線に気づいたのか、一瞬だけ笑みを止めた。だが、すぐに酒瓶を持ち上げると、誤魔化すように肩をすくめる。
「……そんな顔すんなって。これも家のためだろ?」
「……」
エリシアは答えなかった。何を言っても、もう届かない。そう思ったエリシアは静かに踵を返し、そのまま部屋を出ていく。
「おい、エリシア――」
背後から呼び止める声が聞こえたが、エリシアは足を止めなかった。直後、酒瓶が壁へ叩きつけられ、派手な音が部屋に響く。それでも、エリシアは振り返らず、そのまま廊下の先へ歩いていった。
※今回は本編のストーリーに直接関わる内容が少なめの過去編です。興味のない方は読み飛ばしていただいて大丈夫です!




