領境の向こうへ
今回はエミリア視点です
SIDE エミリア・グレイロード
封鎖はまだ続いていた。
昨日からの騒ぎで町には落ち着かない空気が漂い、通りには普段より多くの騎士や兵士が配置されている。足止めされた商人たちは不満を漏らし、町を出ようとしていた者たちも、いつ解除されるか分からない封鎖に苛立ちを募らせていた。
そんな中、騒ぎから離れた裏路地の奥では、エリシアが崩れかけた石壁に背を預け、荒い息を繰り返していた。
「……っ、はぁ……っ……」
限界まで走り続けた身体は重く、息を吸うたびに肺が焼けるように痛む。それでもエリシアは倒れそうになる身体を壁で支え、必死に意識を繋ぎ止めていた。
(……ここまで来た)
周囲に追手の姿はない。しかし、それだけで安心できるほど甘い状況ではなかった。
昨日から何度も居場所を変え、路地裏へ身を潜めても、追手はまるで居場所を知っているかのように現れた。その理由に思い当たったとき、脳裏に昨日の光景が蘇る。
騎士や兵士に追われていた最中、彼らを指揮していた男が何かを呟き、こちらへ手を向けた。
「……あれか」
エリシアは乱れた呼吸を整えながら、そのときのことを思い返した。
(追跡印……)
一度刻まれれば、ただ距離を離しただけでは振り切れない。しかも、アルデン家騎士団には追跡術を得意とする副隊長がいる。
(あいつに追われているなら……簡単には逃げ切れない)
「……最悪ね」
どれだけ身を隠しても、稼げるのは時間だけだ。追跡印を消せない以上、追跡印の届かない場所まで逃げるしかない。
だからこそ、エリシアは領境の向こうにあるリューベルク領を目指していた。そこは母の実家であるリューベルク家が治める土地であり、領地へ入ってしまえば、アルデン家の騎士団も簡単には踏み込めない。
(……あそこまで行けば、今度こそ逃げ切れる)
そう自分に言い聞かせ、エリシアは壁から身体を離した。しかし、一歩踏み出した瞬間、膝から力が抜けて視界が白く滲む。
「……まだよ」
咄嗟に壁へ手をつき、倒れそうになる身体を支える。震える足に力を込めても、思うように身体は動かなかった。
「こんなところで……倒れてたまるもんですか……!」
領境まではまだ遠い。それでも、ここで立ち止まれば再び追いつかれる。
その思いだけを支えに、エリシアはふらつく足を一歩ずつ前へ運んでいった。
ーーーーー
SIDE ヴァルター・グレン
――その頃、町の中心では騎士たちの動きが変わり始めていた。
「南区画をもう一度調べろ! 裏路地も見落とすな!」
騎士たちの間を命令が飛び交う中、馬上のアルデン家騎士団副隊長、ヴァルター・グレンは静かに目を閉じ、エリシアへ刻んだ追跡印に意識を集中させていた。
しばらくすると、遠くから微かな反応を捉えたヴァルターはゆっくりと目を開き、南西へ視線を向ける。
「……動いたな」
「反応があったのですか?」
「ああ。南西だ」
「南西……。まさか、町の外へ向かっているのでしょうか?」
「おそらくな。封鎖を抜けるつもりらしい」
報告を聞いた騎士が、わずかに眉を寄せる。
「ですが、負傷しているはずでは?」
「だからこそ、今のうちに捕らえる」
ヴァルターは周囲に集まっていた騎士たちを見回した。
「南西側へ騎士を集めろ。兵士は現在の配置を維持し、他の逃走経路を塞げ」
「はっ!」
命令を受けた騎士たちが次々と馬へ跨り、南西へ向かって走り出す。その間にも、残った兵士たちは配置を変え、逃走経路を塞いでいく。
ヴァルターも馬を走らせながら、追跡印の反応を探った。
(……まだ近い)
エリシアがどの道を選んでいるのかまでは分からない。だが、追跡印が反応している以上、そう遠くには行っていない。
「南西の出口を押さえろ!」
「はっ!」
騎士たちが速度を上げる。
町の外へ続く道は、もうすぐそこだった。
ーーーー
その頃、エリシアは街道を走っていた。肺は焼けるように痛み、足も限界に近づいていたが、止まれば捕まる――その一心だけで、重くなった身体を引きずるようにして前へ進み続ける。
背後からは馬の蹄と鎧の擦れる音が近づいていた。それでも領境はもうすぐだ。この先の森を抜ければ、リューベルク領との境界に辿り着ける。
(……もう少し)
そう思った矢先、街道の先に森の入口が見え、エリシアはそこに残された不自然なほど多くの足跡と蹄の跡を目にして足を止めた。
(……待ち伏せね)
「……やっぱり、簡単には通してくれないわよね」
苦笑しながら顔を上げると、森の入口をアルデン家の騎士たちが塞いでいた。
正面に三人、その左右に一人ずつ、さらに少し離れた場所には全体を見渡す騎士が一人。六人が隙なく配置され、逃げ道を完全に潰している。
(……綺麗に塞いでる)
正面を抜こうとすれば左右から挟まれ、後ろへ戻れば追手に捕まる。最初から、ここで仕留めるつもりだったのだろう。
やがて中央にいた男が一歩前へ出た。傷の残る鎧に、長い戦いをくぐり抜けてきたことを思わせる鋭い目をしている。男は剣に手をかけることもなく、ただエリシアをまっすぐ見据えた。
「エリシア・グレイロードだな」
「分かっていて聞くの?」
「念のための確認だ。こちらも人違いで斬り合うような真似はしたくないからな」
「ふふっ、律儀なのね」
「そういう性分なんだ」
エリシアは小さく笑いながら周囲へ視線を走らせる。正面には盾を構えた三人、左右にも騎士が一人ずつ配置され、背後からは追手の気配が近づいていた。
(……どこにも隙がない)
「随分、大勢で迎えてくれるのね」
「お前を逃がすつもりはないからな。ここを抜ければリューベルク領だ。そこまで行かれると、こちらとしても困る」
「あら、ちゃんと分かってるのね」
「当然だ」
男は淡々と答え、それからエリシアの剣へ目を向けた。
「だからこそ、武器を捨てて投降しろ。抵抗しなければ、無用な傷は負わせない」
「投降したら、どうなるの?」
「俺には決められない。上の判断次第だ」
「……随分と正直なのね。せめて助けてやるくらい言ってくれてもいいのに」
「できない約束をするつもりはない。それに、言ったところでお前は信じないだろう」
「ふふっ。それもそうね」
エリシアは笑みを浮かべたまま、もう一度周囲を見回す。男の言う通り、状況はどう見ても不利だった。服には血が滲み、呼吸も乱れている。ここまで逃げ続けてきたことで疲労も溜まっていたが、それでも戦う意志だけは消えていなかった。
「その傷で、まだ戦うつもりか?」
「他に道があるなら、教えてほしいわね」
「こちらは六人だ。背後からも追手が来ている。今のお前が一人で突破できる状況じゃない。無駄に死ぬ必要はないだろ」
「ずいぶん親切なのね」
「状況を伝えているだけだ」
「……そういうところ、嫌いじゃないわ」
エリシアはそう言って小さく笑い、ゆっくりと剣を握り直した。
「でも、捕まるつもりはないの」
「……そうか」
男の表情がわずかに険しくなる。
「なら、最後にもう一度だけ言う。剣を捨てろ。抵抗しなければ、今ここで命を奪うことはしない」
「ええ。そのほうが話は早いわ」
エリシアが剣を構えると、男もゆっくりと剣を抜いた。鋼の擦れる音が森の入口に響き、周囲を囲んでいた騎士たちも一斉に武器を構える。
「……後悔するぞ」
「もう十分してるわ。今さら一つ増えたところで、大した違いじゃないもの」
「……強情な女だな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
男は小さく息を吐き、剣を構えた。
「全員、構えろ。逃がすな」
「はっ!」
号令と同時に前列の三人が踏み込み、盾と槍で正面を固める。左右の騎士たちも距離を詰め、エリシアを包囲するように逃げ道を塞いだ。昨日まで何度も逃走を許しているだけに、今回は最初から隙を作るつもりがないらしい。
(……なるほど。昨日からちゃんと学習してるわけね)
エリシアは迫ってくる騎士たちを見ながら、素早く陣形を観察した。正面は盾、左右には槍、背後には追手が迫っている。このままでは、いずれ完全に囲まれる。
(正面からは無理。でも――)
前へ出た盾に合わせて、右側の槍がわずかに外へ流れる。
(……あそこなら)
エリシアは迷わず地面を蹴った。
「なっ――!?」
正面の騎士へ踏み込むと、振り下ろされた盾を剣で受け流し、その勢いのまま身体を右へ滑らせる。盾を構えた騎士の重心が崩れ、陣形にほんのわずかな隙間が生まれた。
「押し戻せ! 中へ入れるな!」
騎士の声が響くが、エリシアは止まらない。崩れた盾の脇を抜けて一気に懐へ潜り込み、左右から突き出された槍の間を身体を捻ってすり抜けた。
槍先が頬を掠め、熱い痛みとともに血が一筋流れる。
「まずい、抜かれるぞ!」
「左右から回れ!」
騎士たちが慌てて陣形を立て直すより早く、エリシアは生まれた隙間へ身体を滑り込ませ、そのまま一気に駆けた。
(いける――!)
そう思った、その瞬間だった。
「――《剛腕》」
低い声が横から響く。
「――っ!?」
気づいたときにはヴァルターがすぐそばまで迫っていた。振り向く暇もないまま、その拳がエリシアの脇腹へ叩き込まれる。
「――ぐっ!?」
鈍い衝撃が身体の奥まで突き抜け、脇腹の傷と肋骨に激痛が走った。息が詰まり、エリシアの身体が大きくよろめく。
「かはっ……!」
そのまま倒れそうになったが、エリシアは咄嗟に剣を地面へ突き立て、辛うじて身体を支えた。
「……っ、やってくれるじゃない……!」
荒い息を吐きながら顔を上げると、ヴァルターが目の前に立っていた。
「それだけ食らって、まだ立つか」
ヴァルターはわずかに眉を寄せた。
「……本当にしぶといな」
「そっちこそ……昨日から、ずいぶん私に執着してくれるじゃない」
「任務だからな。お前を逃がせば、俺たちの失態になる。それだけの話だ」
「でしょうね!」
エリシアは震える足へ力を込め、剣を握り直す。
「でも――捕まるつもりはないわ!」
再び地面を蹴った。脇腹の痛みに視界が揺れるが、構っている余裕はない。崩れた陣形の隙間へ飛び込むと、騎士たちが慌てて動き出した。
「右を塞げ! そっちへ回り込ませるな!」
「駄目です、間に合いません!」
「なら街道側へ回れ! 領境へ向かうはずだ、先回りしろ!」
エリシアは迫る騎士たちを振り切り、そのまま街道脇の森へ飛び込んだ。
「森へ入ったぞ! 追える者は追え!」
「この足場では無理です! 馬も入れません!」
「なら街道へ回れ! 領境の手前で待ち伏せするんだ!」
背後から怒号と蹄の音が追ってくる。それでもエリシアは振り返らず、残された力を振り絞って森の中を駆けた。
「……っ、まだ……!」
荒い息を吐きながら走り続けると、やがて木々の向こうに領境を示す標が見えてくる。
(……もう少し)
最後の力を振り絞り、エリシアはそのまま境界へ向かって駆けた。そして、領境を踏み越えた瞬間――。
「――止まれ!」
背後から鋭い声が飛ぶ。
しかし、エリシアは振り返らなかった。脇腹を押さえながらも足を止めず、そのまま森の奥へと進んでいく。
「もういい。それ以上、進むな」
後を追おうとした騎士を、ヴァルターが片手で制した。
「ですが、副隊長……!」
「追うな。ここから先はリューベルク領だ」
ヴァルターは領境の向こうを睨みながら、短く続ける。
「領境不侵法がある。戦争でもない限り、他領へ私兵を入れることはできない」
「ですが、相手はグレイロード家の残党です。今ならまだ追いつけるかもしれません」
「それでも駄目だ」
ヴァルターは即座に言い切った。
「今回の命令は、グレイロード家の残党を追うことだ。リューベルク領まで追えとは言われていない。勝手に踏み込めば、今度は俺たちが問題になる」
「……領主同士の問題に?」
「ああ。たった一人を追っただけでもな」
騎士は悔しそうに領境の向こうへ目を向けた。
「……あのまま逃がしていいのでしょうか」
「いいわけがない。だが、追えないものは追えない」
ヴァルターは短く息を吐く。
「ここで追跡を打ち切る。領境を越えられたことも含めて、そのまま上へ報告する」
「……了解しました」
騎士たちが撤収の準備を始める中、ヴァルターも踵を返しかけた。だが、ふと思い出したように足を止める。
「……そういえば、もう一つ残っていたな」
「もう一つ、ですか?」
「ああ。あの娘を追うことに気を取られていたが、グレイロード家の息子の行方も確認する必要がある」
「では、これから捜索を?」
「そうだ。あの男が生きているなら、放置しておく方が厄介だ」
「分かりました。すぐに人を回します」
「頼む。手掛かりが残っている可能性もある。町の外も含めて、もう一度洗い直せ」
「了解しました!」
騎士たちが動き始めるのを確認すると、ヴァルターは最後にもう一度だけ領境の向こうへ目を向けた。だが、すでにエリシアの姿は木々の奥へ消えている。
「……運が良かったな」
小さく呟き、ヴァルターは右手をわずかに動かす。それまで追跡印を通して感じていた微かな気配が静かに途切れたのを確認すると、今度こそ踵を返し、騎士たちの後を追った。
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